矢野靖人(演出家、shelf代表)
- 長久手市文化の家×三重県文化会館合同プロデュース企画「三島ル。」
- 烏丸ストロークロック「仇野の露」(あけぼの座スクエアこけら落し公演)
- iaku 「人の気も知らないで」(SENTIVAL!2012参加作品)
自分が参加した企画を挙げるのはルール違反かもしれませんが、12月1-2日@長久手市文化の家、8-9日@三重県文化会館で行われた「三島ル。」はとても良質な企画でした。二つのカンパニーが同じ演目を一つ、別演目を一つ合計3戯曲を4作品、2劇場で上演する企画。非常に知的且つ身体的な知の歓びを味わえる企画でした。もう一つは、同じく三重県津市にあるあけぼの座スクエアこけら落しで見た烏丸ストロークロックです。今年は東京以外の地域での作品に当たりがありました。iakuも大阪の劇団ですね。両劇団とも非常に良質な会話劇でした。一方で「三島ル。」参加作品は、特に第七劇場は、様式性、実験性の高いハイアートな作品がとても刺激的でした。本当は夏にノルウェーにイプセンフェスティバルに公費で観客参加してきて、そこで観た作品群が物凄く自分の人生に大きな影響を与えたのですが、ちょっとうまく感想が書けないので割愛します。あ、あと番外で東京で観たモナカ興業「道程」もスタイリッシュで、かつ心の奥底をえぐる部分もあってとても良かったです。shelfでは様式性の強い作品しか作らないので、真逆のものに惹かれた一年でした。
(年間観劇数 約60本)
山崎健太(演劇研究、劇評)
- The end of company ジエン社「キメラガール アンセム/120日間将棋」
- サンプル「女王の器」
- contact Gonzo「Abstract Life《世界の仕組み/肉体の条件》」
(順不同)
新しい世界を見せてくれた3本を。ジエン社はいわゆる「演劇」の枠組みの中で、演劇にしかできない新しい可能性を示してくれた。一方、サンプルは「演劇」の形を借りながら全く新しい知覚体験をもたらしたように思う。作家俳優だけでなく照明音響舞台美術などのスタッフも含めたチームとして相互に作用しあう創作の形が、たしかな成果として「世界」を立ち上げていた。劇場で上演されながら生身の肉体の登場しないcotact Gonzoの音響作品もまた、未知への扉を開いてくれた。他にはSPAC『マハーバーラタ ~ナラ王の冒険~』、ティム・ワッツ『アルヴィン・スプートニクの深海探検』、ニブロール『see/saw』などがよかった。今年はワンダーランドで4本、F/Tのブログキャンプで6本の劇評を書かせていただいた。来年はさらにいい作品に出会い、さらに多く書いていければと思う。Twitter:@yamakenta
(年間観劇数 約100本)
山崎博保(フリーター)
- 物忌み団「死にゆく血統」
- 突劇金魚「夏の残骸」
- 西一風「めばえ」
三つの内二つは、実は学生演劇だ。この世代からヴィヴィッドな今の風潮が感じ取れるので敢えて選んだ。それは、死や悪やタブーといった日常の外部への「侵犯」を、意識する事なく(サドやジュネの悪の文学にはまだあった)、軽快に飛び越えて頓着しない自然体として劇表現している事だ。特に、突劇金魚では「自然な食人」が描かれてる。彼等演劇人は、日常では健全な常識人だろうが、底流では「社会的なもの」や「人間」(ヒューマニスム)の明るい崩壊が始っている様だ。けどそれが異常には映らない。唯の不規則の氾濫なのだ。これがネガティブに現れると、今問題になっている陰湿なイジメになるのかもしれない。自己表現する演劇は、最後まで「人間」を守る防波堤かもしれない。新人類という言葉はもう古いけど、何かが変わって行く予感のする年でした。今年は、たくさんの陽気な宇宙人(山崎哲『エイリアンの手記』の反対、無重力の自由人)を観た気がする。
(年間観劇数 134本)
梅田 径(早稲田大学大学院博士後期課程、日本学術振興会特別研究員DC2)
- 三条会「ひかりごけ」
- 森キリン「籠とプール」
- ポップンマッシュルームチキン野郎「こい!ここぞというとき!」
2012年は、ただ面白かったなぁと思って劇場の外の空気を吸ったことだけをしんみり覚えている事が多くて、作品自体が記憶に強く残ったものは稀だったような気がする。その中で、三条会の「ひかりごけ」は武田泰淳の名作を舞台化したもの。終わってから二、三分席から立ち上がることもできないほど衝撃的な作品で、2012年の最高傑作といってもいい。
一方森キリン「籠とプール」は短編二作。観劇当初は面白くなく感じた。青年団系で現代口語演劇を忠実になぞった作風は、冗漫で退屈でもあるだろう。それにも関わらず、ふと記憶をたぐって思いだすのは、暗い壁面をうっすらと照らすライトの明かりや俳優たちのけなげな美しさで、その儚く弱い世界感を守ってゆっくり成長してほしい。大成するにはもう少し時間がかかるだろうけれども。
ポップンマッシュルームチキン野郎「こい!ここぞというとき!」は何も考えずに爆笑し続けられるロードムービー風のエンターテインメント。演劇的な部分だけではなく、俳優が「素」に戻ってしまうような、バラエティ的な要素、ふと、90年代ぐらいによく見ていたバラエティ番組みたいなあの空気は、僕にとってはもう「懐かしい」ものでこれを劇場で見られたことがうれしかった。(年間観劇数 25本)
山田ちよ(演劇ライター、サイト「a uno a uno」)
- 鵺的「荒野1/7」
- コスモル「グレイトフル・ティアーズ」
- 緑慎一郎とミユキーズ プロデュース「寿歌」
鵺的「荒野1/7」は、横一列に並んで緻密な言葉を投げ合う、という少し変わったスタイルで観客を引き込みながら、家族とは何か、という普遍的なテーマが浮かび上がる。作者の個人的事情を踏まえた内容というが、事実に裏打ちされた話の面白さより、劇の仕立て方の技が優っていると感じた。コスモル「グレイトフル・ティアーズ」は裏社会に根を張る女を中心に事件が展開する。12年前の旗揚げ公演では「訳の分からない芝居だ」と思った記憶があり、その印象と比べると分かりやすい。演技にも展開にも少し粗っぽさがあるのだが、それがこの劇団の特色のようにも思われる。終演後、主宰の石橋和加子に「かつての小劇場風でしょう」と同意を求められ、うなずいた。緑慎一郎とミユキーズの「寿歌」は神奈川県内の演劇人が、この作品のために集まった。念願の役だったというキョウコを演じた岡本みゆきは、わざとらしさを感じさせない演技で、役の味を引き立てた。
(年間観劇数 約110本)
藤原央登(劇評ブログ「現在形の批評」主宰、[第三次]「シアターアーツ」編集部)
- 村川拓也「ツァイトゲーバー」(再演)
- 劇団はえぎわ「I’m (w)here」
- うさぎストライプ「おかえりなさい II」
東日本大震災と福島第一原子力発電所事故からまもなく2年を迎えようとしている。「以後」の世界に生きていることは明白でありながら、そのことを意識することは少なくなっている。歴史のメルクマールとしての「3.11」は、早くも記号として流通してしまった。いや、そんなことは去年から、もっと言えばあの日からほどなくした時点で分かっていたことである。そのこと自体を含めて、我々は「3.11」との距離感をどこに設定すべきか。「当事者性」という言葉がいまだ尾を引きずっている。
演劇が十全にそのことについて答えを与えることはないだろう。ただ、舞台を創造する者・批評する者は、少なくとも「演劇の当事者」になることはできる。その真摯で倫理的な振る舞いの中から、「3.11」以後 の諸問題のいくつかが剔抉される。記号化するあの日以降の世界を手触りのあるものにする舞台芸術とは、演劇の問題とも地続きに違いない。ここに挙げた三作は、そう思わせた作品である。
(年間観劇数 約250本)
落 雅季子(会社員、個人ブログ「机上の劇場」)
- パルコ・プロデュース「ヒッキー・ソトニデテミターノ」(作・演出 岩井秀人)
- ままごと「朝がある」
- 劇団烏航空「頭の上で鳥が飛ぶ」
一日、一週間、一か月。時間が経っても何度でも思い出して反芻する佳作に出会うことの多い年だった。また、明確なドラマを指向する演劇に、魅力ある作品がいくつかあった。岩井秀人の新作長編には、癒しがたい痛みと背中を押すような優しさが同居しており、物語る行為としての演劇に、新たな強度がもたらされる瞬間を見た。「朝がある」は、ひとり芝居という新たな境地で、孤高の作家性を昇華した柴幸男渾身の快作。劇団烏航空「頭の上で鳥が飛ぶ」は、とある島で首切り役人を努める武士を主人公に、人々との交流を丁寧に描いた時代劇。群像がひとつの結末に向かって、カタルシスの奔流を作り上げる脚本が秀逸だった。また、F/Tの演目にも印象深いものが多い。地点「光のない。」は照明と舞台美術が稀に見る相乗効果を生み、恐ろしいまでに荘厳。マレビトの会「アンテイゴネーの旅の記録とその上演」も、不思議な存在感で私の胸の一角を占め続けている。
(年間観劇数 75本)
福田夏樹(演劇ウォッチャー)
- ロロ「LOVE 02」
- 東京デスロック「再/生」
- 味わい堂々「宮本家」(企画シリーズお味見公演「ミヤモト味」より)
自分が演劇に何を求めているのか問い続けた1年であったが、結局のところ、演劇という一回性の芸術でしか成立しえない、奇跡のような場に出会いたいということなのだと、振り返って感じている。愛という奇跡の普遍性に迫った1.は本当に大好きだった作品。2.は、昨年、横浜でも観ていたが、全国を周って凱旋したからこその奇跡のような強度に、観劇後しばらく心が揺さぶられ続けた。3.は劇団員の宮本奈津美の自身の家族を扱った処女作で、だからこその奇跡みたいな高揚感があった。たまに出会えるこういう作品に出会いたくて、劇場に足が向いてしまうのだと思う。挙げられなかったが、もうひと作品として、快快の「Y時のはなしin児童館」。子どもたちの生き生きとした奇跡のような「今」を作品にできたのは、快快という奇跡のような集団だからこそだと思う。マームとジプシー藤田貴大の一連の作品は、挙げたらそれで埋まってしまうので、あえて挙げていない。
(年間観劇数 200本強)
三橋 曉(コラムニスト、個人ブログ a piece of cake! & ミステリ読みのミステリ知
らず)
- 中野成樹+フランケンズ「ナカフラ演劇展」
- TRASHMASTERS「背水の孤島」
- ロロ「LOVE02」
[次点] 城山羊の会「あの山の稜線が崩れてゆく」
順位ではなく、観た順(次点も含めて)。芝居の町東京に暮らす幸せをかみ締めながら、今年も一期一会を振り返りました。呻吟に呻吟を重ね、苦汁の選択となったベスト3です。といいつつ、アゴラ劇場での初演の印象も悪くなかったけど、ロロの「LOVE02」は、京都で見た再演に感銘を受けました。たまたま同時期に公演中だったユニット美人の「三国志」を観られたのもラッキーだったなぁ。そういえば、もう国内の再演は絶望的と勝手に悲観していたポツドールの問題作をキャッチしたのも、京都。まさに、ビバ、KYOTO EXPERIMENT! 翌月、東京でも観た「夢の城」は、あきらかに初演とは異なった感触があり、いい意味で6年前のものとは別作品になっていた。変わったのはこちらか、それとも三浦大輔か。贔屓のナカゴーが怒涛の快進撃を続けてくれているのも嬉しい限りで、(作・演出の)鎌田順也には、とりあえず、立ち止まったり、深く考えずに、行けるところまで行ってほしいと思う。
(年間観劇数 120本前後)
吉田季実子(大学非常勤講師)
- コクーン歌舞伎「天日坊」
- 宝塚歌劇団宙組「華やかなりし日々」
- 東京芸術劇場・テルアビブ市立カメリシアター国際共同制作「トロイアの女たち」
今年のコクーン歌舞伎は中村勘九郎主演の若い世代によるもので、若手の成長が大いに感じられ、来年勘三郎が戻ってきたらどのような化学反応が起きるのだろうかと楽しみにしていた。大歌舞伎はもちろんのこと、もう二度と勘三郎のコクーン歌舞伎を見られないのは非常に残念だし、寂しい。折しも題材の『天日坊』はアイデンティティーと継承をめぐる芝居だったので大変印象深い。役者のバックグラウンドを含めた舞台上での世界観の構築という意味においては『華やかなりし日々』で宝塚歌劇団を退団する大空祐飛が見せた男役という物語の終焉は見事であった。三カ国語での上演による『トロイアの女たち』は戦禍の最大の被害者が女性であるということを描きながらも、それでも誰よりもたくましく生き抜いていくのも女性であるという希望に普遍性を持たせていた。炎上するトロイアを背にそれでも歩き続ける三カ国の女優達演じる女たちの力強さが印象的であった。
(年間観劇数 25本)
田中伸子(演劇ライター、海外プロモーター ブログ「芝居漬け」)
- Port B「光のないII」
- キム・ファン「皆のためのピザ」
- クレタクール「女司祭—危機三部作・第三部」
(追加)原サチ子「ハノーファー⇔ヒロシマサロン」
奇しくも、今年記憶に残る3(4)本に選んだ作品全てが戯曲をベースに据えた舞台ではない。(テキストもその中で重要な役割を果たしてはいるが)
古典戯曲の優れた上演-tptの「地獄のオルフェウス」、SPAC・オマール・ポラス演出「ロミオとジュリエッと」-もあったが、今振り返って鮮明に思い出されるのが今回選んだ作品だ。
この国のこれからをイマジンする際に不可欠な重要課題である原発是非に関する問いをごく至近距離にまで近づけ具体的に示してくれた「光のないII」、演劇が劇場を出て社会と交わる可能性を示してくれた「皆のためのピザ」、目撃者としての観客という立場をもっとも刺激した「女司祭-危機三部作・第三部」、そしてユーモアと共に皆で一緒に考える場を与えてくれた「ハノーファー⇔ヒロシマサロン」。それらの現場にはこれからの時間へとさらに続いていく太い継続のラインが見えた。
(年間観劇数 280本 海外での観劇を含む)
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【注】
・記憶に残る3本は「団体(個人)+演目」を基本とした。必要に応じて劇作家、会場、上演日時などを追加した場合もある。
・団体のWebページがなかったり変更されたりするケースがあるほか、簡単な操作で各自が当該ページを検索できるようになったことを考慮して、今回は劇団や演目へのリンクは張らなかった。
・ツイッターのアカウント情報などはコメント末尾に掲載した。
・公演の画像情報は3本のうち最初の公演から。チラシ画像が入手出来なかったり先に掲載されている場合などはその次の公演から取り上げた。