平田オリザと青年団の世界を描いた想田和弘監督の「観察映画」、『演劇1』『演劇2』が、第34回ナント三大陸映画祭(2012年11月)のコンペティション部門で、「若い審査員賞」を受賞しました。この映画祭での上映について、フランスの映画批評サイトに掲載された映画評を、片山幹生さんが翻訳、提供してくださいました。
ワンダーランドでも昨年10月に、想田和弘監督のインタビューを掲載しています。>>
(編集部)
以下の『演劇1』『演劇2』の映画評は、フランスのアジア映画批評サイト《Sancho does Asia》に掲載されたAkatomyことトマ・ブルグ氏Thomas Bourgue[注1]による映画評の翻訳です。フランス語で書かれた原文は以下のサイトで読むことができます。http://www.sancho-asia.com/articles/theatre-1-theatre-2
この評は11月にナント市で開催された第34回三大陸映画祭[注2]での『演劇1』『演劇2』の上映によるものです。執筆者のブルグ氏は、この映画祭開催中に想田監督にインタビューも行っています。インタビューの内容も近日中に《Sancho does Asia》に掲載される予定です。
翻訳をこのサイトに掲載することについてはブルグ氏の許諾を得ています。
(訳者:片山幹生)
Je tiens à remercier Akatomy (M. Thomas Bourgue), l’auteur de ce beau compte rendu, de m’avoir permis de rendre public la traduction en japonais de sa critique sur ce site web.
Tokyo, le 7 janvier 2013
KATAYAMA Mikio
◎演劇のレッスン、人生のレッスン
Akatomy(Thomas Bourgue)(訳者:片山幹生)
1983年に平田オリザが結成した青年団は、世界で最もよく知られ、高く評価されている演劇カンパニーのひとつである。劇作家、演出家、プロデューサー、さらには演劇とコミュニケーションに関する教育者でもある平田オリザは、西洋演劇の影響を切り離し、〈現代口語演劇〉という革新的な演劇理論の実践に取り組んでいる。『選挙』(2007年)の監督である想田和弘が、その第3、4作目の観察映画(監督のコメントや解説がないドキュメンタリー作品)の題材として選択したのは、この人物と彼と活動をともにする俳優たちである。この作品は、現代日本演劇の世界をめぐる約六時間の旅となっている。
六時間という長さにひるんでしまう観客がいるかもしれない。しかしこの時間はすぐに過ぎてしまうだろうし、平田オリザの仕事を過不足なく伝えるにはこの長さが適切であることがわかるだろう。劇作と演出の両方を行う平田は、俳優の話す台詞のリズムとイントネーションに、時に目をつぶったまま、しかし常に注意深く耳を傾ける。決然とした口調で俳優に演技の修正を指示し、その指示内容が完全に再現できるようになるまで徹底した反復を強いる。写実的な演劇表現(そのリアリティは台本に完全なかたちで書き込まれているのだが)を成立させるためには、このような絶対的なコントロールが必要となることが、彼の稽古のやり方に示されている。平田が発言するたびに、その場で稽古が中断される。議論の余地はない。彼の指示はほとんど命令であり、劇団のメンバーはそれに黙って従う。自分たちの劇作家・演出家の見解に信頼を抱いているのだ。平田は稽古のなかで台詞を書き換え、自身の書いた脚本を読んで笑っている。平田の権威の大きさに、観客は最初ぎょっとするかもしれない。しかし眠気を催すような繰り返しの稽古の時間を映し出す想田の観察につきあっていくとわかるはずだ。平田が指示を与えるたびに、俳優たちの演技は目に見えてよくなっているのである。
『演劇』は同じ長さの二部から構成されている。第一部で焦点があてられるのは平田の世界である。すなわち彼が所有するこまばアゴラ劇場の世界が内側から観察され、稽古の場面からその終着点である作品の上演までが取り上げられる。第二部では、平田と外の世界との関係が問題となる。劇団を存続させるには財政的基盤が必要であり、彼はそのためさまざまな場に活動を広げていかざるをえない。演劇活動は作品の上演以外の現実的な側面ともかかわりを持つようになる。文化は単なる気晴らしではないのである。
『演劇』第二部で、平田は驚くべき実験に乗り出す。演技を行うようにプログラムされた本物のロボットと彼の劇団の俳優たちが共演する作品を手がけるのである。このロボットとの演劇でも平田の稽古のやり方は、男優や女優に対して行う稽古と変わりはない。沈黙の長さや台詞の間、口調の強弱に神経を配り、調整を行う。その結果にわれわれは戸惑わずにいられない。このロボット演劇のエピソードでは、俳優の演技における人間的な領域は何かということが問題になっている。そしてロボット演劇の成果は、平田の演劇理論の正しさを完全に裏付けるものとなった。平田は、役者がそれぞれの個人的経験から演技の要素を引き出すという考えを否定する。平田にとって、役者たちは何よりもまず戯曲に書かれている内容に沿って動くコマに過ぎない。想田はこのロボット演劇のエピソードの後に、日本人俳優を探しに劇団を訪れたフランス人の女性キャスティング・ディレクターの短いエピソードを続ける。彼女が探しているのはそんなに上手くなくてもいいけれども、強烈な身体的魅力を持つ役者である(ここで彼女が例として西島秀俊の名前を挙げたのは、少々辛辣だが)。平田は「そんな役者はうちにはいないよ」といらだった調子ではっきり述べる。このエピソードは平田の演劇観の表明によって締めくくられる。平田の演劇では役者の身体的特性を重視する考えはない。演劇とはすべてリズムであり、イントネーションであり、そして言葉である。身振りや服装はテクストの内容に従属するものであり、表面的な事柄は必要とされないのだ。
平田はイメージの共有化を行い、劇構造と各場面の持つ可能性を精密にコントロールすることで、舞台上に現実の幻影を創出する。平田の演劇では、舞台上で再現される物語を延長するかたちで、その前後のコンテクストが提示される。観客が劇場の中に入った時点で、役者たちは既に劇の登場人物として舞台上にいるのである。そして観客が劇場を出るときも、舞台にとどまったままだ。これは青年団の演劇では当たり前のことだ。幕の上げ下ろしもカーテンコールもない。こうした作為は虚構と現実との境界を区切り、劇的イメージを破壊するものだからである。われわれ西洋人は傲慢にも、芝居の醍醐味は強調された表現によるパフォーマンスによって劇的幻影に輪郭を与えることにあると思い込んでいる。平田は逆に演技が不可視なものになることを目指す。彼は「演劇的」であることに新たな定義を与えようとしているのである。平田にとっての「演劇的」なものは、われわれの演劇にみられるような観客に朗唱するようなスタイルの対極にあるのだ。
平田の作品で驚かされるのは、テクストのシナリオ化が徹底的に行われている点である。役者の声が同時に発声され、そのため話している内容が観客には聞き取れないこともある。役者たちは観客に向かって台詞を話さず、ときには観客に背を向けたまま台詞を話すこともある。こうした手法を用いることで、舞台上に実に魅力的な擬似現実世界を平田は作り出す。平田は映画の持つ文化的特性を評価してはいないのだが、映画から舞台の虚構世界の土台となる要素を取り出している。そして平田がとりだした要素は、視点の移動やフレーミング、編集から解放されている。
想田和弘の『選挙』では、政治活動で候補者のイメージ創出と意見表明のために常に行われている演出の様子が、「観察映画」の手法を使って効果的に提示されていた。この手法は『演劇』のなかで、さらに大きな成果をもたらしている。想田は平田の日常に入り込み、リアルに構築された平田の劇的世界の演出の実際を、映像を通して写し取ろうとしている。そのため想田はナレーションを入れて説明を加えるという誘惑を退ける。公演の様子を、ナレーションなしで提示する想田の映像は実に魅力的だ。想田のカメラは、客席から舞台を見る一観客の視点であることもあれば、舞台美術の後ろから舞台上の劇世界を映し出すこともある。こうした視線を好んで採用することで、想田は平田の演劇的小宇宙がいかに制御され、現実の延長線上にありながら日常の外側に位置するかのように構築されているのかを、はっきりと描き出す。その世界はまさにあらゆる要素が統合された細密画であり、現実世界の優れた反映となっている。平田はこの小宇宙を舞台転換のない一幕物の形式で再現する。
平田と青年団の活動が、文化的、政治的、社会的な世界と相互に作用しあう様相も『演劇』では映し出されている。平田の考える演技が、われわれの日常の中にどれほど拡散しているのか(あるいは拡散しうるのか)に観客が気づいたとき、この作品はさらに魅力的なものとなるだろう。筆者は『東京ソナタ』(黒沢清監督、2008年)のレビュー(http://www.sancho-asia.com/articles/tokyo-sonata)で「役割を演じる」ことの意味について論じたが、平田のアプローチにも共通する点がある。われわれは皆、日常のなかでそれぞれの役割を演じている。日本社会においてはとりわけ、役割を演じることの意味は重要だろう。その役割は職業的な枠組みや家族的な枠組みによって規定されたり、社会的な領域において付与されたりしている。演技を形作り、文化伝達の媒体となる演劇の技術は、当然、実生活におけるコミュニケーションの手段として応用可能であり、とりわけ教育の領域でその有効性を発揮する。演劇的手法は、自分自身が何者であるかを見つめなおしたり、あるいは知人たちに自分の考えを伝え、自己存在を主張したりするための手段となりうるからだ。平田が国会議員に教育の分野における韓国の先進性について話している場面を想田はカメラに収めている。韓国では演劇は学校教育の必修科目となっている。韓国人たちは、演劇が、自国を本拠とするSMエンターテイメントの大物たちが推進する「文化テクノロジー」を支え、経済的成功に到達するための手段となりうると考えているようなのである。平田は日本もそうあるべきだと考える。こうした平田の考えが正しいものであることが、平田の学校での活動を映し出したエピソードで示される。学校での活動で平田は、生徒たちとの間だけでなく、教師たちとの間にも、相互に作用しあう素晴らしい関係を作り出している。
『演劇』は、文化についてのレッスンであり、刺戟に満ちた旅である。そこで提示される世界には、私的な親密さとよそよそしい距離感が同居している(劇団の活動のなかには私的な領域は存在しない。生活のあらゆる面に演劇が入り込んでいるため、役者の「私」は見えなくなってしまうのだ)。しかし文化についてのレッスンである以上に、『演劇』は人生そのものについてのレッスンになっている。平田の働く姿は人を惹きつけずにはいられない。彼は一日たりとも休みをとらない。この驚異的な人物は疲労のなかでも、ごく短いシェスタをとるだけで、その活力を保っている。そして常に微笑みを浮かべ、言葉がリズミカルに、明晰に発話され、リアルなメロディを奏でるのを満足げに聞き入る。『演劇』では、平田の姿を通して、舞台、語り、演技についての独創的な知のありかたが示されている。平田は世界の創造者として、人生のリアルを模倣し、再創造し、総合し、制御することができるのである。平田はあらゆる真実性にゆさぶりをかける。結局のところ、あらゆるものが演劇的な性質を帯びているように思えてくる。役者の誕生日を祝う単なるサプライズ・パーティもまた演出の対象となる。人間と人間を表現するものすべてを、演劇が包括してしまうのである。
平田は魅力的な人物だ。言動に筋が通っていて、その振る舞いは理性的だ。想田としては、対象を追っているだけで十分満足できる作品となったかもしれない。しかし「観察映画」の『演劇』でも想田の演出意図が封じ込まれているわけではない。例えば稽古の場面でのズームアウトの映像に演出意図は示されている。テキストが進行するにつれて、稽古で演じられる場面に入り込んでいく俳優たちのすがたが、ズームアウトされる画面のなかに溶け込んでいく。あるいは無音の場面もその例だ。無音の映像は、平田がくつろいだ様子を見せる場面でしばしば挿入される。平田が演技や自己制御から解放され、周りに身をゆだねるような時間が、無音で提示される(例えば行きつけの散髪屋では、平田は演出を他の人間に委ねている。あるいは設定したロボットがしっかり油が差されたモーターのように心地よい振動音を発しているそばで、楽しげに議論を行っている場面など)。またエピソードの展開とはかかわりの薄いいくつかの場面が、間奏曲のように作品のなかにちりばめられている。とりわけ猫たちが出てくる場面は印象的だ(猫は生まれながらの役者ではないだろうか? 欲しいものを人間たちから手に入れるためのコミュニケーションの道具として、演技するすべを心得ているかのようだ)。音のない映像とともに提示されるこのような視線は、日々の仕事をする人たちにも向けられている。日本の清掃業者の誠実な仕事ぶりの映像に、フランス人は自国の無気力と怠惰への暗黙の批判を読み取るべきではないだろうか? われわれの国の清掃業者たちは、日本の同業者に比べてはるかに職業的モラルに乏しいように見える。確かに言えることは、こうした場面でも、『演劇』は人々がそれぞれ役割を《演じる》様子を映し出しているということである。
政界とのつながりを持っているにもかかわらず、平田は青年団を存続させ、その活動継続のために必要となる補助金獲得に奔走しなくてはならない。平田の公演は日本より外国でのほうが、とりわけフランスで、収益性が高い。フランス東北部にあるティオンヴィルのような田舎町でさえ彼の作品は上演されている。
「それでも公演のたびに劇場は満員になっていますよ」
青年団の女優の指摘に平田は次のように答える。
「それはたぶん小さな劇場でしか上演してないからだよ」
平田は作品のなかの表現でも(とりわけ『ヤルタ会談』の喜劇性は特筆に値する)、日常の談話でも常にユーモアを忘れない(ロボット演劇のエピソードでは、「ロボット俳優のなかには小さな人間が入っているんだよ。そうでなきゃ、どうしてあんなに上手に演じることができるんだい?」と冗談を楽しげに言う平田の様子が映し出されていた)。
しかし彼の劇団の役者たちへの報酬が問題になっているときは別だ。フランスでのエピソードでは、フランス公演に出演した日本人俳優の報酬についての交渉が取り上げられている。そこではわれわれフランス人の極めて不誠実で無礼な対応がさらされる。平田が自分自身への報酬には関心を持っていないことがこのエピソードではっきり示されている。劇団の活動へ多大な時間と労力を注いでいる女優と男優たちの問題こそが、自分のこと以上の重大事なのだ。劇団への採用を望む志願者の自信たっぷりのアピールを平田が容赦なく退ける痛々しいエピソードがあるが、これは人材管理と謙虚さのレッスンとなっている。このような場面でも、平田は他者の状況とその願望を考慮し、私的な利害を退けている。
『演劇』は多様でかつ首尾一貫した平田の活動の様相を描き出しており、それには六時間の長さがどうしても必要となる。これを二時間に圧縮することはできない。二時間に圧縮してしまうと、平田の稽古の持っている意味合い、即座の反応の応酬の面白さ、スリリングな即興性を作品のなかで伝えることはできなくなってしまうだろう。コミュニケーション交換の様子を完璧に再構築するために、平田は稽古に何日も費やす。その演劇表現は、テクストから引き出された身体的文化と呼ぶべきものであり、俳優の身体が言葉の抽出物になってしまうところまで行き着く。自然を排除した人工的な表現によって、逆説的に自然なあり方が提示され、最終的には、演劇と人生がひとつの同じものである感じられるような段階に到達するのである。『演劇』はわれわれを魅了し、困惑させる。われわれの好奇心を刺激し、問題を投げかける作品だ。ドキュメンタリーであり、映画であり、マニフェストでもあるこの作品で提示される考察は、観客に対して開かれた問いとなっているが、その問いかけに対する答えも同時に提示されている。というのも平田の主張には、あまりに多くの自明のことがらが含まれているからである。『演劇』は、ひとりの人間、ひとつの理論、ひとつの演劇カンパニー、そしてそのカンパニーに所属する役者たちの姿を追いかける。この作品で映し出されるこれらすべてのものが、圧倒的な魅力を放っている。
Akatomy(Thomas Bourgue)
2012年11月24日
『演劇』は、フランスのナントで開催された2012年三大陸映画祭で上映され、公式コンペティションで若い審査員賞を獲得した。
[注1] Thomas Bourgue 1976年、北フランスの都市ドゥエで生まれる。ウェブサイト・デザイナー。2001年からアジア映画を主な対象とする映画評サイト、《Sancho does Asia》を主宰。同サイトでは数百本以上の日本、韓国をはじめとするアジア映画のレビューが掲載されている。
[注2] 三大陸映画祭 http://www.3continents.com/en/ フランスの西部、ブルターニュの都市ナントで行われる映画祭。1979年に始まり、今回で34回目。アジア、アフリカ、中南米の三大陸の作品に絞っているところに特色があり、日本作品では、1990年『ウンタマギルー』(高嶺剛)、1998年『ワンダフルライフ』(是枝裕和)、2011年『サウダーヂ』(富田克也)が金の気球賞(グランプリ)を獲得している。
【訳者略歴】
片山幹生(かたやま・みきお)
1967年生まれ。兵庫県出身。早稲田大学ほかで非常勤講師。専門はフランス文学で、研究分野は中世フランスの演劇および叙情詩。ブログ「楽観的に絶望する」で演劇・映画等のレビューを公開している。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ka/katayama-mikio/