神村恵「間隙」-POTALIVE 駒場編Vol.2『LOBBY』

◎定規となった身体、測ることで生まれる時空  木村覚(ダンス批評)  この夏は、「生粋の」とでも形容するべきダンサーたちの公演をたて続けに見たという印象がある。黒沢美香と木佐貫邦子とが競演した『約束の船』。昨日(9/16 … “神村恵「間隙」-POTALIVE 駒場編Vol.2『LOBBY』” の続きを読む

◎定規となった身体、測ることで生まれる時空
 木村覚(ダンス批評)

 この夏は、「生粋の」とでも形容するべきダンサーたちの公演をたて続けに見たという印象がある。黒沢美香と木佐貫邦子とが競演した『約束の船』。昨日(9/16)見た『ミミ』でも、室伏鴻と黒田育世のコラボレーションがあった。どちらも技量ある2人の意外な組み合わせ。とはいえ、意外性や話題性に寄りかかることなく、組み合う2人のベストなクロッシング・ポイントを求めて、『約束の船』も『ミミ』もある程度しっかりした構成を拵え上げていた。


 コラボレーションということのみならず、強く印象に残ったのは彼らの身体性のことだった。バレエ、ポストモダンダンス、コンテンポラリー・ダンス、舞踏と、分野は異なっていても、彼らの身体にはどれも、これまでに積み重ねてきたダンスの記憶が強烈に染みこんでいた。彼らは皆、切ないほどに「ダンサー」(言い方は悪いが「ダンスバカ」)である。「ダンサー」のダンスは、確かに、驚嘆と感嘆に値する。その一挙手一投足に心が揺さぶられる。

 ただし、そうであればそれだけ、ダンスに身を捧げた「ダンサー」の生き様に、見る者は向きあうことになりがちだ。しばしば見る者は、ダンスを純粋に見ることから、次第に、実存を賭けた「ダンサー」それぞれの人生物語へと思いをスライドさせることになる。

 だから芸は危ない、と思わずにいられない。「ダンサー」の身体は、バカであることの実直さに対してつねに自ら批評的であり続けないと、芸がそもそも秘めている本領よりも芸を突き進む道-それは容易に浪花節的に受容されてしまうものである-の方ばかりが目だってしまう危険をともなっている。『約束の船』と『ミミ』の両公演が、そうした危険にすっかり陥っていたと断定するつもりはない。けれど、この2つの公演を見ながら痛感したのだった。スリルある時間と空間をいまここに出現させようと謀るところにダンスの賭があるのだとすれば、「ダンサー」の身体はその賭を、自らの実存的な人生物語に不断に脅かされているのではないか。踊ることが、踊りを遠ざけることがある。踊れば踊るほど体がダンスとともに暮らしてきた生き様を纏ってしまうことがある。

 ぼくが見たいのは「ダンサー」(の実存)ではない、ダンスである。

 前置きが長くなった。9月1日、POTALIVE駒場編vol. 2『LOBBY』の一演目として、神村恵『間隙』を見た。神村には警戒心がある。ダンサーであることの警戒心。ダンサーにならずにダンサーであるにはどうすればいいのか。ダンスをいま、ここに立ち上げるには、どんな罠を避け、どんな仕掛けを用意しなければならないか。『間隙』は、「散歩をしながら楽しむライブ」というPOTALIVEのセッティングを上手く活かし、神村のソロダンスの面白さを十分引き出しえた意欲作だった。

 まず、POTALIVE主宰の岸井大輔の誘導で、10人ほどの観客の塊が、アゴラ劇場のロビー脇の狭いスペースに集められる。岸井は観客に傘を渡し、神村が差したらこちらも差すように、と指示をする。「神村があらわれたらついて行ってください。『間隙』という作品なのでいろいろな間を通り抜けますので、なるべく付き合ってそこを通ってみてください……」と岸井がガイダンスしている最中に、神村は観客の小さい円陣の真ん中に幽霊みたいにスーッと入ってくる。と、道路の方へと抜けた。その挨拶を合図に、ぞろぞろと10人が神村の後を追う。公演が始まった。

 駒場の住宅街が『間隙』の舞台。駐車場や公園、マンションの入り口付近の暗がりといった開けた場所のみならず、というか多くの場合、それらを繋ぐ路上が主な舞台となった。従って、歩くことが神村のパフォーマンスの大部分を構成することになる。

 もともと神村のつくるダンスは、その多くが「歩く」ことから成り立っている。進み立ち止まる。その間にある不意のリズム、あるいはそこに差し込む謎の動作が、ダンスを構成する。だから、路上を歩くのは、彼女のダンスに相応しいシチュエーションだと言えるわけで、神村の本領発揮、不意打ちの詰まったウォーキン・ダンスを10人は、横から斜め後ろからあるいは真後ろから各自眺め、追いかける。狭い空間をくぐり抜ければ、真似してくぐり抜ける。

 ダンサーと見る者が追う/追われるという関係を通して、劇場空間が住宅街に瞬時に生まれる。その移動劇場の生成という事態、日常の非日常化にわくわくする。

 劇場の出現によって、さまざまな出来事を逐一察知する感度が上がる。舞台を前にする観客というものに何が起こっているかというと「よく感じる」ということが起こっている(観劇後、疲れている原因のひとつは、きっとこれだ)。五感の集中。その集中力が四角い建物から飛び出し、街中で発揮される。神村のスニーカーがアスファルトをこする。その音に注意する耳が次々と、葉のこすれる音や、遠くのひとの声や、風や、周りの観客の仕草などを敏感に察知する。劇場仕様になった五感は、路上にあるさまざまなものを役者にする。さまざまなものが起こす出来事を際だたせてゆく。

 神村はことさら踊らない。テクニックを誇示しない。代わりに、神村の身体はまるで空間を測る定規や分度器のようにいる。ものにあてるとものが際だつ、経過する時間が際だつ、そんな身体を街に置く。測るようなステップ。それが普段ならばまじまじと見ることなどまずない住宅街を見るべき対象へと変貌させる。

 ときどき神村が傘を差す。と、観客も晴れた住宅街で、一斉に傘を開かせる。その一団が一般の通行人とすれ違う。そのときぼくは、無表情になってその劇場の一員であろうとして演じている自分に気づく。通行人の出現で、神村のみならず観客であるぼくたちもまた劇場を構成する役を担っているということに気づかされる。その一方で、ぼくたちをいぶかしげに傍観する通行人たちは、突如として、この劇場の観客にさせられてしまう。

 例えば。高校生の集団が近づいてくる。彼らの甲高い笑い声がこちらの五感にフレームインする。最初、彼らはぼくたち観客の五感を刺激する移動劇場の役者(鑑賞対象)になる。けれど、次に彼らがこちらに気づくと、怪しいこちらの一団こそ、高校生にとって非日常、ほっとけないなんだか変な一群なわけで、逃れようもなく奇異の眼差しをこちらに向けると、それによって彼らはこの劇場を取り囲む観客に自ずとさせられる。一般の通行人とぼくらはこのようにして、相互に役者になったり、観客になったりしたのだった。

 30分ほど続いた公演の最後、きわめて狭い一本道をゆっくり進む神村をほとんど一列になって追う。ぼくはそのとき、たまたま神村を最初に追う客となってしまった。ゆっくり進む神村を追い越さないようにするには、彼女のステップを真似する他ないと思い、神村の足元を注視しながら呼吸を合わせてみた。すると、そういうルールのゲームがここに用意してあるかのような気になってきて、面白くなる。後ろで他の観客がどうしていたのか知らない。きっと神村との距離に応じて観客の態度はいろいろだったろう。そのとき「見る」という行為は、多様な可能性と繋がれていたのではないだろうか。ぼくの「見る」ことが、そのとき「真似る」ことと繋がっていたように。

 その狭い、管のような道を抜けると開けた空き地に出た。神村は小石を見つけ、踏むと蹴る、追ってまた踏みまた蹴る、を繰り返した。これまで観客と神村とでしてきた行程を再現しているようなラストシーンだった。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第60号、2007年9月19日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
 木村覚(きむら・さとる)
 1971年5月千葉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻(美学藝術学専門分野)単位取得満期退学。現在は国士舘大学文学部等の非常勤講師。美学研究者、ダンスを中心とした批評。
・wonderland掲載の劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimura-satoru/

【上演記録】
神村恵「間隙」-POTALIVE 駒場編Vol.2『LOBBY』
ミニポタライブ アゴラ劇場ロビー集合(2007年9月1日-2日)
上演時間 約1時間

作・振付・出演:神村恵(ダンサー、コレオグラファー/神村恵カンパニー主宰)
出演:岸井大輔(劇作家/POTALIVE主宰)

1作1000円 2作通券1200円(1作につき600円)3作目以後一作品500円
1回10名 予約制

【関連情報】
神村恵公式HP


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