「関係者全員参加!ダンスクリティーク」

◎「関係者全員参加!ダンスクリティーク」で交わされたこと(1)
-司会の立場からのまとめ
木村覚(美学/ダンス批評)

はじめに
大橋可也&ダンサーズを主宰する振付家・大橋可也さんのお誘いで「ダンス蛇の穴」という企画に参加することになった。そこでぼくは、昨年の11月から今年の1月にかけて、計5回、全員で11人の振付家・ダンサーをプレゼンターに招き、森下スタジオを会場に「関係者全員参加!ダンスクリティーク」と称する会をひらいた。これは、司会を務めた木村覚の立場からまとめたこのイベントをめぐるレポートである(この場をお借りして、3回に分けて掲載する予定)。

第1回 「ダンスクリティーク」が生まれるまで

▽発端にあったこと
「ダンス蛇の穴」とは「来るべきダンス作家を、スタッフを、制作者を、批評家を、観客を、ダンスそのものを産み出すための道場として機能していくことを目指」(当企画のフライヤーより)すものである。昨年の春頃、大橋さんは最初、ダンスヒストリーのレクチャーを振付家・ダンサー向けに行いたいということで、ぼくに誘いの声を掛けてくれた。ぼくとしては、昨年の2月に横浜で大規模なレクチャーシリーズ(「超詳解!20世紀ダンス入門」)を行い、また、その直後に、大橋さんの稽古場で大橋さんが声を掛けてくれた振付家・ダンサーたちのための小さなレクチャーを二、三回開かせてもらっていたこともあり、その結果を踏まえて、今回は別のことがしたいと大橋さんに申し伝えた。二人で協議し、最終的に、振付家・ダンサーに自分の方法論について作品のビデオ上映をしながら話してもらい、彼らのアイディアやそこから結実した作品について、観客を含め集まったひとたち全員でフランクに批評をとり交わす会を行おうということになった。ぼくがフライヤーに書いたのは、次のような文章だった。

しゃにむに踊っていても、自分だけを信じて振り付けしていても、きっと自由にはなれないし、観客やダンサー同士と共感し合うに足る何かを生み出すことは難しい。型に向かうのではない(コンテンポラリー)ダンスにも押さえるべきポイントはあるし、そこに集まる者同士で共有するべき感性とか知性がある。ざっくばらんに笑ったり話し合ったり悩んだりしながら、未来のダンスの向かう先へ抜け出る穴を参加者全員で探してみたい。具体的には、自作のビデオを持参し参加者の前でプレゼン(作品紹介)、その後みんなでそれを素材に批評し合う、あるいは作家に創作の過程を聞く、という形式(予定)。ひとのふり見て我がふり直す機会(お互いに)。経験不問。ダンサー、振付家のみならず、プロモーターや観客、(自称)批評家も歓迎、だから関係者全員参加!

▽企画の背景にあるもの
こうした企画を実行したいという思いに大橋さんやぼくを駆り立てた背景には、いまのダンスの現状に対する不安と不満があった。立場の違いなどから細かいポイントに見解の相違があるとしても(大橋さんには大橋さんの立場があり考えがあろう)、この不安と不満という点において二人に共通する思いがあったとぼくは考えている。

ところで、2000年以降、いわゆる「コンテンポラリー・ダンス」と呼ばれる分野のなかで、ある一定の評価(人気)をえたカンパニーや個人が台頭してきた。吾妻橋ダンスクロッシングなど人気のイベントも生まれた。全国各地域にダンス公演を展開するJCDNの「踊りに行くぜ!」は、年々規模を増し、また新しいダンサーを発掘することに成功している。トヨタコレオグラフィーアワードも、無名の振付家を全国区の存在へと押し上げることに大きな寄与を果たしてきた。それに応じて、メディアも注目するようになり、いくつもの雑誌がダンス特集を組んだ(『現代詩手帖』『美術手帖』『TV BROS』『ELLE JAPON』など。また『ユリイカ』は小劇場特集のなかでダンスを取り上げた)。オールジャンルをまんべんなく取り上げる『DDD』という雑誌も2005年に創刊し、現在も健在である。こうしてふり返ってみると、いまや「ダンスブーム」とも言うべき事態が到来している、と言いたくなりもする。

しかし、現状はそんなに順風満帆なのだろうか。「コンテンポラリー・ダンス」とは「なんでもあり」のジャンルと思われており、あいかわらず、そこにどんな価値があり魅力があるのか明確な言葉をもって取り交わされずにいる、それが現状ではないだろうか。

もちろん、明確に「これ」と言えないのがコンテンポラリー・ダンスというものである。つまり、コンテンポラリー・ダンスは、一定のスタイルを指す言葉ではない(これには異論を挟む者もいるだろう。ダンスの学校ではある評価の定まった近年の表現方法をコンテンポラリー・ダンスと称し、それをひとつのスタイルとみなしてレッスンを行っている事実もある)。ぼくの理解するところでは、現在までに生まれた様々なスタイルのダンス(バレエ、モダンダンス、60年代アメリカにおける前衛的ダンス、暗黒舞踏あるいは世界各地の民族的なダンス、商業的なダンス、ストリートダンスなど)をすべて意識しながら、そこにはない何かXを産み出そうとする、その意味において前衛的と言うべき身体表現がコンテンポラリー・ダンスである。「そこにはない何かXを産み出そうとする」という意味では、過去のダンスをことさら意識していなくとも、完全に独自のルールを構築することで新たな身体運動を成立させようとする者も当然出てくる。ともあれ、以上からすれば、

(1)過去のダンスとどう対峙するか
(2)Xをどう価値づけるか、Xをどう意味あるものとして観客と共有し合うか

この二点が、コンテンポラリー・ダンスをめぐる議論としてせり上がってくることになる。

もちろん、振り付け(あるいはダンサー)の側にとっても観客の側にとってもその作品、その舞台が「面白い」ことこそ重要なのであって、(1)や(2)にどうアプローチしたかは、先に理屈ありきではなく、その作品が「面白い」あるいは「面白くない」ことの背景として確認するべきことに過ぎない。

その上で言うことなのだけれど、作品やその舞台が「面白い」か「面白くない」かの判断は、一個の基準があればよいのではなく、明瞭に意識化されているかどうかは別として、複数のコンテクストが重層的に重なりあった上に生まれるものではないだろうか。既存のダンスであれば、そこには独自の基準がすでに確立されている(バレエ然り、モダンダンス然り、ストリートダンス然り……)。ただし、コンテンポラリー・ダンスのように「そこにはない何かXを産み出そうとする」場合には、作り手も観客も固定した一個の基準に従っていればよいわけではない。むしろ複数のコンテクストにアクセスすることが作り手にも観る側にも求められる。「コンテクスト」といまぼくが呼ぶものには、美的=感性的な価値基準のみならず、社会の諸々の(政治的、経済的、ジェンダー的……)状況も含まれる。もちろんこれまでのダンスの歴史も重要なコンテクストのひとつである。

ひとつの振り、ひとつの舞台上の演出など、舞台に明滅する瞬間瞬間の出来事を構成するあらゆる要素を通して、振付家やダンサーが、こうした複数のコンテクストにどうアクセスしどういままでにない「X」を提示しようとするのか、そのことが作品の肌理を作ってゆく。作り手の賭はそこにかかっているし、観客の側にはその賭を細部にわたり感じ取る歓びと細部にわたって感じ取るべき一種の(やや大げさに言えば)責任がある。

繰り返しになるが、コンテンポラリー・ダンスにおいては、作り手にも観客にも「これ」という一個の判断基準がない。だから、ここで両者に求められるのは、感性と知性をフル稼動させる全身的な活動である。これは、価値や視点を一元化しない/出来ない、現代の高度情報化した社会また多文化主義的な意識の下でぼくたちが生きていることの結果要請されていることでもある。そして、それはけっこうしんどい高度な知的ゲームである。知的である上に(踊る/見る)身体を媒介にしてもいる。ダンスを作りまた観賞するとは、すなわち、縦横無尽に知性を働かせること、しかも身体を通してそれを遂行することなのである。このしんどさが楽しいのであって、これこそがコンテンポラリー・ダンスの魅力であるとぼくは思って生きてきた。しかし、同時にそれが、過度な要求をひとに突きつけているのも事実だろう。踊ること、見ることの洗練をあえて志す意欲は、今日、減退傾向にある印象がある。「ぶっちゃけ」そんなものに時間を費やすよりも、自分が楽しいこと、ひとがいいと言っていることをやる方が楽しいし安心だし、そもそも複数のコンテクストを意識するなんてよく分からないし「そんなの関係ねえ」って気がする-。こうしたマインドが、時代の潮流と軌を一にして広がっている気がする。

事実として、(1)も(2)もあまり顧みない姿勢から生まれる作品が以前よりも多くなってきた。振付家・ダンサー本人の幸福に端を発しそこに終結する類の公演である。他方、社会のグローバル化の傾向と重ねてみたくもなるような、ある種の嗜好の一定化も目立ってきた。要するに、個人の趣味に走るか、すでに評価が確立している(ように見える)スタイルに身を委ねるか、作り手も観客もそのどちらかに向かう傾向が、近年、顕著になっている。

コンテンポラリー・ダンスは「そこにはない何かXを産み出そうとする」現場というよりは、いま淡く輪郭づけられている「コンテンポラリー・ダンスなるもの」を無批判に受容する場になりかかっているのではないか(すでに、コンテンポラリー・ダンスという言葉が流通するようになってからある程度の年月が経っており、厚みのなかにいくつかのスタンダードを認め、そこから「コンテンポラリー・ダンス」を何らかのスタイルとして理解するのも可能になってきているのは事実ではあるが)。そうした流れが自ずと「なんでもあり」=「コンテンポラリー・ダンス」という状況を生んでいる、それが、全面的ではないとしても間違いなく現状のひとつではないだろうか。

▽「レクチャー」ではなく「クリティーク」を選択した理由

表現媒体である「身体」とは?
身体が「動く」とは?
その身体を置く「舞台」とは?
そこで生まれる「時間」とは?
「空間」とは?
そこで時間・空間を共有する「観客」とは?
「観客と舞台との関係」とは?
「劇場と外(社会)との関係」とは(劇場とそれを内包する社会との関係とは)?
そうした諸々に関して様々な試みを行ってきたこれまでの「ダンスの歴史」とは?
そして最終的に問われる、「面白い」ダンスとは?

-ダンスに関する既存の考え方(過去)に安易に従属することなく、コンテンポラリー・ダンスが何らか「そこにはない何かXを産み出そうとする」試みであろうとするのならば、例えば、上記したような事項について逐一反省を傾けてゆく批評的な視点が当然求められる。いや、リアリティのある現代の芸術を模索する限りは、そもそもこうした事項に対してあえて意識しようと努めなくても自然と興味・関心が湧き、考察の深まっていない「機能不全」のポイントが見つかれば自ずと探究を傾けていく、というものだろう(そう考えるなら、ぼくが上記してきた文章すべては「言わずもがな」のことを言っているに過ぎないのかも知れない)。

さて、こうした様々な事項へのアプローチが、コンテンポラリー・ダンスを生成させるのだとすれば、まず、過去のダンス史を検証してみることは、必要不可欠ではないか。過去に何が達成され、どんな限界がそこにあったのか。過去を「かじる」(「研究」などという本格的なものではなくとも)ことで、過去の二の舞を演じることなく、また同時に、過去の遺産を今日に活かすということが可能になるのではないか。そうした気持ちから、先述のように、昨年の2月には、STスポットに協力をえて、若手プロデューサー・中村茜さんとレクチャーを企画した。また、大橋さんとの企画で少人数のレクチャーも開いた。

レクチャーは、おおむね盛況だった。ただし、上記したようなぼくの(あるいは中村さんやこのレクチャーに賛同して下さった講師陣、スタッフの)思いが振付家・ダンサーの方々、あるいは批評の立場の方々に伝わったようには、正直思えなかった。ぼくたちが期待していた振付家・ダンサーや批評の立場のひとは、結果として、思ったよりも集まってもらえなかった。一般の受講者の方々はじめ、ダンスの作り手あるいは批評の立場以外の方々からは、このレクチャーに対するレスポンスやリアクションをもらえたりもしたのだけれど(そしてそれが、ぼくにいくつかの新たな出会いをもたらしたことは事実ではあるけれど)、肝心のインサイダーからは、そうした反応がわずかしかなかった(その例外の一つが、大橋さんからの当イベントの依頼である)。もちろん、ぼくの思い及ばぬところで何かが胎動しているなら、それはそれで素晴らしいこと。ただし、ぼくとしてはこのままのアプローチを続けても生産的ではないのではないか、と反省せざるをえなかった。そこで、ダンスの歴史から何かを得てみませんかとこちらが招くのではなく、むしろ振付家・ダンサーの内側に自分から入り込んで、そこにある具体的な問題や可能性を、ときに歴史的な視点、批評的な視点を持ち込みながら、集まった全員で(そこには、振付家・ダンサーのみならず批評家を自称する方たちや観客も混じっていることを想定していた)カラッと明るくわいわいと議論する方がより効果的なのではないか、と思った。タイトルに「関係者全員参加!」とつけたのは、ぼくとしては、狭量なサークル意識などから自由に、誰もが集まれるオープンな場が出来れば、という無邪気な思いを込めてのものだった。作り手も批評の立場の人間も観客も集まって、未知の「X」をめぐり、ダンスをめぐる(批評的な)言葉を、集った全員の内で錬成させる。そんな機会を作ることが目標だった。
(第2回「「ダンスクリティーク」で交わされたこと」に続く)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第78号、2008年1月23日発行。購読は登録ページから)

第1回 「ダンスクリティーク」が生まれるまで(第78号)
第2回 「ダンスクリティーク」で交わされたこと(第79号予定)
第3回 「ダンスクリティーク」の今後(第80号予定)

【筆者略歴】
木村覚(きむら・さとる)
1971年5月千葉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻(美学藝術学専門分野)単位取得満期退学。現在は国士舘大学文学部等の非常勤講師。美学研究者、ダンスを中心とした批評。
・wonderland掲載の劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimura-satoru/

【関連情報】
・「関係者全員参加!ダンスクリティーク」(ダンス蛇の穴第一期プログラム)
・20世紀ダンス入門講座(横浜STスポット主催)(wonderland 2007/01/23付け

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