岡安伸二ユニット「2008年版『BANRYU』蟠龍-いまだ天に昇らざる龍」

◎黙して花
金塚さくら

「BANRYU 蟠龍」公演チラシ目に美しい舞台であった。
開演を待つステージ上はまるで神社の内陣のようだ。暗がりの深い空間に小さな賽銭箱が置かれ、その奥にはつつましく祭壇が設えてある。とぐろを巻いて口をカッと開いた、それでいて格別の迫力があるというわけでもない小さな金色の龍の像が、祭壇の中央にちょんと鎮座していた。


中空には淡く橙色に光る提灯が、ほよんほよんと四つばかり浮かんでおり、五色の幟も注連縄も、重力を無視したようにふんわりと宙に浮いたきり静止している。ころころと丸い提灯がオレンジ色に浮かび上がる社殿は、神域でありながらも、神秘的というには妙に親しみやすく、幻想的というにはやけに可愛らしい。暖かみのある色合いとやわらかいフォルムは、まるで絵本の挿画の一枚のようで美しかった。

この小さな愛らしい社は、日本の最北端、青森県は下北半島の「ご在所村」にあるのだという。そこで年に一度行われる、地元消防団による龍神様への奉納芝居という形をとって、空を飛べない小さな龍・蟠龍の数奇な運命がユーモラスに描かれる。主に踊りと語りと時々歌とで綴られる飛べない龍の物語は、とても素朴で懐かしい。滑稽な中にアイロニーと教訓を混ぜ込んで、ほのかな説教臭さが何とも“伝承”的で、いかにも“民話”らしくつくられている。
とはいえ、「土地の伝説」といった土着のモチーフを扱いながらも、その作風に泥臭さは皆無だ。舞台美術も振付も、和風でありながら可愛くスタイリッシュで、今どきの感性にぴったりとフィットする。言うなれば「和モダン」風。「昔話」というよりは、極めて洗練された「民俗ファンタジー」とでも呼ぶべきかもしれない。

和モダンな振付で龍の遍歴を綴っていく若い演じ手たちの踊りがまた素晴らしい。地元消防団の防災訓練の踊りから始まって、京の都での「西の蟠龍」の災難、東北に渡って田舎芝居の役者・龍之介になった龍の“活躍”とその末路、さらに消防団のこの先の運命までを、ダイナミックかつパワフルに見せてゆく。農村の伝統芸能のような滑稽味ある素朴な振付を随所に取り入れつつも、今風の「かっこよさ」を外さない。
男性も女性もよく訓練された手足は表情ゆたかで、しなやかに伸びては、ぴたりと正確にポーズを決める。「殴られ蹴られて腫れ上がった顔」を力技で表現する顔面筋まで含めて、その全身は隙なく鍛えられている。シャープな身のこなしで鮮やかに情景を描き出す彼らの身体は、エキサイティングで観ていて飽きない。

しかしここにひとつ、非常に奇妙な現象がある。
かくのごとく目に美しいこの舞台は、しかし耳の方はなんだかいまいち重要視されていないように思われるのだ。いや、音楽はこちらもたいそう美しかった。和楽器を使ってスマートに奏でられるポップな楽曲の数々は、和モダンな舞台を強力にサポートして、民俗ファンタジーの雰囲気作りに大いに一役買っている。
問題は台詞だ。演じ手の口から発される、言葉の響きだ。
音楽に乗せて舞い踊る彼らを見ながら、絵本のように愛らしい民俗ファンタジーの不思議ワールドをたゆたっていた私は、彼らが台詞を喋りだすと途端に2009年高円寺の現実へ引き戻される。彼らの台詞回しは、その視覚的な完成度と比べてあまりにも洗練の度に差がありすぎはしまいか。
決して声量がないわけではない。発音が不明瞭ということもない。ただその語り口調は、不可思議な昔ばなしを物語るには生硬にすぎるのだ。とってつけたような方言のぎこちなさや、時代劇風の会話のつたなさは、作品の世界観を補強するよりはむしろ解体させているようだ。
美しく動く特別製の肉体は、いつともどことも知れない昔ばなしの世界を舞台の上につくり上げようとする。しかし台詞が発された瞬間、彼らがごくごく普通に日々を暮らす生身の若者であることが露呈するのだ。洗練された寂び感のない、どこか尖りのある若い声が懸命に台詞を叫ぶのを聞くと、居酒屋等で元気にバイトする彼らの幻影が生々しく脳裏をよぎりそうになったりもして、どうにも切ない。

一方で視覚情報としては完璧なまでに美しく、しかしもう一方で聴覚情報がなんだか雑。それぞれの感覚器官が受け取る刺激はあまりに乖離していて、極北の二つに引き裂かれた私はどうしたものか判らなくなる。自分は果たして、この舞台を悦んでいるのかそうでもないのか。どちらに決めていいのかまるで判断がつかず混乱する。
たとえばこれが、彼ら自身が語るのではなく、専任の語り手が市原悦子か常田富士男ばりの完璧さでもって聞かせてくれていれば。絵本のようなビジュアル風景とあいまって、どんなにか鄙びた不可思議空間が現出したことだろう。あるいはいっそのこと、この舞台が台詞のない踊りの作品であったらどれほど楽なことか。祈るように何度も思ったが、むろんそれは今更どうにもなりようがない。

舞台では劇中劇のかたちで落ちこぼれな龍の一生が描かれるが、真の主役は決して「西の蟠龍/龍之介」ではないだろう。どちらかというならこれは実は、劇中劇としてこの奉納芝居を演じている、ご在所村の村人たちの物語に他ならない。

過疎に悩み財政赤字に苦しむ地方自治体は、核産廃の最終処理場など危険な施設を受け入れ、国から助成を受けることでなんとか暮らしを成り立たせている。作中ではそんな村の先行きが、小龍の愚かな選択に重ね合わせて、ややブラックなアイロニーを込めて浮き彫りにされる。自分の身体を切り売りして当面の利を手に入れる、それは果たして、真実妥当な取引なのだろうか、と。

都でうだつの上がらなかった小龍は、流れ流れて最北の地へいたり、神様に願掛けをして田舎芝居の役者としてデビューする。飽きっぽい観客を相手に、どうにかして人気をつなぎとめたい役者・龍之介は、願掛けをしてはその都度自分の身体を代償として、人々の注目を買い取ってゆくのだ。はじめは右脚。続いて左脚。最後には、残りの腕と胴体すなわち、首から下を全部。
足のない役者が義足をつけて見得を切り、胴のない頭が後見に抱えられて台詞を喋る。確かに観客は沸くだろう。しかしそれは「役者」として、その芸を賞賛されているわけでは決してないのだ。芝居ではなく、「見世物」と同じ扱いをされたにすぎない。片脚がないのはけなげだが、両脚ないと物珍しさにおぞましさがやや混じる。首だけとなれば、それはもはや化け物だ。怖いもの見たさに集まって、「龍之介の芸」ではなく「芸をする龍之介」を冷やかしているだけなのだ。どれほどの観客を動員し、どんなに喝采を浴びようとも、そんなのはまことの花にあらず、と世阿弥先生なら言うに違いない。
ある程度見慣れて飽きれば、人々はあっさりと他所に流れ、さらなる刺激を要求する。無名の観客役の台詞に、義足の龍之介がいつ転ぶか、失敗を観に来ているのだという一節がある。残酷なまでに、それはひどく真理だ。
しかし龍之介は「まことの花」など思いもかけず、客が離れてゆくのを恐れ、冷やかしと野次を熱狂と思い違い、道を踏み誤ってゆく。一本足が飽きられれば両足とも差し出し、それにも客が退屈すれば首だけの化け物になる。それにも見慣れてきたとなれば、頭ひとつで「東の蟠龍」と決死の対戦だ。

最初の一歩を踏み出せば、その後の転落は坂道を転がるように簡単だ。この蟠龍の「悲劇」の構造は、ご在所村の在りようと相似形を成している。ご在所村の村長は、苦しい財政の中、村民の暮らしを守るためと言って危険な施設の誘致に手を出してゆく。助成金やら何やらで、確かに一時は潤うのかもしれないが、果たしてそれは真の解決と言えるのであろうか。暮らしを守る、その守り方が、本来の取るべき道から離れてしまっているのではないか。
一時の花ではない、まことの花を得るべし。世阿弥先生のありがたい教えは、いつの世にてもいまひとつ活かされない。

しかしそれにしても、「核廃棄物再処理工場」だの「高レベル放射性廃棄物最終処分場」だのといったどこか社会派な響きを持つ単語が、決して巧みとは言えない台詞回しで発されると、なんだか必要以上に説教めいて聞こえて少しばかり鬱陶しい。
作中では決して明らかな批判や糾弾がされるわけではないし、ご在所村に何が起こったのかはあくまで暗示するに留めてある。西の蟠龍の運命に重ねることで、何らかの悲劇の可能性を浮かび上がらせるその手法は、押しつけがましくなく巧みだ。
にもかかわらず、この蟠る気分は何なのか。
のどかな昔ばなし風の光景の中に唐突に侵入してくる「核廃棄物」等のやけにリアルな社会派言語が、強烈な違和感を醸して面白い-はずなのに、なんだかわざとらしく作為が鼻につく気すらする。村を襲う事故の暗示は、現代社会に必要な警告のはずなのに、作話上のご都合主義にも見えたりして、そんな風に感じる自分が少々嫌だ。もっと手練れた語り口調であったなら、この蟠りは解消したのだろうか。

いかにも寓話的で鬱陶しいこのご在所村のラストシーンは、しかしやはり目にはすこぶる美しかった。
暗やみに、天の一点から射し込む淡い橙色の光の中、死の灰なのかプルトニウムの結晶か、白い切片が光を反射してきらきらと明滅しながら降り注ぐ。それはどこまでも明るく無垢で、だからこそ、そこに潜む死の可能性がひどく残酷だ。そしてその残酷さゆえに、きらめく切片はおそろしく美しい。何かを降らせるラストシーンはいくつもあるが、この作品は格別に印象的だ。照明の色も角度も、降らせる位置も分量も、この上なく絶妙で完璧な計算が働いている。

ならばいいか、とその美しさに思う。この際台詞の巧拙など。目の前の美しさに流されて、佳い舞台を観て至極満足だったのだと後々吹聴してしまっても、別にいいではないか。それくらい言いきってしまえるほど、確かに目に美しい舞台であったのだ。(2009.11.3 観劇)
劇評を書くセミナー「座・高円寺」留学コース課題作から)
(初出:マガジン・ワンダーランド第171号、2009年12月23日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
金塚さくら(かなつか・さくら)
1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kanezuka-sakura/

【上演記録】
岡安伸治ユニット公演「2008年版『BANRYU』蟠龍-いまだ天に昇らざる龍-」(日本劇作家協会プログラム)
作・演出 | 岡安伸治
座・高円寺1(2009年11月13日-11月15日)
出演 |
Aプロ:池内亮太、池田あい、清水ゆり、立浪晴子、中井沙織、浜田真梨子、山田隆
Bプロ:一平杏子、大瀧麻世、佐々木絵梨花、柴田菜穂、嶋拓哉、平山佳延、藤田ゆみ

企画・製作:岡安伸治ユニット公演
後援:杉並区
提携:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク


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