岡安伸二ユニット「2008年版『BANRYU』蟠龍-いまだ天に昇らざる龍」

◎見事な技を見た、しかし。
宮武葉子

「BANRYU 蟠龍」公演チラシ日本劇作家協会プログラム岡安伸治ユニット公演 2008年版「BANRYU 蟠龍―いまだ天に昇らざる龍―」を観た。93年に劇団世仁下乃一座で初演され、以降、形を変えながら数多く上演されてきた作品ということだが、評者はこれが初見である。

「蟠龍」とは、地面でとぐろを巻き、天に昇れていない状態の龍のこと。本作はこの「蟠龍」をメインモチーフに、人の欲や愚かしさ、舞台役者のこっけいさ、寒村の経済状況からエネルギー問題をも描く諷刺劇である。7名の若い役者が、パーカッション、三味線、尺八による音楽(素晴らしかった!)に合わせ、高度な身体パフォーマンスを交えて複数の役を演じている。

正直なところ、「とても上手い学生の発表会を見た」という気がした。
実際には、出演者は学生ではない。いやそれ以前に演者が学生だからイカンという法はなく、しかも技術的には上手かったんだからなんら問題ない、はずなのだが、何かすんなり楽しめなかったのだった。
理由を考えた。
話が出たので、まずは出演者の話から。
彼らの身体能力の高さには心底驚いた。
アクロバティックな動きをするのに最適ではないだろう(自分でやったことがないから断言はできない。以下同様)着物で激しいアクションをこなし、使い慣れない(だろう)民話調の言葉を使い、普段聴いているのとは違う(だろう)リズムをもつ民謡を歌う。しかもこれを1人でなく、複数で行うのである。よほどに稽古を積み、タイミングを合わせなければ、そして互いへの信頼関係を築かなければ、この舞台は成立しない。
ゆえに。パフォーマンスとして価値がないということでは決してない。ダブルキャストの一方しか見ていないが、おそらくもう一方のチームも同じぐらいのレベルだったのだろうと思う。
それでも、彼らは「プロの演者」であるように見えなかった。
実のところ、ダンスやパントマイムといった身体表現にはあまり詳しくないのだが、それでも、
・この動きは日舞でない。
・この歌は民謡でない。
ということは分かったので。

ここで、歌舞伎のことを考えてみる。
評者はわずか20年の観劇歴で、天井桟敷のベテラン観客と比較すればほんの20年ばかり、書くのもはばかられる短さなのだが、本当に幼い時から日舞や長唄やらを稽古しているはずの歌舞伎役者の中にも、たいそう下手な人がいることを知っている。腰の位置が高い、決めの形がカッコ悪いなど、素人目にも分かるレベルでヘロヘロしているのである。何十年とやっているはずなのに。もちろん鍛錬は大事だが、それだけではダメなのだろう。下手な人は一生下手なのだろうと思う。残念なことだが。
それでも、彼らを見て腕組みし「下手だなぁ」とタカビシャに思うことはあっても、違和感を覚えることはない。あくまで「下手な歌舞伎」として受容できる。彼らの肉体には染みついて離れなくなっている何かがあり、たとえブサイクであっても、それは彼らが消化した彼ら自身のものであると考えられるためである。
逆に、2008年版「蟠龍」出演者はアクションもこなせば民舞もやり、傘を使っての踊りもこなす。詳細は分からないが、着地の位置も正確であった、ようだ。にもかかわらず、「身体能力の高い人が、日舞っぽい動きをしている」ように見えた=何となくまがい物のように思えてしまったのだった。

何が違うのかと問われたら、明確に言語化することはできない。説明もできないことを書くなといわれそうだ。自分が読む側なら確かにそう思う。
けど、違うのだ。実のところ客席にいた1時間40分の間、舞台を眺めながらも頭の中では演じ手の動きのことばかり考えていた。一体何が違うのか、と。
「演じ手の表現になっていない」
かなり無理矢理だが、多分そう思ったのだと思う。曖昧でスミマセン。
動きのことも歌のこともその他もろもろのことについても、彼らは「知らない」のではないか。
もちろん、個々の動きについては、知らないどころではなく熟知しているだろうと思う。並ならぬ稽古を積んで本番に臨んだのであろうから。
そうではなくて、舞台上でこなした数々の技は、彼らにとって「近しいものではない」のではないだろうか。
体を意のままに動かせる人であれば、立ち回りにせよ踊りにせよ、ある程度「らしさ」を表現することは可能だろう。けれど、着物が、なんちゃって東北方言が、民舞が、もっといえば「蟠龍」が描く民話の世界そのものが、演じ手の身についたものであるとは思いにくい。
「学校の発表会を見た」と思ったのは、そのためだったような気がする。
演じ手は与えられた課題をキレイにこなした。テストに合格したといってもいい。が、それはあくまで課題であり、越えるべきハードルである。きちんと消化され、肉体化されたようには見えなかった。
半端なく高いハードルを一度越えるというのは凄いことである。それだけでも価値があるといえばそうだ。でも、観客は役者のステップアップ現場に立ち会うために劇場に足を運ぶ訳ではないのだ。

そうはいっても、引っかかった点が役者の動きだけだったら、もっと楽しめたのではないかと思う。出演者は伝統芸能の人ではないのだし、彼らの芸が無残な出来ということでは全くなかったのだから、満足しない観客の方が贅沢なんだよ、ということで。
しかしながら本公演、物語そのものについても疑問がある。むしろそちらの不満の方が大きいといってもいいかもしれない。

「蟠龍」の寓話は、「村の発展のために原発を受け入れた、東北のある村の奉納芝居」という形で展開される。しかも、念の入ったことに、「奉納芝居を演じるのは村の消防団のメンバーで、彼らは専業(つまりプロの消防士)ではなく、普段は村でそれぞれの生活をしている普通の人々」であるという凝った設定だ。
これ、奉納芝居だけではなぜいけなかったのだろう?
劇中劇と現代の場面の繋がりが見えにくく、気分的に納得しづらいものがあった。「なるほど過去と現代はここで結びつくのだな」というポイントが、ないとは言わないけれども分かりにくい。イヤ、別に消防団が演じようが普段は運送屋だろうがカラオケバーをやっていようが問題がある訳ではないのだが、逆に言えば消防団じゃなくてもよかったし、兼業でなくてもいいのではないか。(ついでに言えば、過疎といいつつ、こんなスーパーな肉体をもつ村人がいるならいいじゃないか、とも思った。それは言いっこなしですね)
もちろん、消防団が出てきたのは本作がエネルギーの問題を扱っているからだろう。だがそれは後からつけられた理屈程度の必然性で、絶対消防団でなきゃならない、とまでは言えないと思う。
そもそものところを言えば、幕開きで、観客は消防団の訓練シーンを見せられる。演じ手はのっけから高い運動能力を遺憾なく発揮して、見る側の度肝を抜く。この場面、身体パフォーマンスとしては立派なものだったと思うが、「この人たち、誰?」「一体何が始まったんだ?」という疑問は残る。当然見せてもらえるだろうと思っていた龍の話がなかなか始まらないため、正直ひどく長く感じた。
観客にとって、「先を予測できない」ことと、「今どんな状況におかれているのかが分からない」ことは違うと思う。作品世界に入り込むためのデータは、早めに与えて欲しかった。こんなところから、見る側は冷めてしまうのです。エエ。

そしてもう一つ、原発の描かれ方がありがち過ぎると思う。
村長は温暖化防止と村の経済発展のために放射性物質の最終処分場候補地に応募したと語り、原発をさんざ持ち上げる。この持ち上げ方が、まずアヤシイ。絶対後何か起こるぞと思わせる。で、思った通り火災が起こり、人々が右往左往するところで終わる。全然意外じゃない。むしろがっかりである。
原発を受け入れる地方の現実のようなものが伝わらないのも、寓話なんだから細かいことはいいんだ、といわれそうではあるが、社会問題を取り上げるからにはきちんと描いて欲しかったなと思う。

さらにいえば(まだある)、蟠龍の物語は、
1 人生の意味について悩む西の蟠龍が、ネズミに欺されて海にたたき込まれる
2 人に生まれ変わった西の蟠龍が役者となり、人気欲しさに足を切り胴を切り、最後は首ひとつになってしまう。挙げ句の果てに、東の蟠龍に食われて果てる
という2つの話から成るが、これもまた「元は別物だった物語を合わせた」ように思えた。
確かに蟠龍はあまり利口ではなく、1や2のようなバカな真似をしそうではあるものの、1は2の伏線でも何でもなく、1から2にいたる流れが今ひとつ分からなかったのである。ついでに、2の、役者の体のパーツが失われていく、というのは三世澤村田之助がモチーフと思われるが、彼のもつ妖艶かつ陰惨なイメージ(悪婆ものが得意、脱疽で四肢切断、精神を病んで33歳で死去etc.)と、やたら若々しく爽やかなこの舞台が重ならなかったことも指摘したい。いくら面白いエピソードであっても、合わないものは合わないと思う。といってしまっては身もフタもないか。
1で蟠龍を欺したネズミは、2では龍之介を東の蟠龍に食わせてしまう弟子の銀三として登場する。とはいえ、両者の繋がりもまた緩く、ゆえに悪役としてのインパクトに欠ける。というか、銀三は無茶な師匠に振り回された犠牲者のように見えたのだが……

ここまで書いてふと気づく。
奉納芝居は「十二支の動物の中で、唯一龍だけがこの世に存在しないのはどうしてか」というところから始まっていたのだ。
悪賢いネズミに欺された蟠龍が人に化けた仲間を食らってしまい、神の怒りを買ってこの世から追い出されてしまったのだという話が、村長の挨拶の中にあった。思いだした。
仲間を食ったのは東の蟠龍である。食われたのが西の蟠龍=龍之介である。
だが、奉納芝居は西の蟠龍の視点で進む。東の蟠龍は声しか出てこない。
これは東の蟠龍の話ではなかったのか、主役は一体誰なのか。
こういった視点の混乱は意図的なものなのかもしれないが、少なくとも評者は、物語への共感を大きく妨げられた。

我ながら言いたい放題書いてしまったが、とどのつまりは「高度なものを見たはずなのに、イマイチ楽しめなかった」ということである。残念な気持ちで劇場を後にした。
劇評を書くセミナー「座・高円寺」留学コース課題作から)
(初出:マガジン・ワンダーランド第171号、2009年12月23日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページへ)

【略歴】
宮武葉子(みやたけ・ようこ)
1968年、兵庫県生まれで東京育ち。慶應大学法学部&早稲田大学文学部卒。前者では歌舞伎研究会、後者では早宝会(宝塚のサークルです)に入り、バランスを取ったつもりでいる。今のところ会社員。古典からアングラ、ミュージカルから翻訳劇まで、ジャンルを問わず何でも観るが、観た後は突っ込まずにいられない体質。2009年9月より「劇評を書くセミナー」に参加。

【上演記録】
岡安伸治ユニット公演「2008年版『BANRYU』蟠龍-いまだ天に昇らざる龍-」(日本劇作家協会プログラム)
作・演出 | 岡安伸治
座・高円寺1(2009年11月13日-11月15日)
出演 |
Aプロ:池内亮太、池田あい、清水ゆり、立浪晴子、中井沙織、浜田真梨子、山田隆
Bプロ:一平杏子、大瀧麻世、佐々木絵梨花、柴田菜穂、嶋拓哉、平山佳延、藤田ゆみ

企画・製作:岡安伸治ユニット公演
後援:杉並区
提携:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク


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