劇団扉座「新浄瑠璃 朝右衛門」

◎女の魂の遍歴を描く
 金塚さくら

「新浄瑠璃 朝右衛門」公演チラシ 江戸市中、小伝馬町の牢屋敷内にその場所はある。庭の片隅にムシロを敷いたそこを、土壇場と呼ぶ。罪人がムシロの上に据えられ、亀甲に縛める縄が下人の手によって切られると、首切り役人の持つ大きな刀がすぱりとその首を斬り落とす。首はムシロの前に掘られた穴の中に落ち、切り口から溢れた血もそこへ溜まる。死体は丁寧に血を抜かれた上で将軍の刀の試し切りに供され、戻ってこない。首は血を洗い落とされ、刑場に三日さらされた後、そのまま足元の土へ埋められ、戻ってこない。

 劇団扉座の『新浄瑠璃 朝右衛門』では、この土壇場と江戸の極刑に深く関わった者たちが中心に描かれる。代々首切りの役を仰せつかる山田家の、三代目朝右衛門。落ちた首を穴から引き上げ、血を洗い流す下働きの女、おのぶ。牢役人井上重嗣。刑を手伝う下人たちに、様々な罪人、その家族。

 真摯ながらもやや生硬な若手の芝居を、朝右衛門役の岡森諦や井上役の有馬自由、晩年のおのぶ役の中原三千代らのベテラン勢が頼もしく支え、因縁に彩られたドラマチックな構成と死刑をめぐる硬いテーマとがぶつかり合って、それぞれのくさみを相殺する。ウェットな人情時代劇で終わることもなく、かといってことさら啓蒙めいた議論を押し付けることもない、バランスのよい作品であっただろう。

 晩年のおのぶが語る、という形をとる物語は、一見するとタイトルロール三代目朝右衛門の物語のように見える。いくつかの処刑をめぐるエピソードが連作短編的につづられてゆく中で、首切り役人という特異な生業を持った男の哲学や生き様が描かれ、舞台は生きること、あるいは殺すこと、罪と罰といった人間の普遍の問題へ踏み込んでゆく。

 このところ裁判員が死刑を求刑された事件を扱うことが相次いだり、死刑制度そのものの存廃をめぐる国際的な議論が高まっているなど時事的な要因もあってか、朝右衛門の語るせりふの一言一言は客席に対する深いメッセージとなって、刑罰とは何かを改めて問い直す。

 しかし、この舞台は、実は朝右衛門の物語である以上に、おのぶという女の一代記であったのだろうと私には思われた。新九郎という一人の侠客によって暖かい家庭や優しい結婚といった平凡な幸せを奪われ、一度は落ちるところまで落ちた女の、そこからの魂の遍歴こそが、この舞台の核であったように見えたのだ。

 物語中盤、朝右衛門の立つ土壇場で、新九郎とおのぶは因縁の再会を果たす。というより、そのためにこそ彼女はこの刑場まで流れ着き、憎い男が捕縛されてくるのを待っていたのだ。悪党は思いがけない女を目の当たりにし、恐慌状態で首を落とされる。

 自分の人生から何もかもを奪った張本人、この身を生き地獄へと落とした極悪人の首を手にしたおのぶは歓喜にあふれ、舞台上はカタルシスめいた妙な高揚感にみたされる。それまでの彼女の、「悪人」を罰することに対する過剰なまでの執着や、恨んであまりある新九郎本人への憎しみ、さらに、捕縛されてなお反省や後悔の色のない新九郎の憎々しさが効果的な伏線となって、その瞬間、ひどく気分のよい達成感を観客の側も確かに覚えるのだ。

「新浄瑠璃 朝右衛門」公演
【写真は、「新浄瑠璃 朝右衛門」公演から。提供=扉座 禁無断転載】

 単純な勧善懲悪の復讐譚であるなら、これを「ハッピーエンド」として幕が下りてもよかっただろう。しかし、人間の人生は一瞬のカタルシスの後も止まらずに続いてゆくし、その心模様はときとして皮肉なくらい複雑だ。

 憎い悪人への復讐を果たして心満たされ、それまで彼女を縛っていたあらゆる執着から解放されたはずのおのぶは、しかし晒された新九郎の首を前に、自分自身のひどく奇妙な心境に直面することとなる。ちっとも嬉しくない、すっきりしない、恐怖の表情を貼付けた生首に、涙があふれて止まらない。

 あんなにも、共に暮らした間は怖れ、別れた後は憎み続けた男なのに。首を落とされて嬉しかったはずなのに。まさか自分は、この生首を憐れんでいるとでもいうのだろうか。自分自身の不可解な情動の答えを求めて、彼女は新九郎の首を密かに手に入れると、それだけを持ってあてのない旅に出る。

 その後の彼女がどういった人生を送ってきたのか、作中で定かに語られることはない。しかし、朝右衛門のもとで過ごした日々が、きっとその生き方に大きな影響を与え続けていたに違いない。雨夜の荒寺で昔語りをする彼女は、貧しい身なりではあっても、娘の頃よりもずっと「生きている」ように見えたのだ。

 朝右衛門のもとを去ってから数十年、江戸の町人たちに鬼と怖れられた首切り役人の三代目もすでにこの世になく、おのぶもすっかり白髪の老婆となった。荒寺でチンピラの若造に朝右衛門の物語を聞かせていた彼女は、そのチンピラを追って乗り込んできた侠客が旧知の人物だと知ることになる。

 かつて、物語の序盤で、官吏の保身のため冤罪のまま首を斬られた町人の遺児、鬼次坊。刑場に勤めていた頃、実の子に死に別れたばかりだった彼女は、母親代わりにその赤子に乳を与えていたのだった。

 冤罪によって数々の怒りや恨みや嘆きにみまわれた不幸な家の中で、その幼子だけはせめて幸せになって欲しいと、当時、少なからぬ人ができる限りの手を尽くしたのだ。しかし物心つかないうちに僅かばかりの情けと祈りがかけられていようと、「犯罪者」を親に持つ孤児は世間の無責任な偏見と白眼視を受けて、心健やかに歪まず育つことはできなかったのだ。社会の底辺に渦巻く負のサイクルは覆ることなく、鬼次の構えた短刀が乳の親の胸を無惨に刺し貫く。

 現実は無情だ。祈りは届かなかった。願いはむなしい。
 残念な思いで事態を見ていた私の前で、しかしそんな悲劇の局面に到ってなお、老婆は男を親身に諭し、これから先の未来を祈ってみせたのだ。取り返しはつくのだと。今ここにあるものを結果として嘆くのではなく、その先にまだいくらでも可能性があると、おのぶは懸命にかきくどく。

 かつての願いは来し方で叶わなかったのではなく、行く末でこそ成就する。遅すぎるものなど何一つなく、これからいくらでも変わってゆける。鬼次へ向かう真摯な言葉はきっと、彼女自身が身をもって経験してきたことに他ならない。彼女こそが、長い時間をかけて変わってきたのだ。

 かつて、悪人の処刑という妄執にばかり取り憑かれ、心を閉ざして亡霊のように生きていた娘が、今ここで誰かの幸福を願い、祈りの言葉を口にしている。一人の人間の、その変容の様はまるで何かの奇蹟のようだ。

 思えばこの作中では、通奏低音のように「生きている間、人は変わってゆける」という信念が鳴っていたのだ。朝右衛門は日々罪人の首を斬り落としながらも、これはあってはならないほどの極刑で、行われるべきでないことなのだと主張する。この先の、ありとあらゆる可能性を一瞬で奪い去る処置だからだ。生きていればありえたかもしれない、悔いる機会も償う機会も赦される機会も、ささやかな幸福も。

 首切り役人の三代目山田朝右衛門は死刑制度を支持しない。しかし、現状としていまだその制度が存在し、処刑にあたるのが自らに定められた家業である以上、彼は実直に職務を勤め上げる。その主義と行動との矛盾を埋めるため、斬首とは何かという問いと正面から向き合い、見出した信念のもとに厳しく自身を律して仕置きに臨む。

 朝右衛門は公儀から職務を預かる代理人にすぎない。彼が人を罰するのではなく、公儀が正義を行うのだ。斬首は報復や懲らしめのために為されるのではないから、死の時をいたずらに苦しめてはならない。彼は一太刀で、人の中の悪を斬る。そう自分に言い聞かせ、土壇場に“立つ”覚悟を決める。

 いくつかの調査によれば、日本人のおよそ8割強が死刑を必要な制度と考えている。むろん、そう考えることにはそれなりの理由も正当性もあるに違いないし、その主張は今のところ悪いことでも間違ったことでもない。

 しかしひとつの見過ごせない事実として、この8割強のほとんどは、実際に自身の手で刑を執行する立場にはなり得ない。いや、手を汚さない安全な場所から自分に無関係の人間について「殺せ殺せ」と言うのは無責任な態度だ、と非難したいわけではないのだ。ひとりひとりの責任感のために、国民が皆、死刑を執行してゆくわけにはいかない。

 ただ、刑が執行されるとき、最後に手を下し殺害者の役割を引き受ける誰かが必ず存在するということは、私たちが見落とさずに自覚すべきことのひとつだろう。法の下の正当な職務として加害者になることを強要される、罪人でないのに罪人と同じことをする、そこに、苦しみも葛藤もないと思い込むわけにはいかない。

 北鎌倉に円応寺という寺がある。堂宇という程度の小さな寺で、地獄の閻魔大王を本尊としている。舞台上の朝右衛門の姿を観ていて、この閻魔を思い出した。円応寺では、「閻魔大王の願い」という教えが語られている。

 閻魔は亡者を裁き、さまざまな罰を与えて苦しめるので、その「罪」により、日に三度、閻魔自らも罰を受けるというのだ。獄卒や亡者が閻魔を取り押さえ、口をこじ開けて熱く溶かした銅を流し込み、閻魔の内臓は焼け爛れて苦しみのたうつ。閻魔はこのような苦しみを受けたくはないし、亡者を罰して苦しめたくもないのだが、しかし人間の罪過を知ればそれを見過ごしにすることはできず、彼らを罰して結局自らも罰される。このような苦痛のサイクルがなくなるよう、人間の犯す罪がなくなることが「閻魔大王の願い」だという。

 自分が罪を犯すことで、まるで関係のない別の誰かにも罪を犯させることになる。厳罰を要求する声が順送りにたらい回しされた、その末端で誰かが責めを追う。江戸ならば、山田朝右衛門。

 江戸の首斬り役人は、犯したくもない罪を負い無辜の民に鬼と呼ばれて、それを受け容れ、自分を罰するかのようにひっそりと暮らすのだ。たとえば市中で祭りが行われる間、彼は屋敷から一歩も出ない。浮かれる町の喧騒を遠くに聞きながら、無数の位牌を並べた仏間に篭って、祭りの続く間中ひとり経を読み続ける。歌うことも踊ることもなく、楽しむことを知らず、笑わずに自らを戒めて暮らす。

 その朝右衛門が、初めて笑った日のエピソードが印象深く描かれる。
 祭りに出かけず死者たちにひたすら経を読み続ける朝右衛門のために、せめて祭りの気分を届けようと、おのぶが夜中にこっそり、その枕元にひょっとこの面を置いたのだ。目を覚ました朝右衛門は、暗闇にぼうっと浮かび上がる面を見て、生首かと思って仰天し、それがひょっとこであると気づいて、夜中に声を立てて笑ってしまったのだと語る。

 だからおのぶ、と彼は言う。生きていれば、こんなこともある。この山田朝右衛門が、ひょっとこを見て笑うような日も訪れる。人間は生きている間、変わってゆける。

 自分を刺した鬼次を逃がした後、死にゆくおのぶは新九郎のしゃれこうべに手を伸ばす。あの日から、ずっと持ち歩き、共に旅をしたその首を両手に包んで、また二人だけになった、と語りかけるのだ。穏やかに、優しい眼差しで。この一場面について、おのぶは新九郎を許したのだとか、いつの間にか愛情めいたものが芽生えたのだとか、そんな風に言うのは少し男に都合がよすぎるのかもしれない。恨む心は残っているだろう。かつて抱いた恐怖も消えないだろう。けれど彼女はきっと、男の弱さを見抜き、人の業を知り、自分も彼も結局のところ同じ穴に生きる同胞なのだと気づいたのではないか。良くも悪くも自分たちをつないだ縁を、相反するいくつもの気持ちと共に、いとおしむように彼女は受け容れる。

 憎しみや慈しみや、さまざまな思いを重ねたおのぶの姿は、とても人間的で、美しく見えた。地を這い、遠回りしながら一歩ずつ、彼女の道のりは生き返るための過程であったのだろう。

 犯された罪はとりかえしがつかない。被害者の日々は何事もなかったように元通りにはならず、加害者が処刑されても被害者の喪失は埋まらない。司法の下に行われる刑罰は、被害者のための報復であってはならないし、だから、それは彼らの傷を癒すものにはなりえない。その痛みは、判決の場ではなく、もっと別のところで和らげられてゆくものなのだ。

 被害者の側が“ここから先”の人生を心安らかに、たのしみを持って、幸福に生きるためには、その心のありようこそが変わっていかなければならないだろう。もちろんそのための重要な課程として、加害者の側の償いや改悛は不可欠としても。被害者のために大切なのは、“加害者を”ということ以上に“被害者を”どう遇するのかが丁寧に慮られることなのではないか。

 許せないという思いを忘れないことは誠実だが、けれど、かたくなな心がほどけて人生はゆたかになる。変わってゆくことは決して、軽薄なことでも薄情なことでもなく、むしろきっと美しいのだと、舞台のラストシーンを見ていて思ったのだ。

 死んでゆくおのぶは哀れではなかった。彼女より先に逝っていた死者たちも、哀れではなかった。あの堅物の山田朝右衛門が、ひょっとこの面をかぶって踊りを踊っていたからだ。おのぶは朝右衛門によって変わってゆく手助けをされたが、おのぶもまた、朝右衛門の何かを変えていたのに違いない。それがきっと、この作品の祈りなのだ。
(紀伊國屋ホール 2010.12.3 観劇)
(初出:マガジン・ワンダーランド第226号、2011年2月2日発行。無料購読は登録ページから)

【筆者略歴】
 金塚さくら(かなつか・さくら)
 1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kanezuka-sakura/

【上演記録】
扉座第46回公演「新浄瑠璃 朝右衛門~原作・小池一夫/作画・小島剛夕『首斬り朝』より~」
【厚木公演】厚木市文化会館小ホール(2010年11月27、28日 厚木シアタープロジェクト ネクストステップ第1回公演)
【東京公演】紀伊國屋ホール(2010年12月1~5日)
*上演時間は休憩なし、約2時間5分

原作=小池一夫
作画=小島剛夕
脚本・演出=横内謙介
出演=岡森諦、中原三千代、有馬自由、犬飼淳治、高橋麻理、鈴木利典、岩本達郎、上原健太、鈴木里沙、高木トモユキ、川西佑佳、安達雄二、江原由夏、上土井敦、新原武、串間保彦、栗原奈美、藤本貴行、鈴木崇乃、江花実里、吉田有希
オーディションで選ばれた市民(厚木公演のみ)

浄瑠璃作曲=竹本葵太夫
美術=中川香純
技術監督=大竹義雄
大道具=島崎義行
照明=塚本悟
音響=青木タクヘイ
衣裳=木鋪ミヤコ
演出助手=田島幸
舞台監督=大山慎一
宣伝美術=吉野修平
タイトル文字=小林覚
票券=小林香織

制作=財団法人厚木市文化振興財団(厚木公演)、赤星明光・田中信也(扉座)
製作=財団法人厚木市文化振興財団、扉座(東京公演)
協力=MANGA RAK Inc. 小池工房、小池書院、松竹、星野事務所、krei inc. 
アンテーヌ リベルタ、JUSTICE、プランニングアート、ASG、ステージオフィ
ス、ドルドルドラニ、大山組、明和運輸。

全席指定・日時指定 
一般4200円(前売)、4500円(当日)、学生券3000円


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください