演劇教育の先端で何が起きているのか-いわき総合高校の試み(後編)

 土佐有明

 前編では、今年で10年目を迎えるいわき総合高校の演劇教育の軌跡を辿り、濃密な演劇の授業を体験している生徒たちが、必ずしも役者や劇作家を志しているわけではない、という事実を最後に指摘した。卒業後に演劇を続ける生徒はおよそ2割から3割程度。<あくまでも、10代後半の多感な2年間に、学校の授業の一環として演劇に取り組むという特殊な状況が、彼ら/彼女らの演技の特殊な質感と深く相関しているのではないだろうか。>と、最後に締め括った。後編ではこの、演技の“特殊な質感”についてもう少し仔細に検証してみよう。

 以前、ポツドールという劇団の取材で役者の座談会を行った際、「ポツドールでは、手持ちの札で演技させてもらえないから、普段通りにこなしていると見抜かれる」という話を聞いたことがある。この言葉になぞらえていうと、高校生たちは、演技する上での“札”に頼ることもないし、そもそも、“こなす”という感覚自体を分かってもいない。だから、過去の誰かの演技を真似たり参照することもないし、自分で自分の演技をなぞるようなことはしない。少なくとも、いわき総合高校では、それは推奨されない。

 前編で、指導の上で現代口語演劇のメソッドがベースになっている、と書いたが、それはもちろん、平田オリザの理論を教科書的にお手本にするということではない。指導に当たる石井教諭は、「私たちが行っている演劇教育は表現教育で、演技術・俳優術を教えるものではない」という。つまり、自分を表現するいち手段として演劇があり、「演技というものは常に自分が土台になっている」という発想である。そして、この「自分という土台」を形成する上で重要なのが、「演技・演出」で2年次に行われる、「自画像」というひとり芝居を作る授業だ。これは桐朋短期大学で始まった授業を石井教諭がアレンジしたもので、「自分自身を一つのモノローグ芝居として作品化するプログラム」だという。ここで生徒たちは、今の自分の心情を嘘偽りなく表現することに挑戦する。指導する側がリアルな感覚で言葉を紡ぐことを要求するので、演技の上で誇張や虚構は削ぎ落とされ、生徒たちは「表現の土台が自分である」ことを認識する。生徒たちは、自己と向き合う過程で最初は戸惑い、自分の力のなさを痛感するが、やがて「できなくてもいい」ということが分かり、次第に“できないこと”そのものを楽しむようになる。

 いわき総合高校では、教諭も生徒も演出家も、ひとつしかない正解に向かって演技や演出を指導したりはしない。何が良い演技なのか、生徒の数だけ正解があるというのが基本姿勢だ。むろん、台詞を標準語に統一するようなことはしない。実感の伴った言葉を発することを最優先とし、発声やアクセントに濁りやノイズが混じろうとも、それも個性ゆえの“正解”なのだと、教諭や演出家たちは無言裡に肯定してくれる。

 そうした方針はもちろん、公演にも顕著に表れる。例えば、筆者がいわきで観た『平成二十二年のシェイクスピア』では、本番直前になって、ゲームを好きな生徒がゲームをする場面、ドラムが得意な生徒がドラムを叩く場面、ダンスを習っている生徒がダンスする場面が、それぞれ多田淳之介の演出によって劇中に自然に盛り込まれた。実際に自分たちが得意なことや好きなことに興じるシーンを劇中に挿むことによって、生徒たちは俄かに活気づいてくる。台詞も、「シェイクスピアって、人じゃなくて部類だと思っていた」とか、「『オセロ』って、火サスと昼ドラを足して2で割った感じ」とか、彼ら/彼女らの本音が虚飾なしに活かされる。実際に日々思っていることを自分のリズム、自分のアクセントで喋っているのだから、どの言葉にも借り物っぽさや嘘っぽさがまるでない。段取りを“こなす”ような無粋さとはまるで無縁の演技である。

 ところで、これは多田とも現場で話していたのだが、稽古の休憩中の生徒たちの挙動といったら、それはもう、計り知れないオモシロさだった。電車内でよく見かける光景だと思うが、そもそも、中学生や高校生というのは3~4人集まるとまったく別の生き物になってしまうようなところがある。アニメ『けいおん!』を想起してもらえば分かるだろうが、ボケとツッコミの当意即妙の応酬、やかましくも楽しげな雑談、時折飛び交う奇声やら怒号……そういったものを、高校生たちは無自覚に、特権的に有している。稽古よりも休憩中の挙動のほうがオモシロい、というのもおかしな話だが、そこからは、丁寧にパッケージ化された演劇以上に演劇的とも思える、コミカルに圧縮された人間ドラマが垣間見えたのである。ポツドールの三浦大輔が、つまらない芝居を観るなら、ファミレスで隣のヤンキーの会話を聞いているほうがよっぽど面白い、という趣旨の発言をしているが、それと同じことを彼ら/彼女らの挙動に感じた、といってもいい。

 そして、教諭やいわきを訪れる演出家たちは、そうした生徒たちの素の良さを感知して、意識的に舞台に乗せようとする。前編で述べたように、前田司郎が演出した「五反田団といわきの高校生」の公演が特定の脚本を設けず、日常の雑談を台詞に転化したのもそうした意図があってのことだろう。ちょうどこの原稿を書いている最中にいわきで観た、快快プロデュースによる『いわきの高校生インザ蚤の市』も、生徒の個々の特質やキャラクターを重視した演出がなされていた。演出家や教諭のイメージに生徒たちの演技を近づけて行くのではなく、既に彼ら/彼女らが持っている個性を磨き上げ、より輝かせるやり方である。

 こうした演出の最大の面白味は、生徒たちの日常における仕草や発話と、舞台上でのそれとの間に齟齬や乖離が存在しない、という点だろう。喩えるなら、気負ってよそ行きで着飾るのではなく、普段着の可愛さやかっこよさを強調して見せる、とでもいおうか。無論、そのプロセスには演出家や教諭もたっぷり時間と労力をかけて、個々の生徒がもっともかっこよく見える普段着を、慎重かつ丁寧にコーディネートしてゆく。そうして、卒業式の直前に行われる東京公演では、普段着が見事に晴れ着になるというわけだ。

 また、よそ行きを羽織らずとも観客を感動させられるのは、生徒たち自身が、自分たちの良さを自覚していないから、でもあるだろう。前田司郎は前述の舞台のパンフレットに、<高校生たちはなんも考えてないように見えて多分何も考えていない。いや、考えてるよと言うかもしれないがそういうことじゃなくて。考えてないっていうか、計算してない。計算してする芝居なんて駄目だよね。でもどうしても計算しちゃうんだけど僕らは。計算しないように頑張ってる僕らが、できない人にあこがれるのは当然です。計算できてない感じがとってもかっこいいお芝居です。>と書いているが、言い得て妙だと思う。

 生徒たちには最初、演劇に対する先入観や刷り込みがなく、白紙の状態で演技に臨むわけだが、教諭や演出家はそれを“素人”としてマイナスに考えることはしない。逆に、白紙だからこそ、その“白さ”が目の眩むような輝きを放つこともある、ということを熟知し、脚本や演出を工夫している。無論、それに生徒たちが応えられるのは、「自画像」等の授業を通じて、演出家の要求に応えられる技術的な土台を培っているからだろう。いわき総合高校の演劇が、日常的な体温や感情の微細な揺れを、下手に清書することなく提示できるのは、指導者と生徒の間で同様の土台が共有されているからなのだ。

 先述の『いわきの高校生インザ蚤の市』は30日のみ、ニコニコ動画で生放送され、コメント欄には「こんな高校うらやましすぎる」「高校とは思えない」「日本一だ」「総理大臣に見せたい」など、賛辞の声が多数寄せられた。中でも多かったのが、「先生がすごい」というコメント。確かに、本稿で述べた通り、石井教諭の功績はいくら強調してもしすぎることはないと思う。

 教諭は、指導の他にも、東京から来る演出家へのギャランティや、東京公演の遠征費用といった財源確保にも奔走している。つい忘れがちだが、これだけの先進的な演劇教育を実践し続けるのには、労力はもちろん、少なからず金銭が必要になる。石井教諭は外部からの講師招聘を始めた04年から現在まで、その為の財源を、県や文科省の助成金枠を利用し、ありとあらゆる手段を講じて確保してきた。

 方々から申請可能な助成金を探してきては、必死に申請してここまでやってきた、という教諭だが、そもそも、「学校教育は、特に授業の一環だと助成が受けにくい」という。ちょうど、助成のアテがなくなった09年から、文科省がコミュニケーション教育の推進を始めたこともあって、現在はそこからの助成金を頼りにしているそうだが、それも今後も下りるという保証はない。むしろ、演劇教育の必要性や有用性を国に必死で訴えて、ようやく現状を維持できているのが実状らしい。「それでも無理矢理これをやってきたのは、演劇教育の重要性と必要性を証明し、教育界に一石を投じられるのではないかと思ったからです」と、石井教諭は述懐する。

 同校の7期生たちと『平成二十三年のシェイクスピア』を作り上げた多田淳之介は、「演劇を幸せにしたい」という意味を込めて「演劇LOVE」というキャッチフレーズを使っているが、「演劇が幸せになる」ためには、今10代の子供たちが10年後、20年後、どう演劇と接するかにかかっている。多田がよく口にする、「絵を描いたり歌を歌ったりするのと同じ感覚で、演劇をやるという感覚」が根付くかどうかは、教育にかかっていると言っても過言ではない。いわき総合高校の演劇に心を揺さぶられ、感銘を受けたひとりの観客として、同校の試みが今後も途切れることなく続いていくことを、切に願う。そして、本稿を読んで同校の演劇に興味を持った読者が、ひとりでも多く『平成二十三年のシェイクスピア』 (http://deathlock.specters.net/) を観にキラリふじみに足を運んでくれたら、筆者としてこれ以上の悦びはない。

(以下、筆者註)
※執筆にあたって、石井路子教諭に2010年にいわきで行ったインタビューと、メールでの質問への回答を参考にさせて頂きました。
※石井教諭が『演劇と教育』08年5月号、および2010年8+9月号に寄稿された演劇教育の実践記録を一部、要約する形で引用させて頂きました。
※前編で五反田団といわきの高校生『3000年前のかっこいいダンゴムシ』の出演者について、「7期生」と記しましたが、正しくは「6期生」でした。お詫びして訂正します。

(初出:マガジン・ワンダーランド第226号、2011年2月2日発行。無料購読は登録ページから)

【著者略歴】
 土佐有明(とさ・ありあけ)
 1974年千葉県生まれ。ライター。『ミュージック・マガジン』 『レコード・コレクターズ』『エクス・ポ』『マーキー』『東京新聞』などに寄稿。CDのライナーノート執筆、演劇パンフレットの仕事も多数。現在入手可能な作品に、過去の原稿をまとめた『土佐有明WORKS 1999~2008』、『土佐有明の原稿 約3年分(2008~2010)』、取材・構成を担当した劇団ポツドールの公式パンフレット、アルゼンチン音楽の編集盤『トロピカリズモ・アルヘンティーノ』がある。詳細は個人ブログ: http://d.hatena.ne.jp/ariaketosa/ にて。

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