玉造小劇店「ワンダーガーデン」

◎不思議の庭の四姉妹 新旧三種の「二十年間」を定点観測
 金塚さくら

「ワンダーガーデン」公演チラシ 時は明治の終わり。白いバラの咲き乱れる洋館の庭。
 とある良家の三姉妹が、長女の結婚によって四姉妹になるところから物語は始まる。長女・千草、次女・薫子、三女・葉月に、千草の夫の妹・桜が実の妹同然に親しく交わるようになり、さらにそれぞれの娘たちの恋人ないしは配偶者が加わって、二十年に渡る一家のささやかなドラマを紡いでいく。明治から大正、昭和と移り変わってゆく時代の中で、舞台上ではNHK朝の連続テレビ小説のようにクラシカルな物語が展開する。

 わかぎゑふ作・演出の『ワンダーガーデン』は、八人の登場人物をたった四人の役者が一人二役ずつ担当し、しかも各々が男と女を両方演じ分けるという趣向が大きな見どころの作品である。役者たちは衣裳もメイクもほとんど変わらぬままで、男女の間をばたばたと行き来する。

 実は初演を観ている。いや、正確にはそれと今作とは「初演」「再演」の関係とは言えないのだろうか。2009年の「初回」は花組芝居OFFシアターの一環であり、「今回」は同じ出演者ながら玉造小劇店配給芝居のvol.9という扱いだ。
 今回の公演では、「初回」メンバーの花組男子「四獣」に加えて、もう一組、女子のみ四人で構成される「四華」チームも上演するという。こちらは特定の一劇団のメンバーということではなくバリエーションに富んだ出自の女優が集まっている。小椋あずき、大森美紀子、澤田育子、高橋由美子。彼女たちも勿論、男女の二役である。

 まじめな長女・千草役の役者は、義妹・桜の見合い相手で後に三女の夫となる商売人の毛利修平を兼役し、しっかり者の次女・薫子を演じる者は三女の元恋人にして後に義妹の夫となる詩人くずれの石巻竜司も演じる。華やかな三女・葉月役が兼ねるのは、次女・薫子の永遠の王子様、大村洋次郎子爵。個性的な義妹・桜役はその実の兄にして長女の夫である厳格な海軍将校、杉山孝明を兼ねている。
 「初回」の公演時は、長女/毛利を桂憲一、次女/石巻を八代進一、三女/大村子爵が大井靖彦で、杉山兄妹に植本潤という配役であり、妥当性と意外性がほどよく混在していて、見ごたえのある配役であった。
 今回の公演では四獣の四人も役柄の組み合わせががらりと変わり、長女/毛利は大井靖彦、次女/石巻は桂憲一、三女/子爵に植本潤で、杉山兄妹は八代進一になっている。女優による四華バージョンでは、長女から順に、大森美紀子、高橋由美子、澤田育子で、杉山兄妹に小椋あずきという配役である。

 舞台上では淡々と彼らの人生の一場面が綴られる。私たちはその 二十年間を、庭の一隅から定点観測のようにこっそりと目撃するのだ。決して大上段なドラマが展開するわけではないが、小さな騒動は巻き起こり、それなりに波乱万丈な年月を、彼らは全力で生きてゆく。

 最初に嫁いだ千草は、まじめな夫と計画通りに子をつくり、厳格な家訓に則って模範的な家庭を営む。文学少女を気取って新聞を読んでは「はしたない」と千草に叱られていた葉月は、自由恋愛を主張してみたり女権拡張運動にかぶれてみたりと青春を謳歌し、毛利に嫁いだ後は事業に成功して、ブルジョワジーと呼ばれながら優雅に暮らす。
 桜はおとなしい平凡な娘なのかと思わせて、ある日突然、勝手に小劇団に飛び込んで舞台女優になる。いつの間にか民権運動にも手を染めて官憲から目を付けられるが、夫の石巻と共に貧しくもたくましく生き抜いている。
 姉妹たちが嫁いで出て行った屋敷を、ひとり守り続けるのは薫子だ。杉山兄をして「女にしておくのはもったいない」と言わしめる冷静で辛辣な彼女も、一生に一度の大恋愛をする。しかし相手の大村子爵を飛行機事故で亡くし、自身も怪我をして以降、見合いも結婚もすることなく、救世軍の仕事などしながら庭の手入れをし、バラを咲かせ、台湾人の文通相手へ手紙を書き、訪う者たちを迎え入れて日々を送る。

 性格も境遇もまるでバラバラの姉妹たちだが、意外にも対立することはなく、互いの個性を尊重しながら、移り変わる世情の中を助け合って生きている。桜が政治活動で投獄されれば薫子が大慌てで救いに行くし、裕福な葉月夫婦は、張り込みの憲兵の目を大仰な猿芝居で誤魔化しながら、桜夫婦に現金を渡して経済的に援助する。
 千草が悩めば、実家の庭で薫子がその愚痴を受け止める。そしてきっと、そうやって実家の庭に集うことが、独りで暮らす薫子をなぐさめてもいるだろう。

 「初回」では、四姉妹の物語とは言っても、実質次女が中心的な位置に立っている印象があったが、「今回」は他の三人の娘たちも見せ場を主張していたように感じられ、とりわけ義妹の桜が存在感を強めていたように思う。四獣でも四華でも、血のつながらない異質なものとして、ぐいぐいと力強く場を牽引していた。
 八代の桜は、最初の登場時の、世間知らずな少女の佇まいにはいささかの違和感を覚えるものの(その点については「初回」の植本が独壇場であった)、後半戦、アングラ的な舞台女優になり、果ては大正デモクラシーの民権運動家として活躍するようになると、鋭利な持ち味が俄然冴える。したたかで芯の強い彼女の背後に、激しく移り変わってゆく時代の波が見えるようだ。
 小椋あずきの桜も強烈だ。やたらに古風なインパクトは、出てくるだけで満場の笑いを攫うが、それだけでない圧倒的な存在感で作中通して舞台に君臨し続ける。あか抜けない鈍感少女からたくましく生き抜く女闘士まで、異様な説得力で演じ抜けていく。

 小椋はしかし、桜以上にその兄が見事であった。とりたてて男を装うことのないごく自然体の演技は、冷静に振り返れば単に男っぽいおばさんなのだが、観ている間は大きな違和感はなかった。むしろ、小椋の海軍将校はそのおばさん的な要素が重要な意味を持っていただろう。

 物語の終盤で、杉山兄と薫子が二人だけで話をする場面がある。結婚以来ずっと従順な妻として杉山家の家訓に従っていた千草が、息子の入隊をめぐって初めて夫に反旗を翻し、実家に立てこもったのを杉山が追ってくる。
 その一幕の中で、千草が席を外している間に薫子に語るのだ。妻の気持ちはちゃんと解っているのだと。それでもなお頑固なまでに厳格に振舞うのは、真面目な妻の長年の努めを慮ってのことである。今ここで家訓を曲げるのは簡単だが、それでは彼女のこれまでの忍耐をないがしろにし、努力を無にしてしまう。
 四角四面で杓子定規な軍人だとばかり思われていた彼も、懐の深い理解のある人間であることを描く好シーンなのだが、その中でさらりと一言、自分の母の姿と重ねて、千草の心痛に理解を示す台詞がある。

 なんということはない台詞だ。自分が軍隊に入ると言ったときに、母が物陰で泣いていたという、ただそれだけの一言なのだ。しかし、その瞬間の小椋には、杉山兄という媒介を通して、後ろに母そのものが透けていた。軍人は立派な仕事だと頭で解っていても、我が子を危険にさらしたくはない裏腹な親心。けれどその本心を表に見せることはゆるされない、古い時代の哀しい母性が杉山兄の向こうに滲んで、胸を突かれた。
 この場面がこんなにも印象深いものになるとは思ってもみなかった。この境地は、いかに女形芸を鍛えられた花組芝居の面々であっても、容易に体現できるものではないのだろう。ここにこそきっと、女優四華版の真価がある。

 互いの個性をぶつけ合いながらもどこか同質の空気を持つ四獣の四姉妹に対して、四華の姉妹は実はあまり姉妹らしく見えない。どちらかと言えば、デスパレートでセックス・アンド・ザ・シティな女友達のようだ。彼女たちの舞台はむしろ、姉妹をとりまく四人の男たちのほうが似通った統一感を持っていたようにも思う。一方で四獣の演じる夫たちはまるで他人であることを思うと、その違いははたして演じ手の男女差に拠るのか、それとも所属劇団が一緒か否かの問題なのか、そのあたりはなかなか興味深い。

 しかし、姉妹らしく見えない四姉妹も、まるで他人の義理の兄弟たちも、全体で見るとき、彼らは大きなひとつの家族のようだ。一族間のつながりが深かった時代のレトロな情景ということなのだろうが、しかし同時にそれはとても現代的な風景だとも感じられた。
 姉妹たちはあまりにも姉妹間だけで仲が良い。外部の人間との関わりはあまり詳しく描かれることなく、姉妹義兄弟以外の親戚も登場せず、なにもかもごく近しい内部の人間だけで完結している様は、随分と今風の人間関係にも思われるのだ。
 
 作中でほとんど唯一、「外部」であるのは大村子爵だろう。しかし身内だけで結束した世界の中では、外部は中途退場を余儀なくされるのか、子爵は結局、飛行機の墜落による非業の死を遂げる。

 彼は飛行機乗りなのだった。上空から見たバラの美しさに惹かれてその庭を訪れ、薫子と出会う。互いに想いを寄せながらも、子爵は既婚者であり、薫子はかたくなに「良き友人」以上の関係を望もうとしない。子爵は急かすことなく、彼女が心を開くのを待っている。
 自分の気持ちを押し付けることは相手にとって迷惑だと独断し、分別を言い訳に、本心を明かすことを怖れる。両者の、それは思い遣りと見せかけた臆病なのだ。曖昧な現状の心地よさに甘えて、先へ進むことから逃げている。決断を下すことで、何かを変えてしまうのが怖いのだ。
 運命のその日、もどかしい二人の関係が急展開を迎えることになる日、子爵は言う。「僕はこの庭から貴女を連れ出したことがない」
 ぽつりと漏らされるその一言は、もしかするとこの作品のある側面を自ら指摘するものであったかもしれない。無意識には違いないが、たしかにこの物語では、すべては庭に取り込まれ、内部でのみ展開しているのだ。
 少数の演じ手によるワンシチュエーションであれば当然のことだし、だから決して閉塞感などネガティブな印象があるわけではないが、そんな風に見ることはできる。

 実際にはその一連は、とても美しい場面であったのだ。分別ぶった妙な遠慮と臆病から自ら幸福を遠ざけていた二人が、ようやく互いの心を通わせる。飛行機に一緒に乗せてほしいと頼む薫子に、子爵は、隣に乗せるのは真の恋人だけと決めていた、と答え、出会ってからおそらく初めて二人の手は重なり合う。
 二人は庭を出て、飛行機に乗り込んでゆく。無人の舞台にはエンジンの爆音だけが響き、やがて不穏な豪雨の音も重なって、エンジン音は不意にバランスを失う。誰もいない舞台を目を凝らして見つめる私の耳に、突き刺さる衝突の轟音。長い暗転の中で、子爵は想い出の人となる。

 大井が演じた「初回」の子爵は夢のような王子様ぶりで、うっとりするほどロマンチックな舞台を見せた。その点「今回」の子爵は、四獣の植本も四華の澤田も、やや笑いを狙いがちな役作りであり、正攻法のロマンスを避けている印象があって、いささか心残りだ。彼らはエンディングにおけるもう一役の方が誠実な芝居であったと思う。

 それは「初回」では四人の役者の誰も演じなかった役だ。次女の文通友達。「初回」では、劇団を離れてしまった四獣の元同期が、そのためだけに舞台に立った。
 実は、「初回」は純粋な演劇の公演ではなかった。あのときは花組芝居同期入座の四人による、在籍二十周年記念の特別イベントという側面があったのだ。

 舞台の終盤に、女たちが四姉妹になってから二十年の来し方を振り返る一幕があるが、それは物語の一場面でありながら、同時にそこに演じ手の、彼らそのものの姿が重なるように企図されていた。ラストシーンで交わされる台詞は、作中の登場人物としての言葉である以上に、彼ら自身による、生身のメッセージであったのだ。
 エンディングでは、バラの咲く庭の姉妹のもとへ、また新たな人物が訪れる。来訪者は言う。この二十年間、自分は誰よりも貴女がたを知る者のひとりなのだと。
 物語において、その来訪者は二十年に渡って次女と文通を続けてきたペンパルだ。そして現実に、その台詞を口にするのは、懐かしい元同期という仕掛けなのだ。
 舞台上には四姉妹が勢ぞろいし、元同期の来訪者を見つめて次女が言う。
 「きてくださって、ありがとう」

 「初回」公演時、舞台のすべてはこの、次女の最後の台詞のためにあった。それは作中の薫子として、長年の友に向けての歓迎の言葉であり、そして同時に、役者八代進一として、自分たちのためにこの場に立ってくれた旧い仲間への謝意であり、そして何より、今この客席で彼らの舞台を観ている者への「きてくださって、ありがとう」でもあったのだ。作品はまるごと、彼らの役者人生を支えてきたすべての人へ、感謝の言葉を伝えるための方便であった。
 それは芝居としては少しばかり卑怯な手段と言えるのかもしれないが、イベントとしては、ひとつの台詞が二重三重の意味で響いてひどく感動的だった。しかし「今回」はイベントではなく、二十年はただ、あくまで姉妹の二十年なのだ。この仕掛けは意味を持たない。
 「今回」のエンディングはどんなふうに変わるのか、私は少し固唾をのんで待っていた。

 物語は同じ流れで展開し、やがてバラ咲く庭に来訪者が現れる。三女/子爵役を務める役者が演じるからには、四姉妹が舞台上に勢ぞろいするわけにはいかず、ラストシーンは次女とペンパルの一対一の邂逅となる。

 「ここは不思議な庭」「不思議なことが起こる庭」
 貴女がいつもそう手紙に書いている、と初対面の文通友達は言う。だから自分の突然の来訪も、驚くほどのことではないだろうと。
 その言葉には、少しばかりの引っ掛かりを覚える。いつもと言うほど、この庭ではかつて不思議なことと呼べる何かが、はたして起こっていただろうか。
 四姉妹たちの二十年間は決して華々しいドラマというわけではない、ささやかな日々の積み重ねではなかったか。たしかに次女と子爵の悲恋はロマンチックな一大悲劇ではあったが、それも思い出の中に埋もれて、もはや美しい挿話にすぎない。

 いったいどんな不思議なことが、この庭にはあっただろう。
 まだほんの娘だった時代、宮様のドレスに憧れて、庭先で新聞を囲んで皆ではしゃいでいた。杉山兄は千草に杉山家の家訓を提案し、軍から配給の衛生サックを託した。葉月は行儀見習いの奉公が長続きせず、桜は見合いをあっさり断った。夕空を飛行機が飛んでいた。あの木戸から、バラに誘われて子爵は庭へ入ってきた。石巻も木戸から入ってきて、毛利に追い出された。この庭で、子爵と薫子は互いの想いを打ち明けあった。

 ペンパルの一言に、気がつけばつい思わず、ここまでの舞台を振り返っている。過ぎ去った「あの日々」が、まるで我が事のように懐かしい。
 つまり、物語の中で真実「不思議なこと」が起こったかどうかというより、この台詞には発されること自体に重要な意味がある。観客はその言葉に促されて、ついうっかりここまでの舞台を追想し、姉妹の気持ちに寄り添ってしまうのだ。

 そこからどっぷりと二十年を回顧した「初回」に比べて、けれど「今回」は来し方に思いを馳せるのはさらりとほんの一瞬だ。
 「今回」の次女は、ありがとうとは言わない。初めて顔を合わせる長年の文通友達を、ようこそ、とやわらかく迎え入れ、お茶に誘う。

 同じ流れで構成されても、おそらくは作品そのものの、まなざしの向きが違っているのだ。
 過去を懐かしむのか、未来を目指すのか。「今回」の舞台は二十年を回顧するものではなく、積み重なった二十年の、その先をこそ正面に見据えている。ペンパルは懐かしい思い出としてではなく、新しい未来そのものとして、希望の予感をたずさえて舞台に現れるのだ。
 屋敷の中へ入ってゆく友を、彼女もすぐに追ってゆくだろう。どんなにささやかでも人生は常に驚きにみちて、物語の結末は、幕の下りたその先にある。
(観劇日時:四獣 2012.3.12 19:00-/四華 2012.3.18 19:00-)

【筆者略歴】
金塚さくら(かなつか・さくら)
 1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kanezuka-sakura/

【上演記録】
玉造小劇店配給芝居vol.9 『ワンダーガーデン
東京公演 座・高円寺(2012年03月08日-18日)

【作・演出】わかぎゑふ
【出演】
四獣/スーショウ:桂憲一(花組芝居)、植本潤(花組芝居)、大井靖彦(花組芝居)、八代進一(花組芝居)
四華/スーホア:高橋由美子、大森美紀子(演劇集団キャラメルボックス)、澤田育子(拙者ムニエル/good morning N°5)、小椋あずき

【スタッフ】
舞台監督:安田美知子
舞台美術:佐々木記貴
大道具:アーティスティックポイント
照明プラン:高山晴彦(PAC)
照明オペレーター:千原悦子(PAC)
音響:清水吉郎
小道具:石井みほ
衣裳:リリパットアーミーⅡ
演出助手:大野裕明(花組芝居)
【料金】全席指定 4,500円(税込)

主催・企画・制作:玉造小劇店
後援:杉並区
提携:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク
初演舞台 撮影:コスガデスガ

神戸公演 新神戸オリエンタル劇場(2012年4月7日-8日)
【料金】S席:5,000円 A席:3,500円(全席指定税込)

「玉造小劇店「ワンダーガーデン」」への5件のフィードバック

  1. ピンバック: 薙野信喜
  2. ピンバック: 四獣(スーショウ)
  3. ピンバック: 植本潤
  4. ピンバック: sea shells
  5. ピンバック: わかぎゑふ

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