TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作)

◎「観る」とはどういう行為なのか
金塚さくら

TAGTASプロジェクト公演チラシ舞台は薄暗く、奥までほとんど剥き出しだ。装置と呼べるものは上手に立てられたパネルと、下手に据えられたダンスレッスン用のバーしかない。もうひとつ、簡素な演台が奥に置かれている。
演台の向こうに男が立つ。ヘッドホンを着けカセットテープらしきものをセットし、手元のノートに目を落として論説文のようなものをゆっくりと朗読し始める。「本当のことを話す者にとっては-」

音読みがどうとか訓読みが何だとか、どうやら言葉について何事か述べているらしいが、何を言っているのか解らない。声はいくつもの高低に別れてばらばらにエフェクトがかかり、必死に耳をそばだてても何を言っているのかよく聞こえないのだ。くぐもった不協和音は異国の呪文のようにうねるばかりで、意味を伝えてこない。

やがてステージの真正面に四角くスライドが表れる。男が読んでいる文章を一文字ずつ、後を追うように大写しで投影してゆく。聞こえない言葉が視覚的に補完されるかと期待して懸命に読もうとするが、一文字ずつに分断された巨大な明朝体はもはやただの図形だ。どんなに目を凝らしても、文章として“読む”ことはできず、結局こちらも意味を伝えない。

こうして始めから、言葉は解体されていた。
気がつけば舞台の隅にはひっそりと、黒い服のダンサー。いつの間にか踊りだしている。

演じ手は順に現れる。朗読する男。踊る男。高いところから黙って下りてくる男。生真面目に「私は臣民である」と宣う女。食パンを持って舞台に上がり、茫然と立っている男。派手な眼鏡をかけて新聞を読む和装の女。「侵入してくる!」と叫びながら壁に衝突するようにして踊る女。ピンクの棒切れに布人形をぶら下げて踊る浴衣の男。語る男。話す男。赤裸々な話をするために服を脱いで裸になる男。

彼らはそれぞれに言葉を発しはするが、それを手掛かりとして「ストーリー」を見出すことは困難だ。彼らの語る言葉は、何かを説明したり物語るための台詞ではないのだ。ここでは社会で通用している枠組みの外側で言葉が発されていた。むしろ敢えて外側へ外側へと向かうことが目指され、現代国語のシステムから逃れようとしていた。少なくとも私にはそのように思えた。

一見脈絡の読めない個々のパフォーマンスに、それなりに共通するものを見出すとすれば、おそらく「言葉」に対するある種の警戒心があったと思うのだ。

「言葉」とは多分に権威主義的なものだ。言葉の“正しい使い方”は時の権威によって定められ、人々は諾々とその取り決めに従っている。しかもたいていは、その「正しさ」とは誰かが決めたものなのだということを意識すらしていない。それは自然発生的な法則だと信じ、無批判に「権威」の望む通りのやり方で言葉を発しているのだ。

言葉はひどく危険な道具でもある。言葉を通すと、深く考えもしないものを安易に理解したようなつもりになれるし、他者の意見をまるで昔から自分もそう考えていたかのように錯覚できる。巧みな言葉はするりと心のうちに入り込み、思考回路を形づくって、人を内側から支配する。

有史以来ずっと人は言葉に欺かれてきた。彼らのパフォーマンスは、意図的にせよ結果的にせよ、そうした糾弾と警告を浮かび上がらせるようだ。史書には勝者の言葉で勝者の正しさが説かれ、一兵卒の犬死には美々しい言葉で飾り立てられ英雄譚となり、群衆は誰かの言葉の尻馬に乗ってろくに検証もせずに「犯罪者」を裁く。言葉に踊らされて無数の悲劇が起こった。見てもいないものを信じ、知りもしないことを語り、何かを理解したようなつもりになって簡単に決めつける。そうして罪ではないはずのことが処罰の対象となる。

言葉は信用ならない。だから彼らは言葉に依らないのだ。安易な意味づけを拒み、何事も簡単に語ることを許さない。
「大逆」、すなわち“その存在”に関して異を挟むことが極刑に値する罪となる。疑問すら寄せ付けないそうした存在がつまり「権威」であるなら、大逆をテーマとするパフォーマンスにおいて、彼らが言葉に対して警戒し、規律から逃れようとするのは納得のできることだ。

彼らの手で言葉はすっかり解体し尽くされ、私はがらんどうになった前篇の劇場を後にする。しかしこの状況下で、ステージに延々と映し出される彼らの「宣言文」が饒舌なのはなぜなのか。

後篇の舞台もまた薄暗く、奥まで剥き出しであった。装置もほとんど同様で、しかし前篇でバーの置かれていた下手には、オーケストラピットのように椅子と譜面台が並んでいる。舞台奥には今回も簡素な演台がひとつ。

やがて数名の出演者が舞台に上がり、思い思いといった風に椅子に座る。そうしてマイクを手に持ち、自己紹介から始めて簡単な経緯の説明をするが、それはあっという間に討議の様相を見せ始める。

いきなりの展開にこちらが困惑をしているうちに、彼らの会話に被さるようにして演台の向こうに男が現れる。ヘッドホンを着けカセットテープらしきものをセットし、手元のノートに目を落としてゆっくりと朗読を始める。「本当のことを話す者にとっては――」

読んでいるのは前回とまったく同じ論説文だ。今回も声はいくつもの高低に別れてばらばらにエフェクトがかかり、聞き取り難い不協和音は意味を伝えない。やがてステージの真正面に四角くスライドが表れ、男が読んでいる文章を一文字ずつ、後を追うように大写しで投影する。もちろん、分断された巨大な明朝体は文章としての意味を伝えない。

気がつけば舞台の隅にはひっそりと、黒い服のダンサー。討議の場にいたはずの彼は、いつの間にか踊りだしている。

こうして舞台は前篇の流れをなぞるようにして、パフォーマンスになだれ込んでいく。しかし前篇ときっちり同じではなく、ダンサーは前回の半分も踊らないうちに途中で止められ、オーケストラ席のメンバーとの質疑応答が始まる。「これは何を意味しているのか」「“書く”というシステムを表現――」

その「ディスカッション」が最終的な納得や結論を見出す前に、そこに被せるようにして次のパフォーマンスが始まっている。

『百年の〈大逆〉』後篇はこのように、パフォーマンスとディスカッションが折り重なるようにして進行する。演技自体はおおむね前回とほぼ同内容のものが繰り返され、前篇の流れをおさらいしながらそれについて検証しあう、といった体裁だ。上手のパネルに前篇の映像が映写されることもある。

私は少しばかりあっけにとられてそれらを観ていた。ちょっと待ってくれ、と思う。言葉が解体していた前篇に対し、後篇はまるで言葉の洪水ではないか。それも彼らの使うのは「権威の言葉」なのだ。誰かが規定した正しい発し方。何かを説明し意味づけるための手段。それを何の躊躇もなく当然のように使ってみせる。

言葉で理解しようとする、それは危険な行為としてこの場では封じられていたのではなかったか。もちろん私が勝手にそう見て取っただけとは言え、確かに彼らは巷にはびこる安易な解りやすさからは逃れ出ようとしていた。ここに「ストーリー」を求めて来るべきでないと、宣言文の中でも主張していたはずだ。前篇のアプローチと後篇のこの在りようとで、それを矛盾と感じる葛藤はないのだろうかと他人事ながら心配になる。

彼らはおそらく、言葉の危険性にはさほど自覚的でなく、そのシステムに抗しようとはしていなかったのだろう。単に私の深読みであったということだ。

彼らの意見交換は、それらしい言葉がとおりりいっぺんの表面をさらうだけで、深いところへ踏み込む前に次へ進んでしまう。交わされる見解もありがちな解釈に思われて、本気で言っているのかそうでないのか疑わしくなることすらある。段取りや進行も決して手際が良いとは言えず、ありていに言って“上手な”議論ではない。これが今すぐに有意義な効果を生み出すとも思えない。

しかし少なくとも彼らは、長いこと何かが看過されてきたのではないかと指摘し、自他に問いを発してはいる。その「何か」とはいったい何であり、どう解決すべきなのか彼ら自身明確な答えにたどり着いているわけではないし、我々が見出すこともかなわない。しかし議論の疑わしさにもかかわらず、あるいはむしろだからこそ、この舞台に触れている間、演じ手も観客も誰もが「何か」を探ろうとしてしまうには違いないのだ。
この世は欺瞞に満ちている。その中で私たちがいったい何を選び信じるのか。彼らの舞台はそれ全体で、あらためて問い直すよう迫る。

新設の劇場、座・高円寺の幕開けにはこうして実にバラバラな作風の三作が並んだ。しかし、企図したとおりなのか図らずもなのか、ここには何かの通奏低音が鳴っているようだ。

演劇のお約束を逆手にとった仕掛けで観客の足元を掬う『化粧』。演劇のお約束にツッコミを入れてメタな笑いで観客を共犯関係に巻き込む『ユーリンタウン』。演劇のお約束に抗い無効化して問い直そうと試みる『百年の〈大逆〉』。三作にはいずれも舞台を俯瞰する眼差しがあった。大衆演劇の女座長も管理社会の巡査も前衛主義の一団も、トロンプルイユのように演じ手は舞台の額縁からはみ出している。演劇の枠組みの外側に片足を引っ掛けて、そうして「観る」とはどういう行為なのか観客に問いかけるのだ。

観客はただ透明な存在として舞台を傍観していることを許されず、自身が舞台の成立に密接に関わっていることを強く突きつけられる。自分の目を通してはじめて、演劇はこの世に成立する。見て、感じて、咀嚼して何かを見出すのは観客の仕事に他ならない。

「観客の目が役者を育てる」という言い方がされることがある。それはそうなのだろう。だが、それではその観客の目はいったい誰がどこで育てるのか、かねてより疑問だった。座・高円寺はもしかしたらその問いに何らかの解答を出そうとしているのかもしれない。(『百年の〈大逆〉―TAGTAS第一宣言より』 前編2009.7.4、後編2009.7.10)
(初出:マガジン・ワンダーランド第152号[まぐまぐ! melma!]、2009年8月12日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
金塚さくら
1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kanezuka-sakura/

【上演記録】
トランス・アバンギャルド・シアター・アソシエーション(TAGTAS)結成プロジェクト
座・高円寺(2009年07月03日-12日)
全プロジェクト構成・演出 | TAGTAS
※円卓会議総合司会:鴻英良 通貫報告:TAGTAS

◎=上演『百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-』前篇(7/03-04)
◇=ドラマ・リーディング『魔女傳説』(7/04)
(作:福田善之 構成・演出:福田善之+TAGTAS 出演:渡辺美佐子+TAGTAS)
☆=上演『百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-』後篇(7/10-11)
○=ドラマ・ワークショップ『明治の柩』 作:宮本研(7/08)
●=ドラマ・ワークショップ『冬の時代』 作:木下順二(7/09)

A=円卓会議「<大逆>と日本近代演劇の起源」(報告者:TAGTAS)(7/04)
B=ドキュメンタリー映画『ルワンダ』上映とレクチャー「虐殺と演劇をめぐって」(講師:鴻英良)(7/05)
C=円卓会議「『魔女傳説』とその時代」(7/07)
(報告者:菅孝行、佐伯隆幸、佐藤信、福田善之)
D=円卓会議「革命の身振りと言語Ⅰ:演劇の自由と倫理」(7/11)
(報告者:井上摂、遠藤不比人、鈴木英明)
E=円卓会議「革命の身振りと言語Ⅱ:ビオス・ポリティコスの実践と方法(報告者:内野儀)(7/12)
F=レクチャー「前衛の系譜」大貫隆史+河野真太郎、マニフェスト・アクション「TAGTAS第二宣言」(7/12)

<会場>
◎◇☆…座・高円寺1
○●…カフェアンリ・ファーブル
ABCDEF…座・高円寺稽古場

スタッフ:
TAGTASプロジェクト2009参画者
青田玲子、石井康二、伊藤大輔、遠藤寿彦、大貫隆史、落合敏行、柿崎桃子、熊本賢治郎、久保田寛子、河野真太郎、佐々木治己、清水信臣、竹重伸一、寺内亜矢子、豊島重之、羽島嘉郎、羊屋白玉、日野昼子、笛田宇一郎、山田零、脇川海里ほか(50音順)

照明 河合直樹(有)アンビル
音響 曽我傑
舞台監督 佐藤一茂、高橋和之
宣伝美術 Studio Terry“OVERGROUND”
映像 藤野禎祟
記録 村岡秀弥
写真 宮内勝

主催:TAGTAS
後援:杉並区
提携:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク

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