虚構の劇団「ハッシャ・バイ」

◎始まりの場所へ-「ハッシャ・バイ」の海-
金塚さくら

「ハッシャ・バイ」公演チラシ海だ。あと一歩踏み出せば足元は溶けるように崩れ、そこは茫漠の海だ。
赤いワンピースを着て、女は波打ちぎわすれすれに立っている。ほとんど怒っているかのような厳しい無表情で、睨むほどに強く遠い水平線を見つめる。
「私は母のない国に行くのです」
海底の地下トンネルを抜けて。怒りの声にも嘆きの声にも耳を貸すことなく、絶望にだけ未来を託して。海に臨む最後の地平に、彼女は独り立つ。

それは夜毎見る夢の光景なのだと依頼人は言う。探偵への、依頼の内容はその海辺を探し出し、赤いワンピースの彼女を救うこと。恐ろしい顔をした人々に取り囲まれ、「助けて、殺される!」と叫んだ彼女は、どこかに実在しているはずの人物だからだ。通りすがりの骨董店に飾られた一葉の写真に、その夢の海辺が写し出されていたのだという。
あの場所はどこなのか。彼女は誰なのか。
探偵の男と依頼人の女は、手がかりをたどって謎を追っていくうちに、やがて「夢」の世界へと迷い込んでゆく。

現実と非現実が交錯し、互いに侵食しあうようなこの作品の中には、現代の病理として何かひどく重大なことが描かれている。私たちを歪ませ、病んだ社会をつくり出すその要因のひとつの正体が、鋭く暴かれ、整然と語られる。
母と子という、この一筋縄ではいかない病。怒りと憎しみの攻撃的な応酬として単純に発露するわけではないその症状は、傷つけ合いではなく傷つき合いであるからどうにも始末に負えないのだ。
「寂しいママを抱きしめるのは誰?」と、依頼人の夢の中、ウサギの娘は淡々と問う。それは疑問ではなく確認だ。彼女は答えを知っている。傷ついた母親を抱きしめ慰めるのは、娘の自分でしかありえない。母親の価値観と自分の価値観とはどこかで致命的に相違していて、お互いが望むとおりの振る舞いをすることは時としてひどく困難だ。それでも、母親が己の価値観を押し通そうとするとき、それがどんなに理不尽であっても、本人はただひたすらに娘へ向かう自分の善意と愛情を信じているのだと知る以上、娘としては頭ごなしに撥ねつけるわけにはいかないのだ。
あるいはもしかしたら、頭ごなしに撥ねつけて大声で罵り合いながら激しい親子喧嘩でもしたほうが、健康的に解決まで至るのかもしれない。しかし相手を慮ることに妙に長けた現代の子どもたちは、自分には自分の気持ちがあるように、相手にもまた相手なりの想いがあるのだと思いやってしまうのだ。
その“ものわかりのよさ”が危険な病巣だ。現代の親子の多くは、支配的な親と反抗的な子という対立の構図ではなく、献身的な親と従順な子の寄り掛かり合いであり、互いに理解がありすぎて自分の意見を主張するための手段が先回りで封じられてしまう。
そのため、表立って反抗することを良しとしえない子どもは、病んだ顔をしてみせ“幸せでない”ことを言外に訴える。子どもに自分の愛情が伝わらないことを見て取った母親は、傷ついた顔をしてみせて悲しみを主張する。母を傷つけたことに子どもは罪悪感を覚え、ますます幸せでない顔をするし、子どもを不幸にしていることで母は自己嫌悪を覚え、いっそう悲しい顔をする。こうしてお互いに自分を傷つけることで遠回しに相手を傷つけるという厄介なスパイラルに陥っていく。

こうした母子の病のメカニズムは、はじめのうちは依頼人の女の見る夢として描かれる。
母親に傷つけられた“子どもたち”がリハビリに励む病院。母と娘がお互いを思いやりながら自傷的に傷つけ合ってゆく家庭。学校では、娘は母の意思と自己の意思との狭間で葛藤している。
全体としてはどこかノスタルジーを感じさせるファンタジックな印象の演出ではあるのだが、扱われる内容はおそろしく同時代的でリアルだ。
病院、学校、家庭。状況を変えて様々なパターンで現れるその夢の舞台について、「自立のためのシステムが抑圧のシステムになってしまっている」と探偵は分析する。夢の断片から浮かび上がるのは、温かくやわらかく思いやりの真綿ですっぽり包み込まれて窒息死しそうな、現代的な在り方での、母という呪縛。
その「抑圧のシステム」のまるで対極にあるかのように出現する場所が、海だ。
登場人物たちはいつしか夢の中に取り込まれ、やがて海へとたどり着く。

なぜ海だったのだろう。物語がクライマックスを迎える場所は。赤いワンピースの彼女が対峙していたものは。
母と海とが昔からイメージの上で強く結びつき合うのは確かだ。「海」という字の中には「母」があるだとか、「海」は「生み」に通じるだとか、もっともらしい傍証はいくらでも出てくるだろうし、「母なる海」の呼び名のとおり、地球上最初の生命は海から誕生したのだという。海はこの世界の羊水だ。そして、母は子宮の中に海を囲い込んでいる。
ならば、赤いワンピースの彼女はつまり赤い色をした子どもなのだ。その赤が、生まれたばかりの幼子の肌の色に由来するのか、それとも胎内から無理に押し出されたときに流れた血の色なのかは判らない。いずれにせよ彼女は、この世に生を受けることのなかった、ヒロイン‐依頼人の女‐の娘だ。羊水の海を見据えて対岸に生きる、夢の子ども。
彼女はヒロインの娘であると同時に、ヒロイン自身であり、またその母でもある。人が常に誰かの子として生まれる限り、娘たちが産むのは母親なのだ。娘たちは母親から生まれ、母親となって母親を生む。その永遠の円環に入り込んで一部となってゆくことがいかに怖ろしいか。舞台は私たちの深層まで細やかに丁寧に暴き立てる。

現代の病理に躊躇なく触れているにもかかわらず、しかしこの舞台の後味はあくまでも健全だ。決して不健康な印象はない。それは例えば、極めて核心的な会話を描いている場面では登場人物をウサギの家族にしてコスプレをするといった手段で、必要以上に深刻になるのを注意深く回避しようとしているためでもあるだろう。
また、母と子の複雑な関係を明らかにしながらも、誰のことも糾弾してはいないためでもある。無自覚に子どもを圧迫する母親の罪も、解っていながら束縛の中に留まっている子どもの臆病も。こうした歪みはあまりにも当たり前のようにあちこちにはびこっていて、単純に誰かのせいにしても今さら何の役にも立ちはしないのだ。そんなことより、ここから先をどうやって生きるかということが問題だ。
歪みを歪みとして抱えたままで、希望をもって前向きに生きようと志向されていることがこの舞台の健全さの大きな要因だろう。たしかに私たちは根深い病を抱えている。しかしそれは腰痛や喘息のような持病にすぎない。苦しみがないわけではないし、下手をするとそのために死ぬことだってある。しかし、病因を根絶して取り除こうというのではなく、深刻な発症をさせない程度に乗り切って生きていく実際的な解決があってもいい。
そのための海ではないかと思うのだ。誕生する以前の私たちを育んだ、回帰する場所としての羊水の海である以上に。それは脱出の、始まりの海。

子どもたちは、母と自己とのがんじがらめの穏やかな軋轢の中で、時間をかけてじわじわと追い込まれてゆく。
ぎりぎりまで追い詰められたその先は、しかし世界の終わりではないのだ。もう一歩‐追ってくるものに背を向けて飛び込む一歩にしろ、追ってくるものと対面して後ずさる一歩にしろ‐足を踏み出せばそこは新たな冒険の始まりの海だ。
たしかに陸地は終わるのかもしれない。けれど次の瞬間、足元には別の世界が開け、最後の一歩は最初の一歩へと変わるだろう。海は私たちに残された最後の開口部、脱出口だ。そこは陸のどん詰まりではなく、あらゆる別の大地への可能性を持つ、新天地への入り口だ。
たったひとりきり見知らぬ大海原に放り込まれれば、寄りかかるものもなく、孤独で怖ろしいに違いない。それでも、私たちは逃げ出せる。安全と依存から絶望と孤独の中に逃げ込み、そこから始めることができるはずだ。

舞台の中で、海はひどく美しい。巧みに使われる映像の鮮烈さはもちろんのこと、台詞として言葉で語られる海がとりわけ美しく響く。「白ウサギが走る」と表現される泡立つ波濤や朝日、弧を描く水平線が透徹したイマジネーションで描かれる。
惜しむらくは、この現代詩のような美しい台詞群が、おそろしく早口で語られるのだ。書き留めておきたいような名文句がいくつも発されているのに、言葉は記憶に留まるより先に怒涛の勢いで次へ行ってしまう。それがとても残念だ、と観劇中は思っていた。
しかし後日、演出家の話す言葉を聞き、解った。これは鴻上尚史の速度なのだ。鴻上の喋りは速い。先へ先へ、聞き手が追いつくより一歩早く、留まることなく進んでゆく。役者の台詞はそのまま演出家の言葉そのものであったのだ。
それを踏まえて改めて舞台を思い起こすと、この速さは必要な、効果的な速度だったのかもしれないと思えてくる。この速度によって舞台には疾走する若さが与えられ、海から大空へ駆け上がる白ウサギのイメージは躍動感をもって目の前に迫るのではないか。
ただ、最近の“若さ”は果たして疾走する勢いを持っているのかどうか、そこは疑わしいところなのだ。80年代や90年代の若者像には疾走する青春が似合うが、近頃の若者はとても全力で走り出しそうには見えない。再演にあたって会話のディティールや病理を現代風に改めてなお、この舞台が観客にある種のノスタルジーを喚起するその要因は、もしかするとこの疾走感が時代の現実とズレているためなのではないか。
しかしだからこそ、これは演出家の祈りなのかもしれない。じっと立ち尽くすその浜辺から脱出し、海へ。水平線を駆け抜けてゆけという願いが、そのズレの中には込められていると見ることもできるだろう。(虚構の劇団『ハッシャ・バイ』 2009.8.21観劇)
(初出:マガジン・ワンダーランド第160号[まぐまぐ!, melma!]、2009年10月7日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
金塚さくら
1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kanezuka-sakura/

【上演記録】
虚構の劇団 第三回公演「ハッシャ・バイ
座・高円寺1(2009年8月7日-8月23日)

作・演出:鴻上尚史
出演:大久保綾乃、小沢道成、小野川晶、杉浦一輝、高橋奈津季、三上陽永、山﨑雄介、渡辺芳博

チケット代金:前売・当日 4500円  (全席指定・税込)

企画製作:サードステージ
後援:杉並区/杉並区文化協会
提携:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください