Theatre Company Ort-d.d「わが友ヒットラー」

◎内なる対話としての四人芝居 いささかの疑念を込めて
  金塚さくら

「わが友ヒットラー」公演チラシ
「わが友ヒットラー」公演チラシ

 劇場には生きた鼠がいた。比喩ではなく文字どおり。Theatre Company Ort-d.d『わが友ヒットラー』の舞台では、場内を二分する形で作られた細長いスロープ状のステージの突端で、アクリルの透明なケージの中に入れられて、鼠が一匹、意味深に、生きて飼われていたのだった。

 三島由紀夫の書いたこの戯曲には、登場人物に語られる形で、たしかに一匹の鼠が登場する。アドルフ・ヒットラーとその盟友、エルンスト・レームの名を半分ずつ引き受けてアドルストと呼ばれたその鼠は、二人に共有される懐かしい思い出のアイコンだ。それは輝かしい青春の日々と直結している。
 少なくとも、エルンスト・レームにとっては。アドルスト鼠の記憶を持っている事実が、ことヒットラーに関して他の誰よりも自分は優越的な立場にあるという自信を、彼に与えている。

 この二人を含めて、舞台に登場する人物はわずかに四人。アドルフ・ヒットラーとその「友」たち。突撃隊幕僚長たるレームの他は、老実業家のグスタフ・クルップと、社会主義の薬剤師、グレゴール・シュトラッサー。
 物語は、1934年にヒットラーがエルンスト・レームやグレゴール・シュトラッサーを含む多数の「叛乱分子」を粛清した実際の事件を題材としている。

 古い小学校の廊下のような薄暗い電灯に照らされて、狭いステージは殺風景だ。鼠の入ったケージの他は、飾り気のない椅子がいくつか転がるばかりで調度品もない。ただ、鼠のケージの手前に、埃なのかクモの巣なのか白いふわふわしたものを絡ませた白骨が、おそらく一体分天井から吊下げられており、ゴシックめいた古怪な雰囲気を添えている。
 そうした空気は、正確な考証とは無関係に、「ナチス」や「ヒットラー」といった言葉の響きになぜだか奇妙に似つかわしい。

 ステージは細長く、ほとんど通路と呼ぶべきで、男たちは前後に歩き回る以上の身動きを取ることができない。しかしこの戯曲を上演するには、演技スペースはそれで充分なのだろう。四人の登場人物はとにかく饒舌だ。物語の頭から終わりまで、順繰りにひたすら喋り続ける。
 膨大な量の台詞によって物語は完全に組み上げられ、役者の身体が語る余地など残されてはいないのだ。動きまわるための広い舞台は必要ない。

 この長大な台詞劇を演じるのは、レーム役にスズキシロー、シュトラッサー役が八代進一、クルップ役は村上哲也、そして、ヒットラー役には三村聡。
 四人の役者はよく訓練され、冗長な台詞にも細かな表情を乗せて飽きさせることがない。腹を探り合うときも本心を吐露するときも、張りつめた緊張感は決して弛む隙を見せず観る者を引き込んでゆく。長い台詞を飾る小難しい単語や大仰で美々しい表現も、うわすべりすることなく各々の人物造形に見合った肉声として身の内から響く。
 演じ手の力量はたしかだ。そこに疑いはない。

 にもかかわらず、観ているうちに、ヒットラーの三人の「友」たちの演じられ方に対して、どうも奇妙な据わりの悪さを覚え始めるのはなぜだろう。
 まず最初に、レームが気になり出す。
 
 エルンスト・レームは豪壮な武人であり、友愛に燃える熱いロマンチストだ。彼にとって軍隊とは国家が政治的な争いに勝つための組織ではなく、男たちが無二の友情を見出す場である。戦闘は互いの絆を強固に結び合わせるための手段にすぎない。
 そんな彼が同じ塹壕で青春の日々を分かち合った戦友アドルフ・ヒットラーに抱く友情はいささか濃密に過ぎ、熱烈な台詞といい接触過多な振舞いといい、どうにも一般的な友人の域を二歩も三歩も踏み越えているようにさえ見えるが、彼の「友情」の真意をどう解釈するにせよ、要するに彼はそういう暑苦しくて鬱陶しい人間だ。
 だから、物語が進むにつれ、彼の存在がどんどん鬱陶しくなってゆき、ときにはその言動に苛立たしさを覚えるとしても、それは至極まっとうな役作りであると理解すべきなのだ。

 理解はするが、それでもこの胸底にわだかまる釈然としない思いはどうだろう。たしかにこの戯曲の中のエルンスト・レームは、無邪気で能天気でどちらかといえば陽気な人物であり、だから、歌うように節をつけて喋ることもあるだろうし、踊るようにステップを踏み踏み歩くこともあるだろう。
 しかし思うに、そうした「レームらしさ」を発露させるタイミングが、ときどき少し、狂っている。

 狂ったタイミングでレームは台詞を歌い、巨大なブーツをのしのしと踊らせる。舞台のバランスが歪む。落ち着かない、苛立たしい、騒々しい、過剰だ。
 それはもちろん、敢えてわざと感覚の予定調和を狂わせることで、観る者に不安感を与えるだとか舞台を不穏な空気で覆うといった戦略的な演出なのだと、考えることはできる。むしろそうであってほしいと願うが、しかし、作品全体にとっての効果のほどはどうにも疑問だ。
 レームという人物の「本当らしさ」を削ぎ、イミテーションめいた安っぽい演技に感じさせてしまう以上の、深い意味合いを見いだせない。

「わが友ヒットラー」公演から
【写真は「わが友ヒットラー」公演から。撮影=萩原靖 提供=Ort-d.d 禁無断転載】

 シュトラッサーもクルップも同様だ。いずれも役柄の理解は的外れでなく、演じ手の技量は意図したものを体現するのに不足はないのに、おかしな局面で何かが過剰で、舞台は歪み、キャラクターはどこか嘘くさく映る。

 かつてはヒットラーの同志として革命を共にしたグレゴール・シュトラッサーは、皮肉げな眼差しをした冷笑的な人物ではあるが、だからこそ客観的な判断の下せる、いわば聡明な人物だ。それゆえにヒットラーとも袂を分かつことになったのだし、最終的に命を狙われることにもなる。とはいえ、この物語において彼の聡明さはどちらかと言えば小賢しさであり、器量のほどは小人物だ。
 だから、妙にがちゃがちゃした落ち着きのない印象で演じられるのは、間違っていない。追い詰められた男の必死の足掻きと思えば、これこそリアルであろうとも理解する。だからと言って、その遣り口のすべてを引っ掛かりなく飲みこめるかというなら、否、いくばくかの違和感が残る。
 彼もまた、過剰な小物っぽさによって「本当らしさ」が削がれ、適切に演じられているようなのに、その存在はなぜだか絶妙に嘘くさい。

 クルップもまた過剰に芝居がかった物腰で舞台に立っている。
 孫を甘やかす好々爺のようにヒットラーのすべてを許し、主に経済的な面から手助けしている彼は、ヒットラーに対し、レームのように入れ込むわけでもなければ、シュトラッサーのように怖れるわけでもない。ただその動向を、たのしげに「鑑賞」している。目下いちばん気に入りの、おもしろい玩具でも見るように。
 だから余裕ある態度を崩すことなく、決して腹の内は読ませない海千山千めいた底知れぬ雰囲気は適切だが、しかし時折どうにもやりすぎてかえって底を浅く見せてしまっているように感じられることもある。

 こうしたやや過剰な演じられ方の「友」たちが衝突し、舞台は時にひどく騒々しい。正しく理解され、「らしく」体現されているはずのそれぞれの人物造形は、戯画化されたステレオタイプのようにも見えて、なんだか虚構めいている。

 虚構と言うならしかし、それは最初からまぎれもなく虚構なのだった。そんなことは冒頭の、大観衆に向かって独り演説するアドルフ・ヒットラーの背後の舞台に、そっと老クルップが滑り込んできた瞬間から判明している。
 なにせ彼は、着ているものが考証を力いっぱい度外視している。

「わが友ヒットラー」公演
【写真は「わが友ヒットラー」公演から。撮影=萩原靖、提供=Ort-d.d 禁無断転載】

 1934年のドイツで鉄鋼関連の大企業を営み、莫大な資本力でヒットラーの活動を支える老実業家は、この舞台において、あろうことか袴を着用しているのだった。
 馴れた風の渋い色味の袴に羽織を合わせ、中折れ帽とステッキを携えた鷹揚な姿はなるほど、経済界を牛耳り政界にも影響力を持つ老獪なフィクサーの然るべきビジュアルイメージを体現している。が、そのイメージは昭和の日本が舞台であってこそ理想の典型と言えるのであって、ドイツの黒幕はこんな山崎豊子の小説のような出で立ちはすまい。

 つまり舞台は始めから、あくまでこれは虚構なのだと宣言している。これは歴史上の事実を再現した史劇ではなく、何か別のことを語るために歴史に状況を仮託しているだけの、いわば一種のファンタジーに他ならない。ここにあるナチスはナチスであってナチスでなく、ヒットラーはヒットラーでない。
 だからその三人の「友」たちはそれこそ、幻影か何かのようにそこにいない存在なのかもしれない。
 
 そんな考えが過ぎるのは、三村演じるヒットラーの、異様なまでに確かな実在感のせいだ。他の登場人物たちが微妙に「本当らしさ」を欠くなかで、ヒットラーだけはやたらな説得力をもってそこに存在している。
 それはもちろん、記録映像の中のアドルフ・ヒットラーにそっくりな、精巧なコピーという意味ではまったくない。むしろ、チャップリンも含めて古今東西のヒットラー役者が研究と研鑽をかさね、確立し磨き上げてきたテクニックはまったく使われておらず、いかにもヒットラーらしく見せようという仕草や喋り方は少しもないのだ。
 にもかかわらず、彼のヒットラーは観る者に、ヒットラーとは実際こういう人物であったのだろうと思わせる。

「わが友ヒットラー」公演から
【写真は「わが友ヒットラー」公演から。撮影=萩原靖 提供=Ort-d.d 禁無断転載】

 それは実に静かな、淡々とした独裁者なのだった。周囲の喧騒と切り離されてひっそりと立ち、紗幕の向こうにいるような眼差しで遠くを見ている。どこか別の世界から、諸君、と呼びかける、やわらかな声。
 力強くもなく先鋭でもなくエキセントリックなところは少しもないが、人が本当に心酔してついて行ってしまうのは、派手なカリスマよりもこうした人物に違いないと、容易に信じさせるのだ。希代の独裁者はきっとこんな風に、孤独でやさしげで、放っておけずに思わず手を差し伸べてしまうような人物に違いない。

 これはあるいは、演じている三村の特質なのかもしれない。以前に彼が太宰治を演じるのを観たことがあるが、それもやはり茫洋と孤独な佇まいにやわらかな口調で、きっと太宰とはこんな人間だった違いない、これなら思わず一緒に心中もしてしまうだろうと、たしかに信じられたのだった。

 彼の演じる、この奇妙に説得力のあるヒットラーが喋り出すと、途端に舞台の焦点は彼ひとりに集約される。三人の「友」たちの長い台詞の中で、それぞれの立場からさまざまなヒットラーの側面が語られるが、それらばらばらのヒットラー像は三村の下でひとつに統合されて、ひとりの複雑な人間として実像を結ぶ。
 そして喧騒は吸収されて静謐な空気のなかに秩序がよみがえり、この舞台は、ただ一人、ヒットラーの物語なのだとあらためて知るのだ。
 ヒットラーと誰かの関係やそこに発生するドラマを描いたものではなく、ヒットラーそのもの、彼という一人の人間の世界を描いている。そうであればこその、三人の「友」たちの嘘くささなのではないだろうか。

 彼らは実在しないのだ。いやむろん、史実にもいたし舞台上でも生きた人間として設定されてはいるのだけれど、しかし、ヒットラーと彼らの応酬はヒットラーと他者との会話ではなく、ヒットラー自身の内なる対話に他ならない。
 言うなれば、三人の「友」は、人生のそれぞれの時期のヒットラーということか。レームは幼さの残る青年期、シュトラッサーは理想に燃える成年期、そしてクルップはここから先の、成熟の時期だ。

 1934年の長い夜、ヒットラーは過去を切り捨てる。従軍の連帯感に高揚する友愛を。世界を変えるのだと信じた革命の熱意を。
 幼い感傷を切り捨て、青臭い正義を切り捨て、彼は権力者への道を静かに進む。彼の内で遠い昔の無垢なヒットラーやかつての潔癖なヒットラーが抵抗の声を上げるが、ノスタルジーは握り潰して、彼は歳経た商売人の皺んだ手を取る。清濁を併せ呑む、したたかで老獪な人間になるのだ。

 これはかつて夢を抱き理想に燃えていた若い魂が、大人になることを、すなわち自ら敢えて堕してゆくことを選ぶ瞬間を描いた舞台なのだと、そう思うなら「友」たちの奇妙な不完全さも少し説明がつく気がする。彼らはヒットラーの影にすぎないのだから、いびつで不完全に決まっている。実在の人間ではない以上あまり本当らしく存在してはいけないし、少し奇怪な方が舞台は幻想的になって抽象性も出るだろう。
 そして異形の者たちの中にただひとり、本体の、真実のヒットラー。

 考えすぎか? そうかもしれない。いやそうだろう。
 作中ではしきりと「革命」という言葉が連呼され、明確にそこにひとつのテーマがあるには違いないから、潰えた革命への郷愁を実体験として持たない世代が、ことさらに個人の内面に注目した観点で舞台を捉えようとしてしまうだけかもしれない。

 なんにせよ、意図的だろうが怪我の功名だろうが、作品にそうした視点を与え得たことにひとつ、この舞台の価値があったと思うことはできるだろう。全体として、長い上演時間が苦にならない充実した舞台であったことは本当なのだし、演出上気になる点がままあったとしても些末なことだ。
 だから、生きている鼠については、その目的も必要性も、もう考えない。
(2103.3.31 下北沢駅前劇場)

【著者略歴】
 金塚さくら(かなつか・さくら)
 1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kanezuka-sakura/

【上演記録】
Theatre Company Ort-d.d「わが友ヒットラー」
下北沢 駅前劇場(3月27日~31日)

作:三島由紀夫
演出:倉迫康史(Ort-d.d)
出演:村上哲也(Ort-d.d)、三村聡、スズキシロー(A.C.O.A.)、八代進一(花組芝居)

■スタッフ
ビジュアルディレクション:ROCCA WORKS
照明:木藤歩
舞台監督:弘光哲也
演出助手:大野裕明、岩坪成美
スチール:萩原 靖
チラシデザイン:山本ゆうか
協力:にしすがも創造舎

【東京公演】
前売・当日共 一般4000円/学生席(要学生証)2000円
助成:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)

【札幌公演】
札幌 扇谷記念スタジオ・シアターZOO(3月8日~10日)
シアターZOO提携公演【Re:Z】
[一般]前売2800円・当日3000円
[一般ペア]前売のみ5000円
[学生割引]前売・当日共1000円
[演劇人割引]前売・当日共2000円
共催:北海道演劇財団 NPO法人TPSくらぶ


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