大阪大学ロボット演劇プロジェクト×吉本興業「ロボット演劇版 銀河鉄道の夜」

◎ロボットから学ぶ、心のつながり
  小泉うめ

 大阪駅の改札を出ると、ゴールデンウィークの雑踏が大きな流れになっていた。2013年4月26日にオープンしたばかりの新名所「グランフロント大阪」に向かう人々だ。
 その流れに乗って「まち」の深部へと進んで行くと、館内に5月2日にオープンされた劇場「ナレッジシアター」を見つけることができた。その名の通り、商業演劇で使われるような大劇場の派手さはないが、かと言って伝統を受け継ぐ小劇場の渋さとも違う。講演会などにも使えそうな落ち着いた雰囲気で、シンプルかつスタイリッシュな造りである。
 大阪はかつて賑わっていた演劇用の小劇場が次々閉館され、その数が減少しており、このような新しい劇場のオープンは本当に喜ばしい。

 劇場に入ると、ハンドベルの音色が流れていることに気付いた。ゆったりとした展開なので、ただ鳴らしているのか、それともそれが曲なのか、最初はよく分からなかったが、席に座って落ち着くと、次第にそれが「星めぐりの歌」であることが聞き取れるようになった。宮澤賢治が作って、生涯を通して大切にしていたと言われている曲である。

 今回この劇場のこけら落としに選ばれた演目は、平田オリザにより親子でも楽しめるように戯曲化された宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」である。
 最初、平田はフランスをはじめ、海外の子ども達に届けるためにこれを戯曲化している。そして日本の子ども達にも見てもらおうと日本語版として書き換えて、2012年春に青年団により、こまばアゴラ劇場を皮切りに全国各地を巡演した作品である。
 平田は、この舞台化にあたって「友人の死を受け入れることで成長していく少年の物語」という形で戯曲を構成している。

 また、この舞台で、カンパネルラ役を務めて注目を浴びたのは、大阪大学の石黒浩らにより開発されたロボットの「ロボビー(Robovie-R)」だ。身長108cm、体重35kg、販売価格は399万円だという。終演後には、平田が観客の子ども達に「ロボビーが欲しいですか?」「欲しければ、お父さんに下のギャラリーで売られている高級外車を買うのを我慢してもらえば買えますよ」と笑って話していた。

 平田と石黒は、既にこれまで5年に渡り科学技術と芸術を融合する「ロボット演劇」に取り組み、その技術をどのように使い、どのように伝えるかを模索しながら上演してきた。
 博覧会や展示会などで見るロボットは、その技術に驚かされ感心させられるが、彼らが目指しているのは、演劇を通して人を感動させるロボットなのだろうと考えている。

 現在2人はそれぞれ大阪大学で教授の職を務めている。ロボットと言えば、あの「鉄腕アトム」を生んだ手塚治虫も同大学の出身であり、更に遡ると、それは江戸時代の適塾や懐徳堂の流れも汲んでいる。そのようなことからも、大阪は常に新しいものを取り入れては、その成果を世界に向けて発信してきた場所と言えるだろう。

 こうして彼らの上流から受け継がれている精神が、この「グランフロント大阪」の「大阪の新しい玄関口にふさわしい、世界に開かれた最前線のまちになりたい」というコンセプトと合致して、ロボット演劇版「銀河鉄道の夜」が、こけら落とし作品として選ばれたのであろう。

 舞台後方にはスクリーンが配され、瞬く星空と夜の街が投影されていた。そして、舞台上にはカラフルで40cm四方くらいの積木が置かれており、それが映像と連携して街の景色にも見えた。

 役者は揃いのデッキシューズに色違いの紐を結び、花柄や水玉のスパッツをはいた上に、それぞれの役の衣装を羽織り変化をつけて現れる。
 登場人物は十数人いるが、それを役者は5人で演じる。主人公のジョバンニとその親友カンパネルラ以外は、1人が、クラスメイトのザネリ・学者・灯台守・カンパネルラの父、もう1人が、クラスメイトのブドリ・カンパネルラの母・牛乳屋・車掌、そしてもう1人は、先生・助手・鳥捕り・乗客の少年と、複数の役を演じる。

 これは、子どもが観ると「あれ、あの人さっき違う役をやっていたのに」と気付く不思議さや面白さがあるであろうし、おとなが観ても、その早変りが楽しく、また舞台のリズムやテンポの良さを作り出している。そして脇を固める役者にとってもやりがいのある戯曲に仕上がっている。舞台袖にはけながらや舞台袖から出ながらの台詞や、前の役者の言葉に重ねる台詞もとても多い。

 そして、舞台上の積木は中が空洞になっているものがあり、裏返すと場面ごとに必要な色々な小道具がそこから手品のように取り出される。その小さな驚きやそれによって引き出されるスピード感も、複数配役同様の効果を発揮している。

 ハンドベルのメロディに、先生の授業を始める鐘の音が重なり、舞台が始まる。
 「こうして夜の空に美しく流れる川にも似た、このぼんやりとした白いものを、私たちは何と呼ぶでしょうか。」

 聞き慣れたこの冒頭の台詞は、駅のホームで聞く車掌の発車アナウンスのようでもあった。競い合って手を挙げる生徒たちの中から、ザネリが指名され、「天の川」と答える。
 「では、英語では」と、次はカンパネルラが問われる。ロボビーの最初の台詞は「ミルキー・ウェイ」。

 ロボットのカンパネルラが、たどたどしい発声の英語で確実に答えると、その機械としての精巧性が際立っている。一気に子どもたちが前のめりに見入るムードも伝わって来た。

 「ロボットがどれくらい人間的に喋れるか」というのは、ロボット演劇における一つの大きな課題であろう。
 他方現代演劇においては、必ずしも実際の会話のように「らしく」話すことばかりが表現のルールではなくなっていて、様々な作品の中で、色々な話し方や発声方法が用いられるようになっている。そしてそれが観客に新たな感覚で、それぞれのメッセージを伝えることに成功しているのも事実である。

 おそらく、もっとなめらかな喋りをロボットにさせることも既に可能であろうし、これからもその技術は更に進歩していくことであろう。ただ、このロボビーの微妙で絶妙な「機械感」には、現代演劇でしばしば見るような発声にも通じるところがあり、巧みに客席を引きつけるとともに、強いインパクトでそのメッセージを客席に伝える力が備わっている。

 いずれロボットが人間と全く同じ演技を出来る時が来るかもしれない。そのレベルのロボットを作ることが、石黒の目標であろう。だがその時に、ロボット演劇は、客席から観ていて、今と同様の面白さのものであるだろうか。そして、演出する平田にとって、そのロボットは「使いたい役者」と成り得るだろうか。それは、その時が来てみないと分からないが、現状のロボビーが残し持っている機械としての「曖昧さ」が、逆にロボット演劇の面白さの大きな要素であり、今後の可能性であるようにも感じている。
 また、このロボビーが持っているもの、そしてもっていないもの、それらを考えることが、人間が表現することのエッセンスへの様々な気付きとなるようにも思っている。

 ちょうど本公演の始まる数日前に、将棋の世界で「プロがコンピューターに敗れた」というニュースが流れた。いくら技術が進んでも、プロ棋士がコンピューターに敗れることは決してないと言われ続けてきた中で、それはニュースと言うより事件だった。
 この勝負については「決着した」と言うには尚早かもしれないが、機械には絶対無理と思われていることが、徐々に無理ではなくなって来ているのは事実である。

 次に先生は「こうして、たくさん集まっているように見える小さな星も、みんな本当は気が遠くなるほど離ればなれです。いま、離ればなれになって座っているあなたたちは、遠くの星から見れば、どう見えますか。」と問う。
 ブドリが指名されて、「みんな、くっついて、一つの塊のように見えます。」と答えた。
 先生が「それだけではなく、中国も、韓国も、アメリカも、フランスも、そして日本も、宇宙から見れば、みんな小さな一つの、ひとかたまりの点に見えるでしょう。でも、現実には、私たちは気が遠くなるほど、離ればなれです。」と解説する。これは、平田から、未来を支える子ども達へのメッセージでもあろう。
 世界の平和と発展への願い観客の子ども達に託すとともに、これまでの歴史の中で、なかなか上手くはいっていない現状を語りかけているようだった。

 そこで、カンパネルラが先生に「それはどっちですか。私達は一つですか。それとも離ればなれですか。」と鋭く質問する。
 先生は逆にカンパネルラに問い返すが、カンパネルラは「分かりません。僕は…全く分かりません。」と、まさに立ち尽くす。ロボットのカンパネルラが首をかしげるのが、見事にはまる。
 これも元々ある台詞だが、これを人間の先生とロボットのカンパネルラがやり取りすることにより、その意味は膨張し、更なる問いかけを運んできた。

 現代社会において、機械工学の発展は著しく、既に日常の様々な場面の中にロボットも入り込んできている。その中で、構築されている人間とロボットの関係は、実際のところ現代どのような状態にあるのだろうか。あくまでも使い使われる関係なのか、それとも共存共生しているのか。そして、それは今後どのように変化していくのか。

 また、目の前で観ている「ロボット演劇」において、ロボットは人間と同様の演技を出来ているのか、出来ていないのか。今後の改良により、人間と全く同じ演技が出来るようになるのか、それともどこまで研究が進んでもそれは果たせないのか。

 授業の後半では、主人公のジョバンニはずっと居眠りをしている。貧しい家庭を支えて、いくつもの仕事をして家の手伝いもしているジョバンニはほとんど寝ていないのだ。
 一連の、人間の先生とロボットのカンパネルラの会話、そしてそれから想起される事柄が、ジョバンニの夢の中の空想世界の吹き出しのように舞台上に浮かび上がった。

 もちろん平田も、子ども達に「今すぐ自らのメッセージの全てを理解しなさい」というつもりもないであろう。この新しい劇場から落とされた「こけら」が、これを観た子ども達の心と記憶の中に、小さな種のように残っていることを願っている。

「ロボット演劇版 銀河鉄道の夜」から
「ロボット演劇版 銀河鉄道の夜」から2
【写真は「ロボット演劇版 銀河鉄道の夜」公演より。提供=一般社団法人ナレッジキャピタル 禁無断転載】

 物語の中で、その日は星のお祭りの日で、友達はみんな川にカラスウリを流しに行くと言っていたが、病気の母が心配でジョバンニは気が進まない。だが、いつも配達される牛乳が今日はまだ届いていないこともあり、それをもらって来ることを理由に、母の勧めを受けて出かけて行った。

「ケンタウロス、露を降らせ。ケンタウロス、露をふらせ。」
 星のお祭りの囃し声をあげながら、子どもたちが町を駆け回っている。
 ジョバンニは、牛乳屋に急ぐ。スクリーンの映像は町並みが映し出され、ジョバンニが走るとそれがスクロールして、ジョバンニの急ぐ心とお祭りの賑やかさを盛り上げる。
 牛乳屋に着くと、店には留守番の者だけで、事情が分かる者はいなかった。

 ジョバンニは再び夜の街を疾走する。途中友達に会うが、ジョバンニが自慢していた「お父さんがラッコの毛皮を持って帰って来るよ」という言葉で、なかなか帰って来ない父のことを揶揄されて、嘘つきだと言われる。そこにはカンパネルラもいたが、カンパネルラは沈黙していた。この時の無表情も機械ならではのものがあり、静止することによりその時の感情を押し隠していた。
 ジョバンニはその輪の中には入れず、再び走り始める。今度は舞台上を逆回転で全速力で走り、ついに疲れてその場に寝転んでしまう。

 こうして、ジョバンニは再び夢の世界に入り、銀河ステーションから銀河鉄道を旅することになる。同じ列車に何故かカンパネルラが乗り込んでくるが、他の友だちは遅れて家に帰ってしまったようだ。
 カンパネルラが星空を見つめる。カンパネルラがジョバンニに語りかける『白鳥座、蠍座、ケンタウロス、サザンクロス・・・二人ならどこまでも行けるさ。』
 二人は、永遠の友情を誓い合う。

 やがて、列車は白鳥の駅に着く。ここでは、二人は「本当の幸せ」について考える。ロボットのカンパネルラが、人間であるお母さんを本当の幸せにすることについて、ジョバンニに問いかけて来る。
 「本当の幸せ」という抽象的なものをロボットのカンパネルラが上手く理解できないことが少し笑いを誘いながら、それによって同時に客席にもそれを考えさせる。カンパネルラがお母さんに謝らないといけない何かがあることが匂い始める。
 二人は「人のために良いことをすることが、本当の幸せだ」という答えを導き出す。それは、人間にとっての幸せであるし、人に仕えるロボットにとっても本懐であるということだろうか。

 白鳥の駅のクライマックスでは、スクリーンに群舞する白鳥のシルエットが映し出されるとともに、個々の積木にも白鳥が映し出され、映像の連動による演出もファンタスティックで、心への投げかけを盛り上げた。
 そして、舞台上から白い羽が降って来る。ふと客席に目をやると、子どもたちも、その親たちも目をキラキラと輝かせてその光景を見つめていた。

 最後に、「銀河鉄道の夜」の表現としての、ロボット演劇について述べておきたい。
 これまでに様々な脚色の中で、このカンパネルラという存在は、女性になったり、動物になったり、色々な解釈で表現を試みられてきた。オリジナルの「銀河鉄道の夜」は、子どもにも読める童話と呼べる本ではあるが、その世界観は難解な部分も多く、たくさんの謎を抱えた作品でもある。

 今回は簡単に記しておくが、宮澤賢治が熱心な仏教信者で、日蓮宗の純正日蓮主義を奉じる宗派である国柱会にも入会していたことは有名な話である。またその過程で、親友の保阪嘉内と共に、その道を学び親交を深めたにも関わらず、国柱会に入信する際にその方向性の違いから2人が別れていったことも知られている。
 「銀河鉄道の夜」は複数の原稿が未確定のままに残されている。またこれまでに演劇の他に映画やアニメなどとしても製作されている。そんな中で「この宇宙の旅が、仏教修行の過程を描いている」という解釈は、カンパネルラをロボットが演じることによって、これまでで最も強く感じた。それはいささか不思議な感じもするが、それくらいに、このロボビーの演技には説得力があった。人間と、人間のために造られたロボットとの間に、通じ合える部分と通じ合えない部分が存在することは、賢治と嘉内が「恋人」と呼び合うほど親しく、共に信仰の道を歩みながらも、わずかな信条の違いから別れていったことを、この上演中に思い出させた。
 この戯曲は、「友人の死を受け入れることで成長していく少年の物語」とされているが、完成したものからは、賢治が「銀河鉄道の夜」に込めた真の思いが自ずと立ち昇っていた。
 それは、永遠よりも崇高な人と人との極めて強い繋がりの追求と、生命の終わりよりも悲壮なそれの終わりへ畏れが、賢治の信仰の中に存在していたという考えである。

 終幕前、カンパネルラがジョバンニに尋ねた。「もしも2人が宇宙船に乗っていて、2人のうちのどちらかが助かるとしたら、2人とも一緒に死ぬのは、幸せだろうか。」
 ジョバンニは、それに「2人とも一緒に生きればいいよ。」と明るく答えた。
 青年団によって演じられた際は、カンパネルラは「そうだね」と素直に納得したが、今回その台詞は変更されていた。
 それは、「ロボット演劇」を分析する上でも、「銀河鉄道の夜」を解釈する上でも、象徴的な言葉だと感じている。

 ロボビーのカンパネルラは、こう答えた。
 「でも、僕はロボットだから。ロボットは人間のために生まれてきたので。」
 その言葉が、冒頭のハンドベルのように、永く心の中で反響を続けている。

【筆者略歴】
小泉うめ(こいずみ・うめ)
 和歌山県出身。兵庫県在住。会社員。観劇人。全国を転々と旅する人生の傍ら、ジャンルや規模の大小にとらわれず舞台芸術に触れ続けている。

【上演記録】
大阪大学ロボット演劇プロジェクト×吉本興業「ロボット演劇版 銀河鉄道の夜」
大阪・ナレッジシアター(2013年5月2日-12日)

作/演出:平田オリザ(大阪大学教授・劇作家)

出演者:ロボビー(Robovie-R)、桜稲垣早希(吉本興業)、愛純もえり(吉本興業)、紙本明子、堀夏子、山本裕子、南波圭、片桐慎和子、川面千晶、

スタッフ:
舞台美術/杉山至(青年団)
照明/吉本有輝子(真昼)
音響/小早川保隆
音楽/やぶくみこ(青年団)
映像デザイン/山田晋平(青空)
映像製作/ワタナベカズキ
衣装/正金彩(青年団)
ロボット側ディレクター/力石武信(大阪大学石黒研究室)
舞台監督/中西隆雄
意匠制作/SALLY GRAPHICS × STROM
プロデューサー/田崎友紀子(一般社団法人ナレッジキャピタル)

主催:ロボット演劇版「銀河鉄道の夜」制作実行委員会(有限会社アゴラ企画・青年団/吉本興業株式会社/一般社団法人ナレッジキャピタル/株式会社KMO)
後援:大阪府、大阪市、大阪府教育委員会、大阪市教育委員会、財団法人大阪市教育振興公社、公益社団法人関西経済連合会、一般社団法人関西経済同友会、大阪商工会議所、大阪観光局、公益財団法人関西・大阪21世紀協会
協力:大阪大学、一般社団法人グランフロント大阪TMO


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください