ONEOR8「絶滅のトリ」

◎安住の地の終わり 共振する孤独
 金塚さくら

「絶滅のトリ」公演チラシ 波の音が聞こえる。それから鳥の声。正面の大きな窓の向こうには、高い空と深い山。雄大な自然に囲まれ外界と切り離された、ここは絶海の孤島。そこには青い羽の珍鳥、オオカンチョウが棲むという。
 絶滅の危機に瀕したそのトリを、看視し保護するのが彼らの仕事である。その個体数を少しでも殖やし、滅びの恐れから遠ざけることがその施設の目的なのだという。

 だからといって、この舞台は厳しい大自然を相手に奮闘する命への慈しみを描いた動物感動物語なわけではまったくない。鳥類にのみ関心を示す困った研究者たちの奇矯な生態を活写した学術コメディでもない。
 女好きだったり酒好きだったり筋肉バカだったり、あるいは、オタクだったり覇気がなかったり。姉御もいるし女史もいるし、おばちゃんもいる。どこにでもいそうな登場人物たちによって展開される日常風景は、まったくもって設定が無人島の鳥類観測所であることを必要としない。これは例えば、公立高校のどこかの部室でも良かっただろうし、地方の中小企業のオフィスでも構わないだろう。配布された当日パンフレットを読む限り、どうやら罪悪感を覚えるほど暇な職場でありさえすれば何でも良かったようなのだが、そこまで暇でなくたって、むろん同じことはできるだろう。

 ただ、思うに、“絶滅”というそのモチーフが、もしかすると意図した以上に重要なキーワードだったのではないだろうか。

 何にでも、終わりの日はいつか必ず訪れる。はじめに終わりの日が迫っていたのはオオカンチョウだった。観測所の面々は、その終わりの日を一日でも先延ばしするためにやって来たのだ。観測所職員としての彼らの日々は、トリたちに当面終わりの日が訪れる心配がないと確認されたときに、終わりを迎える。すなわち、絶滅危惧種のトリの個体数が充分に殖え、終わりの日が引き延ばされたときこそが、観測所の終わりの日ということだ。
 そうして、ずるずるとした彼らの仕事ぶりでも着実に成果は上がり、ときが迫っていた。これはおそらく、彼らの終わりの日の物語なのだ。

 この暮らしに終わりが来ると気づいた彼らは(正確には彼らの一部だが)、トリの終わりの日が引き延ばされたことを知りながら、自分たちの終わりの日をも引き延ばそうと画策する。

 それはほとんど幼稚なまでに原始的な手法で行われる。報告書に実態とは異なるデータを個体数として記載するだけだ。首謀者は観測隊の隊長とその不倫相手の姉御肌の女。

 虚偽のデータに、気づかない呑気な者、気づいても見ないふりをする者、気づいて行動を起こす者。そして、告発を受けて密かに実態を調査に来る者。いくつもの心模様が交錯して、ついに、取り返しのつかない、彼らの本当の終わりの日へ向かって事態は急速に転がり落ちてゆく。その崩壊を、先導するかのように疾走していくのがジロウとクロコシの若者二人だ。

 見るからに挙動不審でコミュニケーション不全のオタク体質なジロウ。万事に対して覇気がなく深入りすることを巧妙に避ける現代っ子気質のクロコシ。一見まるで別種の人間にも見えるが、その実二人はよく似通っている。というより、おそらく、彼らは同じものの二種のパターンなのだ。集団の中に、気負わず楽しく溶け込んでゆくことのできない異物。“ふつうに”振舞おうとしても、どうしても不自然さが付きまとって空回る。変に目立って笑いものにされないよう、彼らは注意深く警戒しながら生きている。

 観測所の面々が繰り広げる陳腐でありふれた人間模様を、どこか個性的なドラマに彩っているものがあるとすれば、それはこの二人の眼差しに他ならない。コミュニティの中で確かな居場所を上手につくることができない者の、余所者めいた佇まいが、客席の視点を一段別の地点へ引きずってゆく。

 たとえば、男どものアイドルである若手女子職員のリカを妊娠させたのは誰か。そんな“くだらない”話で激しく言い争っては険悪になっている一同の中で、舞台の上手と下手それぞれに置かれた椅子にじっと坐って身じろぎもしない二人の、その存在感。舞台の両翼から立ちのぼる強烈な孤立。

 観測隊の人間関係の中に、彼らは本当の意味で居場所を持たない。この外界から切り離された特殊空間は、一般社会よりはずっと“居る”ことを許容されやすい場所であり、どちらにとっても稀少な安住の地ではあるのだろう。とはいえ、ジロウは集団に溶け込むことを始めから諦めているし、クロコシはうまく紛れ込んだように見せかけているにすぎない。

 人々が他者との関係の中で生き、それのために現状を堅持しようと画策したり、泣いたり叫んだり怒ったりしているその傍らで、二人は静謐を保っている。彼らは、他者との関係を構築できないがゆえに、世界そのものと個で直結している。だからこそ、彼らにとって「ここ」の存続は他の誰よりも切実な課題なのだ。誰といるか、どういるかではなく、ここに、この島にいることができるかどうか。世間から逃れて、いつまでも隠れ棲んでいられるか。

 データの改竄が本土の研究所の知るところとなれば、観測所には終わりの日がきてしまう。どうにかしなければならない。この“危機”を何とかして乗り切って、ここでの暮らしを続けなければ。

 そうして、ふたりは事態を打破する解決策を見つけ出す。オオカンチョウの実際の個体数を、データに合わせればいい。余分な、多すぎるオオカンチョウを、殺してしまおう。

 ジロウを演じる伊藤俊輔とクロコシを演じる柄本祐が非常に印象深い。いかにも“イタい”人物像を巧みな作り込みで完璧に実体化する伊藤と、茫洋とした中に色気にも似た翳りを滲ませて、ちょっとした場面で確かな説得力を感じさせる柄本。

 この二人が舞台をぐいぐいと牽引していく。「おとなしい人間」というキャラクターの都合上、台詞は決して多くはないし、直接の遣り取りも実はそれほど行われない。しかし、ひとつひとつの場面が確実に記憶に残ってゆき、それぞれの抱える痛みを、二人がかり、二乗の勢いで舞台中に増幅させてゆく。

 ジロウとクロコシはどちらも中学校時代にいじめの標的であったということが作中で何度か語られるが、そんなものは実は蛇足なのかもしれないとすら思う。その体験が彼らをこんな人間に作ったのではなく、彼らがこうした性質の存在だから、その不幸な結果のひとつとしていじめもあったに違いないのだ。重要なのは彼らが現実にいじめを受けたかどうかではなく、いじめもさもありなんという彼らの、孤立した空気だ。眼前に有る彼らの痛みそれ自体が、物語としての意味を超えて、直接に観る者を揺さぶっていく。

 オオカンチョウの虐殺は、正面につくられた大きな窓の向こうの背景画をナイフで切り裂くという手法で描かれる。ずたずたに引き千切られてゆく美しい大自然の残骸の中に青い羽毛が舞い散って、間接的な表現ではあっても凄惨だ。その光景はひどく痛々しい。トリのことを思って言うのではなく、殺戮者二人の後姿に対して思う。絶望的にいたたまれない。彼らはどこへも行き場がない。

 殺戮を背景に、舞台前面でもつれた痴情から修羅場を繰り広げている面々についてなら、何も心配ないのだ。たとえ狂ったように泣き叫んで、裏切った男に向かって包丁を構えてみせても、決して本当に刺し殺しはしないのだろうし、煩雑な人間関係にもいつかきちんと折り合いをつけて、どこにでもまた新たな居場所を作り上げていけるのだろうと安心して見ていられる。

 そうした“ふつうの”適切なバランス感覚を持たない者は、後戻りできないところまで自発的に追い込まれて、貧乏くじでも引いたように、やり過ぎる。どこまでならやってもよくて、どこからやってはいけないのか、その線引きを見誤る。本人にとっては切実な動機であっても、他者の目にもそう映るとは限らない。愚直に真面目に生きているだけなのに、きっと世間は彼らを頭のおかしい凶悪犯だとみなすだろう。

 彼らは現状を維持するために動いたが、その行動はおそらく観測所の終わりを決定づける最後の一打となったに違いない。このままで関係者一同がすべてを黙したまま、取り繕ってもとの日常を続けることはできないはずだ。すでに外部の調査は始まっているし、そこに言い逃れのできない証拠を伴って、あってはならない惨劇が起きた。観測所は有無を言わさず終わるだろう。元に戻ろうとして足掻くことは、しばしばかえって事態を次の段階へ進めてしまう。

 ひとしきりオオカンチョウを殺してきた二人が、夕暮れの浜辺に並んで坐る舞台の終幕、妙な達成感に高揚しているその姿を見ると胸が痛い。彼らはこの先いったいどうするだろう。もう絶対、もとには戻れないのに。自力では行き場をつくれないくせに。

 けれど、その観測所の終わりの日、夕暮れの中の二人は絶望的な悲劇の予感の中にあっても、同時にどこかハッピーエンドめいた印象を感じさせもするのだ。

 さっきまでの殺戮に興奮して血まみれの手を震わせながら、上擦った癇症な笑い声を立てて、彼らはいつもより少しだけ饒舌に自分のことを語り、少しだけ積極的に相手のことを尋ねる。成立する、ひそやかなコミュニケーション。もちろん、そこに安易に友情が発生するわけではないだろう。この先も、二つの孤独は決して交わらないまま、彼らはそれぞれ己の分の痛みだけをひたすらに抱えていくに違いない。ただこの瞬間、確かに何かが共振している。

 いい加減日も暮れて、どちらが先に観測所へ戻るか執拗に譲り合った挙句、二人は妥協案として「せーの」で同時に立ち上がることに合意する。まるで何かを牽制するように、やたらと確認し合うのはつまり、裏切りを怖れたのだろう。コミュニケーションが下手な人間にとって、“ふつうの人”の本気と冗談のタイミングを測るのはおそろしく難しい。愚直に自分だけ立ち上がってしまったその後で、どんな罠が待ち受けているか解らない。気をつけないとまた、物笑いの種にされる。きっとどちらにも、苦い経験則があるのだ。

 そんな二人が、「せーの」で同時に立ち上がったときの、まるで肩透かしを食ったようなその表情。彼らはきっとそれぞれに、相手が本当に裏切ることなく同時に立ち上がったので、びっくりしたのだ。

 ひどく少数ではあったとしても、同種のものはどこかにきっと存在する。絶滅危惧種とは、滅んだもののことではなく、今確かに存在しているもののことだ。彼らは今自分の隣に、自分と同じ種類の生き物、よく似た病と痛みを抱える存在があることを感じ取ったに違いない。

 それがこの先の彼らにとって、慰めになるのかどうかは知らない。ただ、相手が愚直にも自分と同時に立ち上がったのを認めた二人が、暗転の直前に見せたその驚きの表情が、忘れ難く残っている。この終わりの日が、彼らの何かの始まりの日になればいいのにと、祈るように思う。
(2010.9.29 観劇)
(初出:マガジン・ワンダーランド第214号、2010年11月3日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
金塚さくら(かなつか・さくら)
1981年、茨城県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、浮世絵の美術館に勤務。有形無形を問わず、文化なものを生で見る歓びに酔いしれる日々。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kanezuka-sakura/

【上演記録】
ONEOR8「絶滅のトリ」
世田谷・シアタートラム(2010年9月24日-10月3日)

【作・演出】田村孝裕
【出演者】柄本佑 伊藤俊輔 恩田隆一 和田ひろこ 冨田直美 野本光一郎 林和義 高乃麗 山口森広 高畑こと美 河口高志 角替和枝
【スタッフ】
舞台監督 村岡晋
舞台美術 稲田美智子
照明 伊藤孝(ART CORE)
音響 今西工
宣伝美術 川端美香、桑山彗人(pri-graphics)
宣伝写真 引地信彦
衣装 福田千亜紀
票券管理 堀内淳
ヘアメイク 高村マドカ
演出助手 城野健
小道具 蕪木久枝
当日運営 斉藤友紀子
制作 ONEOR8、RIDEOUT
企画製作 ONEOR8

協力 アルファエージェンシー、エムエイチ企画、エンパシィ、オフィススリーアイズ、ジェイクリップ、ノックアウト、Habaenre、藤賀事務所、M☆A☆S☆H、リマックス(五十音順)

【チケット】
全席指定 前売3800円/当日4200円(税込)

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