◎二つの誘惑、一つの限界
山本博士
能楽師であり俳優の野村萬斎が、シェイクスピアの悲劇『マクベス』の構成、演出、主演を担う本公演は、2008年、シアタートラムでのリーディング公演を経て、2010年に世田谷パブリックシアターにて初演を迎え、ソウルやニューヨークでも上演されたものの再演である[注1]。6月初旬のパリと、ルーマニアのシビウでの公演を経て、日本公演が執り行われた。彼は2002年から世田谷パブリックシアターの芸術監督を務めており、1990年のジョナサン・ケント演出の『ハムレット』では主役を演じ、2007年の『リチャード三世』の翻案作品『国盗人』で主役を演じるとともに、演出も担当した。もちろんそれだけには留まらずにシェイクスピア作品に深く関わってきた萬斎だが、そんな彼の『マクベス』は劇の始めから不穏な空気が漂っていた。
開幕前から観客の注意を惹くのは、中心に大きな円形の空洞がある黒い巨大な直方体 だ。それは、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968年)に出てくる「モノリス」 の様な不穏なオーラを発し、舞台上にそびえ立っている。劇が始まると、舞台脇から舞台上へ黒いビニールのごみ袋が次々と投げ込まれ、上方からもいくつか落ちてくる。そして、その中から3人の魔女たちが立ち現れる。とりあえず、ごみ袋の中から登場する魔女たちは、人々によって廃棄された「ごみ」の化身のようなものと考えられるだろう。萬斎版『マクベス』が環境問題に関わる劇だということを示しているのかもしれないと、この時点ではそのような印象を与える。同時に、「ごみ」が魔女に「成り代わる 」という点を考慮すれば、何かが何かに「変身」するというテーマも関係しているのでは、とも想像させる。劇の時代設定は、現代を象徴するビニール袋の存在によって、観劇をしている私たちが生きる現代とどこか関連があることが示唆される。
有名なセリフ「きれいは汚い、汚いはきれい[注2]」に続く呪わしげな会話をした後、魔女たちが黒い直方体を舞台奥手へ運ぶ。すると、スコットランドの武将マクベスに扮する萬斎が、舞台奥の障子の様な薄い紙を剣で切り刻み、黒い物体の穴を通って登場し、狂言でみられるような「舞」を披露する。彼の衣装は襟のついた西洋の軍服の様な上着、袴、革靴といった和洋折衷のものとなっており、スコットランドの武将というよりは近代日本の武将のようだ。いかにも「外国受け」しそうな、和風シェイクスピア劇といったところだろうか。この場面は、日本の武士や侍を描いた映画に出てきそうなヒロイックな登場シーンといえるが、彼が持っているのが実際の刀ではないためか、紙の切れ方に迫力がなく、やや滑稽なものとなっていた。観客はここで若干の不安を抱くのだが、劇を観てゆくとこの不安は事故的なものでないと考えられるようになる。
マクベスが現れると、魔女の中の一人である福士惠二が、マクベスとともに予言を授けられるバンクォーを演じる。もともと、魔女たちの衣装はぴったりとした黒の上着と、黒い袴といったものであるが、その上から何かを身に付けることによって、彼らが他の役を演じていることが分かる。バンクォーなどの武将の場合、胸当てが「変身」の印となる。ここでは、以下の様に解釈することができるだろう——5人編成という制限のために役者が複数の役を演じているのであり、それゆえ魔女を演じていた福士がバンクォーになったのであろう、と。だが、彼らは単に人数に制限があるからという理由で複数の役を演じているのではないことが次第に明らかになる。というのも、魔女たちが予言を授けた後、バンクォーを演じていた福士は、観客に見える様に舞台上で胸当てを取り、他の魔女たちと笑いあっているからなのだ。
続けて、黒い直方体が取り除かれ、舞台上に、手ぬぐいや風呂敷の様な「和の模様」の入った、淡い青色の大きな布が敷かれる。これは舞台奥から手前まで届く長さのもので、横幅は舞台全体の3分の1を占める程であり、舞台中央に配置される。そして、また「和の模様」の布に覆われた、人が中に入れる余裕がある程の直方体が現われ、手前の面の布がめくられてスコットランド王ダンカンが現れる。ダンカン王も、魔女の一人である高田恵篤が扮していて、また、その場で次期国王に指名されたマルコムは、3人の魔女のうち残る小林佳太が演じていた。このあたりから徐々に察しがついてくるのだが、『マクベス』に登場する男性は、マクベスを除き、全て3人の魔女たちが演じるのだ。3人の役者が演じる、とではなくあえて、3人の魔女たちが演じると記したのは、3人の役者が魔女を演じ、3人の魔女がマクベス以外の男性役を演じるという本公演のメタシアター性を強調するためである。また、5人の役者の残る一人は秋山菜津子で、彼女が演じる役は、出世のために弱気な夫を奮い立たせるマクベス夫人のみである。本公演において、マクベス夫婦を演じる萬斎と秋山は他の役を演じないため、この2人と、二重三重の演技をする高田・福士・小林の3人との対立構造が明確なかたちで示されている。これは非常に斬新なテクスト読解だ。スコットランドにおける王位を廻る、30人ほどの登場人物たちの壮大な物語を、マクベス夫婦と魔女の五人だけのシンプルでメタ的な物語にしてしまったからだ。
また、そのようなテクスト解釈の点での大胆さだけでなく、演劇的・演技的レヴェルでの魅力も提示している。ダンカン王が登場した後の、マクベス夫人が夫からの手紙を読む場面で秋山は、「芝居がかった」演技で夫人の出世欲を表現する。本公演において彼女の演技は全体的に「芝居がかった」演技なのだが、それは萬斎にもいえることだ。彼の演技も大袈裟であり「芝居がかって」いる。狂言の語りのエッセンスを持ち込んだ澄んだ低音による彼の独特の発話は、演技をしていることを自ら明かしてしまう様な行為である。その際立った行為によって観客は、彼によって表象されるマクベスではなく、マクベスを演じている野村萬斎という役者の存在を強く意識してしまう。自明のことだが彼は「日本の顔」の一人といえる程で、その名を知らぬ人はいない程の大スターなのだが、やはりそのスター性も野村萬斎という役者自体の現前を強調する。劇の所々で「舞」を披露するという行為もその点を強める。マクベスが「舞」を披露しているというよりは「狂言師の萬斎が」そうしているのだ、というように。
それに対し、魔女を演じている3人は「自然」な演技をしている。もちろん、演じているのか演じていないのか識別できないような「自然」な演技というわけではなく、あからさまに「芝居がかった」演技をする萬斎と比べて、「自然」なのである。ダンカン王殺害のシーンでは、高田が舞台上で観客に見えるように魔女からダンカン王へと「変身」をする。もともと魔女を演じている状態である黒い衣装の上から、金色と白色の豪勢な着物を身に纏うことで王を演じていることが表される。そして、魔女たちはマクベスが殺しに来るのを嬉々として待ちわびている。そのようにして笑っている彼らは、本当に彼らが魔女であるかのように邪悪な笑みを湛え、まるで自身がマクベスの破滅を導いていることを楽しんでいるかのようにみえるのだ。高田たちの演技の「自然さ」は、劇構造によってつくられた「自然さ」といってもよいだろう。「芝居がかり」と「自然」な演技の二項対立が存在しているのだ。換言するなら、「魔女によって翻弄されるマクベス夫妻」という点を強く前景化している劇となっているのである。
劇の冒頭の、魔女のごみ袋からの登場を改めて考えてみると、それは、ごみが魔女になるという、本公演において重要な「変身」というテーマの方を示していたと考えられる。確かに、前述したように魔女を現代社会が産出した「ごみ」の化身と捉えることも可能だが、「変身」と比較するとそれは弱く感じられる。というのも、その「ごみ」の復讐というテーマについてよく考えると、現代の廃棄物が近代の武将とその妃に復讐する、というアナクロニズムを消し去れず違和感が生じるからだ。むしろ、何かが何かに成り代わる という「変身」というテーマについて示していたとみると、今までの流れに合う。また、冒頭の時点では「変身」としか言いようがなかったのだが、萬斎版『マクベス』をここまで観ると、「変身」という語を「演技」という語に更新することが可能になる。「ごみ」が魔女に「なる」ということが、役者が登場人物に「なる」ことのメタファーとして対応しているのである。それによって、劇に一貫して「演技」というテーマが存在していることをはっきりと認識できるのだ。
そういった見方が可能になると、劇の中の滑稽さがより際立ってくる。王殺害後にマクベスが手に血を付けて出てくる場面では、萬斎が赤いビニールひもを手に巻きつけて出てくる。ここでは、血がビニールひもによって表されているのだ。またマクベス夫人は、殺害隠蔽のため、王を殺害するのに使った短刀を、眠らせた守衛に持たせ、さらに王の血を塗ってくる。そこで秋山は、萬斎と同様に赤いビニールひもを手に巻きつけて出てくる。「芝居がかった」演技をしている彼らと、ビニールひものチープさとの間に生じるズレが滑稽だ。一見肩透かしに見える冒頭の萬斎のヒロイックな登場も、同様の滑稽さを表す場面として考えることができるのである。
王を訪ねて貴族マクダフが扉を叩く音が聞こえるが、それは魔女たちが木槌で床を叩いて出していた音だった、という演出となっていた。その音が頭に響き苦しむマクベスが退場すると、彼らは次第にリズムを奏で始め、次第に日本のお祭りで一般的な和太鼓のリズムとなった。魔女たちにとってマクベスの悲劇は単なるお遊びなのであって、楽しむためのお祭りのようなものなのだ、と言いたげである。このあたりから観客席から笑い声が漏れ始め、『マクベス』を喜劇、もしくは滑稽な劇として受容する共同体が一部で出来上がってゆく。最初から大胆に喜劇として描くのではなく、滑稽な要素を散りばめつつ、観客を「滑稽劇『マクベス』」の世界へと誘うその滑らかな手法は、きわめて巧妙である。
公演中で最も大きな笑い声が上がったのは、そのすぐ後の、マクベスが王となり貴族たちを招いての饗宴の場面であった。「木槌の場面」から魔女たちは舞台上で寝転がり始めていた。彼らがいるのは床の布がないところであって、けだるそうに「布」の上で起こっていることを眺めている。王となったマクベスは不安に駆られ刺客を雇い、自身の脅威となり得る者であるバンクォーとその息子フリーアンスの殺害を命じていた。その刺客は高田が演じていて、饗宴の最中にマクベスに「仕事」の結果を報告に来るが、その時高田はサングラスをかけ「布」の上に身を乗り出すことで刺客を演じる。また、同じ場面で福士がバンクォーの亡霊を演じ、マクベスを脅かす。福士は胸当てを身に付け、血糊のついた能面を顔に当て、一仕事するかとでもいうような具合に、「布」の上に上がる。このラフな亡霊に対し、「きっちり」と狂乱のマクベスを演じる萬斎が、亡霊を目にして青ざめるところで客席が最も大きく沸いた。
ここで「布」と演技に関連して、演出家のピーター・ブルックについての有名なエピソードを思い出すことができる[注3]。それは、彼が世界各地から集めた役者を引き連れ、演劇の「本質」を探るべくアフリカの辺境を旅してまわっていた時のことである。言葉の通じない現地人に対して演技をしていることを示すために、地面にカーペット=「布」を敷くことで、そこが演技空間であることを示したのであった。「布」の上が演技をする空間であるという設定は萬斎版『マクベス』と共鳴する。本公演では「布」というミニマルな演劇装置によって、「演技をしている」/模倣している状態が表される。それは同時に、「演じていない(様に見せる演技)」/模倣をしない空間との差異によって強調されるのだ。
メタ的な視点を獲得することで劇のすべてが滑稽に思えてきそうなものだが、そういった見方を拒む要素もある。それは、萬斎の「芝居がかった」演技の強度、正確に言えば彼の「声」の強度にある。確かに、彼の発話には演じていることがはっきりとしてしまうような「不自然」さがある。だが、彼の声の高低の使い分けのバランス、リズムは絶妙なもので、バッハの無伴奏チェロ組曲を聴いているような心地よさがある、と譬えてみてもよいだろう。何より、彼の「声」によるマクベスの独白は独特な引力を発しており、長い独白もその長さを感じさせず、観客を飽きさせず、もっとその「声」に浸っていたいとさえ思わせる。つまり、一見滑稽さに全てを回収させるような仕掛けが劇全体に施されている様に思えるが、実は、それに毅然と対抗するものとして萬斎の強烈な「声」が位置づけられているのだ。その強烈な存在によって、一歩引いてシニカルに劇を享受するのではなく、劇に「没入」することも可能になる。そうすることで、観客は、 不条理な魔女によって翻弄され、狂気の世界へと引き摺り込まれる哀れな夫婦の物語を悲劇として受容できよう。二項対立が片方に包摂されることなく維持されるのである。物語自体は以降、マクベスの破滅に向かって急速に進んでゆくが、観客は二つの誘惑に捕えられるだろう。一つは、魔女側に身を寄せ、劇から一歩引いてアイロニーを楽しむか、もう一つはマクベスに共感し、劇の中に「没入」し悲劇に共感するか、という誘惑だ。当然、どちらの誘惑にも捕らわれず、その誘惑のせめぎ合いをも俯瞰して楽しむ観客もいるだろう。
耳に残る軽快なリズムで、魔女たちがマクベスに第二の予言を歌って告げたあと、その予言通りマクベスが倒されることになる決戦の場面では「布」が取り除かれる。つまり、舞台全体が魔女たちの寝転がっていた非模倣的空間と化す。「布」が表す模倣的空間が消滅したことで、萬斎と秋山の演技に何か変化が訪れるのではないかと予想されるが、状況は以前と変わらないように見える。萬斎はいわば「芝居がかった」演技が「はぎとられる」空間で、そういった演技を続けてみせる。マクベスを倒すことのできる、「女から生まれた」のではないマクダフとの決戦を控え、マクベスは夫人の弔報を受け取る。ダンカン王殺害後から狂ってしまった夫人が息を引き取ったのだ。そこでの彼の独白は、二つ目の誘惑、劇に「没入」させる誘惑が強く表れた場面だ。
そう聞かされるにふさわしい時がもっとあとにあったはずだ。
明日、また明日、そしてまた明日と、[……]。[注4]
この独白には夫人の死にショックを受け絶望するマクベスの様子が表わされているが、それを極限まで高めるが如く、萬斎はゆっくりと消え入るような声でセリフを口にしていき、目に涙を浮かべていた。いままでアイロニカルな視点で劇を受容していた観客が、もうひとつの見方へと転向したとしてもおかしくはないほどに、シリアスな雰囲気が作り上げられていた。そして、「人生は歩く影法師、哀れな役者だ」という役者の自己言及的なセリフは、本公演において特に深い意味を持つ。これは、「布」が消滅した後の非模倣的な空間で模倣的な演技をし続ける萬斎の自己言及なのであり、ここまで演技について掘り下げてきた本公演ではより深みが感じられるセリフとなった。
それがやってくるとマクベスは滅びると予言されたダンシネインの森は、舞台上方から吊るされ、木の模様が描かれた巨大な布によって表現されていた。そして、高田演じるマクダフによって彼は倒されることになるが、なんと高田たちは先に赤い葉のついた大きな木の枝を剣に見立てて戦っている。それに対して萬斎は刀で戦う。木と刀なら当然刀が勝つに決まっている、という突っ込みを入れたくなる誘惑と同時に、舞台上方から舞い落ちる赤い葉の美しい光景に捕えられる誘惑も発生する。それは、マクベス対マクダフの決闘ではなく、もはや違う次元の決闘なのだ。この場面は模倣的演技と非模倣的演技という、本公演が提示してきた二項対立の究極的な対決と考えられる。
だが、それは二項対立のように見えるが、見方を変えると実はそうではないことが分かる。正確に言えば、どちらかの誘惑に捕えられていた観客たちが、見方を変えることを余儀なくされるのである。ここで高田たちが木の枝でまともに戦ってしまうことによって、舞台空間の虚構性が露呈してしまうからだ。実際の刀に見立てた刀を持つ萬斎は木の枝をバッサリと切らなくてはならないし、切れないのであればその刀は木の枝同然ということになってしまう。つまり、刀と木の枝が同等のものとして示され、ここで明確になるのはどちらも「小道具」であるということなのだ。舞台上では黙認すべきことが、あえて提示されるわけだ。
そのことによって、模倣的空間、または非模倣的空間という区分は効力を持たなくなってしまい、それらを支える虚構という大前提が前景化する。舞台上は模倣的な演技と、それを一歩引いてシニカルに鑑賞する非模倣的な演技が共存する、二重性のある空間であったはずが、実はそのどちらも虚構の中の出来事に過ぎない、一面的な空間であることを暴露してしまったのだ。言い換えれば、魔女たちがどれだけメタ的な行為をしてもそれは劇という虚構の中の出来事に過ぎないということが、二項対立が虚構の名のもとに回収されるようなかたちで表現されているのである。いままで提示されてきた模倣的な演技も非模倣的な演技も、「同一線上」の出来事、つまり、虚構という大きな舞台上での出来事に過ぎなかった。「布」はそれら二つの演技モードの差異を前景化するための装置であったが、今となっては、それは舞台上における単なる記号であるということが明らかになってしまった。「布」は布と化したのである。「布」の上でも、「布」以外の場所でも、演技は演技、虚構は虚構なのだ。そう考えると、舞台上方から舞い落ちる雪を模した紙切れ、紅葉を模した紙切れがロマンティックな演出効果を与えるものなのか、それともただの紙切れを紅葉や雪として提示する演出を嘲笑ったらいいのか分からなくなる。もしくは、ただの紙切れをそのままただの紙切れとして考えるべきなのだろうか。
劇の最後では、全てが虚構の中の話であったという暴露によって、いままでの出来事がパロディックに示される。決闘に敗れ倒れるマクベスの上には、吊るされていた布が掛けられる。もともと「芝居がかった」演技は「布」の上でのみ行われるものであったが、萬斎に布が掛けられることは、彼のあるべき場所、つまり模倣的空間への回帰を象徴的に意味すると考えられる。もちろん、吊るされていた布は敷かれていた「布」と同じものではなく、さらに舞台上の出来事が虚構であることが示されてから、その「布」ですら単なる布きれと化していた。ここで模倣的空間が復活したというわけではない。象徴や記号は、何の含蓄も持たない抜け殻となっている。つまり、これはただの布を野村萬斎にかけたということに過ぎないので、ある種のパロディー的な行為だと考えられる。いままでただの布きれに過ぎない布の上を演技空間としていた彼に対する、「回帰」に見せかけたパロディーなのだ。そのようなパロディー行為は萬斎だけでなく、高田たちにも行われる。
最後に魔女たちは、萬斎がそこにうずくまっている、布の盛り上がった部分を見つめる。そして暗い調子で「いつまた三人、会おうかね」と、本来なら劇の始めに語られるセリフを発し、その場を去り、終幕となる。ここで興味深いのは魔女の「立ち位置」だ。魔女たちはマクベスにかけられた布の上にいるのである。このことは、模倣的な演技も非模倣的な演技も、ともに演技でしかないということがパロディックに示されている。結局、二重、三重の演技も虚構の中で戯れているだけにすぎず、その点は萬斎たちとも変わらない、と嘲笑を交えて提示されるのだ。魔女たちにとってこの場面は、虚構の枠組みから抜け出すことのできないメタ的な人物の悲劇とも言えよう。
そのように、萬斎版『マクベス』は、役者の身体・「声」と劇の構造によって、「芝居がかり」/模倣と「自然」/非模倣の演技を対立させ、最終的には、それらすべてを回収し、虚構という劇の限界を鮮やかに、滑らかに提示したのであった。なにより、観客を導くその手法は巧妙だ。劇の冒頭から演技というテーマについて暗示しつつ、二つの誘惑で劇の虚構性を暈し、最後にはぶつかり合う刀と木の枝の「火花」によって観客の目を覚まさせたのだから。萬斎は、劇は虚構の産物であるという自明性を逆手に取り、それをエンターテインメントとして提示したのである。彼は、劇中でいくらメタ的な構造を構築しても、それは虚構性を煙に巻いているに過ぎないということを弁えている。劇中人物が「自分は演技をしている」と自己言及をしたところで、現実と虚構の境界が揺らぐことはない。それでもやはり、 私たちはその境界を揺るがせるような姿勢を望んでしまうのだ。例えば、劇のラストで魔女に敗れ布を掛けられたマクベスが、そのまま布の下で蹲っていたらどうであっただろうか。いままで虚構の世界での出来事を安心して眺めていた観客は、足元を掬われる思いをするかもしれない。また、大スター野村萬斎が観客の拍手に応じず、体を張っていることに衝撃を受けるかもしれない、などと考えてしまう。そのような現実世界からの「打撃」によって、劇の虚構性とは何か、現実・虚構間の境界は果たして不動なものかという問いを、「直接的」に提起できたのではないだろうか。(27日マチネ観劇)
注1:http://www.cinra.net/news/20140411-macbeth(CINRA.NET、本公演の情報が掲載されている。閲覧2014年6月27日)を参照。
注2:本稿の『マクベス』のセリフは全て、 ウィリアム・シェイクスピア『マクベス』(河合祥一郎訳、角川文庫、2009年)からの引用である。
注3:ピーター・ブルック『殻を破る——演劇的探究の40年』(高橋康也・岩崎徹・高村忠明訳、晶文社、1993年)、第5章「異文化への旅」を参照。
注4:『マクベス』、139頁。
【筆者略歴】
山本博士(やまもと・ひろし)
1991年生まれ。横浜市立大学国際総合科学部卒。東京大学総合文化研究科修士課程在籍。専門は演劇(シェイクスピア劇)、パフォーマンス研究。劇評初投稿。
【上演記録】
「マクベス」
シアタートラム(2014年6月20日-27日)
[原作] ウィリアム・シェイクスピア
[翻訳] 河合祥一郎
[構成・演出] 野村萬斎
[美術] 松井るみ
[照明] 小笠原純
[衣裳] 伊藤佐智子
[音響] 尾崎弘征
[舞台監督] 田中直明
[演出助手] 桐山知也
[プロダクション・マネージャー] 福田純平
[技術監督] 熊谷明人
[プロデューサー] 穂坂知恵子
[宣伝美術] 近藤一弥
[出演] 野村萬斎/秋山菜津子/小林桂太/田恵篤/福士惠二
[チケット] 一般 6,800円/高校生以下 3,400円/U24 3,400円
友の会会員割引 6,300円/せたがやアーツカード会員割引 6,600円
[主催]公益財団法人せたがや文化財団
[企画・制作]世田谷パブリックシアター
[後援]世田谷区
[協賛]トヨタ自動車株式会社/東邦ホールディングス株式会社/Bloomberg
[協力]東京急行電鉄/東急ホテルズ/渋谷エクセルホテル東急
平成26年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業