ままごと「戯曲公開プロジェクト」をめぐるインタビュー(2)

◎「いま・ここ」を超える劇性の作り手
 關智子

 前回の記事では、「ままごと」の柴幸男氏と制作・宮永琢生氏に「戯曲公開プロジェクト」の企画意図と今後の発展についてお話を伺った。そこで改めて、「劇作家とはどういう職業なのか?」という問いが浮上した。
 現在、ヨーロッパを中心に、劇作家の仕事を問い直す動きが見られる。それは、いわゆる「戯曲らしい戯曲」を書かない劇作家が増えていることに起因する。

 「戯曲」と言われれば、ト書きと登場人物たちの台詞が分かれており、ト書きには場面や登場人物に関する説明と俳優や演出家に対する指示が書かれている、というものを想像するだろう。だが、彼らはそういうものを書かない。ヴァリエーションは様々だが、大抵の場合、台詞とト書きが分かれておらず(書かれている文章がト書きなのか台詞なのか判断が難しい)、登場人物らしい人物はおらず(書かれている言葉を話しているのが人なのかどうかも分からない)、いわゆる「ストーリー」のようなものもなく、ジェイムズ・ジョイスによる「意識の流れ」を書いた小説のように、ただひたすら言葉が連なっている。

 いっそ散文詩や日記だと言われた方が納得できるような作品を、しかし彼らは「演劇のための作品」として提示しているのである。したがって、「劇作家とは? 戯曲とは?」ということが問い直されるのはある種当然だと考えられる。

 このような劇作家の登場は、戯曲の通りに演劇作品を作らない作り手が増えたことが一つの原因だろう。以前は、戯曲を「忠実に再現する」のが演劇の上演であるということが自明の前提としてあり、劇作家は上演作品に対して支配力を持っていた。だが、特に20世紀後半以降、演出家の台頭によってその前提が崩れ、今では戯曲をあくまで演劇を構成する一つの要素としてみなし、バラバラに切り貼りしたりモチーフや主題だけ用いたり、戯曲ではないテキスト(新聞や小説など)を用いて演劇作品を作るということすら頻繁に行われるようになった。彼らはそうすることで、「戯曲の通りに」上演作品をつくる、あるいは「戯曲を忠実に再現する」ということそれ自体を問題化したのである。

 そのような状況に対応してか、先に述べたような劇作家たちが登場した。厳密にいつから起こった動きなのかを見極めるのは難しいが、特に顕著なのはドイツのハイナー・ミュラー以降である。近年では、オーストリアのエルフリーデ・イェリネクやイギリスのサラ・ケインによるいくつかの作品がそのような戯曲の代表として挙げられ、その影響を受けた劇作家も続々と現れている。彼らは、演劇における戯曲の役割を演出家たちに考えさせ、そしてさらには「劇作家および戯曲の役割とは何なのか」ということを問うているのである。

 今回行ったインタビューは、これまであまり明らかにされて来なかった、柴氏のいわば劇作家論・戯曲論を知る機会となった。それは、上記したような問い、すなわち戯曲の本質を突き止め、劇作家という職業の再評価を可能にするきっかけとなり得るだろう。

劇作家の仕事 ―戯曲orテキスト―

:戯曲を公開するということになって戯曲のことを色々考えたんですけど、僕はそもそも、演劇は戯曲から作るのが第一だとは思ってないんですよ。優れた演出家がいればどんな言葉からでも作れるし、言葉もなくても大丈夫だと思います。地点の三浦基さんが、例えば電話帳でも作れると仰っていて、僕もそれはできるだろうなと思います。また、演劇界が全体的に演出家主体の状況な気がしています。じゃあその時に劇作家ってどういう職業なんだろう、と考えました。

 重要なのは、戯曲がもつ特性なんですよね。演劇の中で唯一戯曲だけが、時間を超えて、場所を変えられる。戯曲だけが、時間と場所の制限を受けないんです。だから映像収録技術がどれだけ進んだとしても、演劇の再現性に関しては戯曲を上回るものはないと思っています。そのことをちゃんと理解した上で書かないと戯曲にはならないんじゃないか。時間や距離の超越を考えて戯曲を書いていきたい、と考えました。

【撮影=ワンダーランド 禁無断転載】
【撮影=ワンダーランド 禁無断転載】

<以前柴さんは『悲劇喜劇』(2012年7月号)の中で、上演台本やテキストではなく戯曲を書きたいとおっしゃっていましたね。その2つはどう違うとお考えですか?>

:演劇は、時間と空間を表現すると思っているんですけど、要は、その中に劇があるかないかってこと、劇的な時間だったかどうかってことだと思うんですよ。劇場の中に舞台があって、役者がいて言葉を発してても、そこに演劇的な時間がなければ、それは演劇として成立してないんじゃないかな。劇的な仕掛けがあることや、時間に対して作品性を持っていることを、劇性と僕は呼びます。そして紙の中にその劇性を埋め込むことのできる人が劇作家だと考えました。

 反対に、劇性が埋まってない言葉の集合はテキストと呼びたい。それはつまりさきの三浦さんの話にあった電話帳です。優れた演出家がいれば、どんな言葉からでも劇性を引き出したり加えたりして、演劇作品が作れる。優れた役者が発すればどんな言葉も演劇になる。でもその言葉自体に劇性がないものはやっぱり戯曲ではないと思うんですよ。戯曲というのは、例えば、演劇的な能力や意識がまったくない、高校生や町のおじちゃん、おばちゃんたちでも、ちょっと読んでみたり、演じてみたりした時に、「違う空気が生まれたよね」とか「ちょっとフィクションが始まったよね」ということがわかる。それが戯曲だと思うんです。

 テキストと戯曲を分けて考えたいと思うようになったのは、『わが星』を僕以外の人の演出で見た時です。劇作家の僕が書いていたのは、実はテキストで、演出家の僕がそれを演劇作品にしていただけなんじゃないかと思うようになって。そこで僕はテキストと戯曲を分けて考えたいな、と思ったんですね。
 
 テキストよりも戯曲が偉いということでもないんですよ。テキストからでも演劇が作れればそれで良い。優れた作品であれば何でもいい。でも劇作家は「戯曲を作れる人」と定義しないと、劇作家という職業自体が揺らいでしまうので、そう考えて、それでもなおかつ僕は劇作家になりたいなって思ったんです。独立して戯曲という「演劇」を創造できる存在になりたいと思ったんです。

 大事なのは、書き手が未来に仕掛けているかどうかで、それが戯曲かそうじゃないかの違いではないか、と思います。その仕掛けるという意識は劇作家しか持たないと思うんです。演出家は、目の前の上演が成功すれば責任を全うできて、それで良いはずで、それが後に紙になった時に、独立した演劇装置として機能するかどうかなんて考えながら稽古してられない。それを意識する人は、唯一、劇作家しかいないはずだと思うし、その人たちがいなくなってしまうと、演劇の上演史みたいなものは連綿と続いて成立したとしても、さっき言ったような、時間と場所をある劇性が超えるという現象はなくなってしまうんじゃないかと思うんです。

【柴幸男さん 撮影=ワンダーランド 禁無断転載】
【柴幸男さん 撮影=ワンダーランド 禁無断転載】

 記録じゃないということが大事ですよね。時間の方向性が未来を向いているかどうか。上演台本は過去の記録だと思うんですよ。でも戯曲の意識はもっと未来に向いている。50年先、100年先に残ると思って書いているかどうか、つまり時間の射程距離をどの程度考えているかっていうのは、劇作家や戯曲の価値と密接に関係していると思いますね。平田オリザさんがこういう話をしているのを聞いたことがあります。演出家っていうのはできるだけ新しいことをした方が良いけれど、劇作家は新しさよりは普遍性が大事で、長く時間に耐えられるものを書くべきだ、と。

戯曲における劇性 ―時間・場所・言葉を超えるもの―

<劇作家の仕事とは戯曲の提示であり、戯曲とはただの言葉の集合体ではなく劇性を持つものである、という考えは、現代戯曲の性質を考える上で示唆的です。というのも、演出中心の現状を踏まえてか、およそそうとは思えないような作品が増えつつあるからです。この劇性についてもう少し説明していただけますか。>

:この作品には劇性がある/ないとか、劇の時間や空間がある/ないとかが、結局僕の主観的な言葉でしか説明ができないというのは非常に弱い、といつも思っています。より科学的な言葉を使えないと、僕の感覚を言葉で言っているだけなので、普遍性のない説明の仕方だな、と。

<柴さんの言う「劇性」が「演劇性(theatricality)」と同じかどうかは微妙なところですが、その「演劇性」にまつわる議論でも、主観的で論じるのがどうにも難しいということがあります。劇作家が作品の中に先に仕掛けている劇性となると、「ドラマトゥルギー」という言葉が用いられたりしますが、これも今となっては非常に幅広い意味を持ち、限定することは困難です。>

:でも、例えば小豆島で活動した時に、港に白い服を着た人がぽつんと立っているっていう状況があった。なんでもない風景なのに、その立ち方次第でなんでもない風景ではなくなるとか、その風景の説明の仕方とか風景の切り取り方次第でそこに演劇性を感じられることがあったんですね。その時に、演出家の仕事というのはこういうことなのかなって。そして、紙の中にそういうことを仕込める人が劇作家なのかなって、逆転して考えていった、ということはあります。

<写真や絵画だとよく言われますね、この作品にはドラマがある、演劇的である、など。良い意味で使われる場合と悪い意味で言われている場合がありますが。それを紙の中に、つまり言葉の中に見つけるというのは…>

:戯曲における劇性というのがあるな、と実感した出来事として、去年のニューヨークでの『わが星』の上演があります。これは、まず一昨年リーディング作品として、去年は二人芝居として上演されました。僕は英語は全然わからないんですけど、戯曲のどこの部分を話しているか、というのは作者なのでさすがに分かる。その中で、やりとりや会話だけで劇性が生まれているな、ちょっと変なことが起こっているなってわかる瞬間があったんですよ。

 それは「ちーちゃん」という子と「つきちゃん」という子がままごとをしようとしてるシーン。「女の子が喧嘩して仲悪くなってバイバイするままごとってちーちゃんが言って、「え、やだよ」「一回、やってみよ」「いや、うん、やっぱいいや、」「絶対、面白いから」「もう、かえる」って流れでつきちゃんが帰ろうとしたら…「どう!?」「上手い上手い!」って。実は今のが全部ままごとだったという場面です。

 この仕掛けは独立して面白いんですよ。多分ここだけ上演されても、はっとするんです。実際、ニューヨークでもこの部分はウケたんですよね。それで、翻訳というフィルターがかかった時、そのフィルターを通り抜けることができるのは、上演の見た目の面白さとかではなくて、この劇性だけなんだな、と思いました。それが時代を、場所を、超越するものなんだな、と。そしてそれは書いている時に僕が仕掛けたことなんです。この部分の構造はそれ自体が面白くて、それを仕掛けた僕の思考とそれを紙に書いた部分が、あくまで一部分ではあるけど戯曲だったんだな、と思いました。

 これと似たようなことを、井上ひさしさんが『父と暮せば』の新潮文庫の巻末、「劇場の機知―あとがきに代えて」で書いてたんですよね。「この『父と暮せば』には言葉遊びの面白さや広島弁の面白さがあったんだけど、翻訳されて上演されると、それは全部なくなる。ただそれでも、お父さんは分裂した娘自身であり、「恋をしても良いのか」という葛藤の産物であり、他人の形になって見える自分自身と対話して最後には恋をする自身を許すという劇作家の機知は、仕掛けは残った。この仕掛けは強くて面白いから、外国で上演されても成功したんだろう」というような内容でした。それで、「あ、そういうことだな」と僕も思ったんです。演出的な要素の他に何かあるんじゃないか、と。そういうところで、戯曲の劇性に関しては確信を持ちましたね。

これからの戯曲 ―劇性の新しい記述方法―

:僕は別に劇作家という職業自体を延命させたいわけでもないんです。ただ、これまで言ったように、紙の中に劇を埋めるって仕事は独立して存在しますし、それができるのは劇作家だけじゃないかなって思います。文字情報に演劇をプログラミングできる能力っていうのは、一人の人間の技術として価値を認められて欲しいとは思います。

 優れた戯曲というのは、ある種の演劇の自動再生能力を持っていると思うんです。例えば、素晴らしい上演の記録から言葉を抜き出したとしても、作家がその装置や役割を意識して書いてないと、戯曲にはならない可能性がある。『わが星』もその一例かもしれないんですけど、演劇作品の言葉だけを抜き出して紙面にすればすべて戯曲になるかというと、そうじゃない。

【柴幸男さん 撮影=ワンダーランド 禁無断転載】
【柴幸男さん 撮影=ワンダーランド 禁無断転載】

 岡田利規さんが今年の岸田國士戯曲賞の選評(第58回)で、「もしかしたら今の岸田戯曲賞は、戯曲を失効させていくための装置として機能しているのかもしれない」「これは痛快なことである。いろんな意味で、すごくヤバいことである」と仰っていました。多分、長い間岸田戯曲賞は、さっき言ったような装置としての完成度が高いものに与えられていたと思うんです。でも近年受賞しているのは、どちらかというと、とても良い演劇作品の記録台本や上演台本であるという現状が進んで、戯曲というものが、僕がさっき言ったのと違う方向に解体されているのかもしれない。とても良い演劇がまず先にあり、それの言葉だけが後に抜き出されて戯曲になるとか、もしくは特別な演劇作品があって、それのためにだけ書かれた戯曲とか言葉があるとか。そういう作品が、自作も含めて、岸田「戯曲」賞として評価されているかもしれない、ということを思っていたので、岡田さんも同じようなことを考えているのかな、と、その選評を読んだ時には思いました。例えば飴屋法水さんの『ブルーシート』は、いわき総合高校の高校生が上演したという要素を抜きにしては語れない作品だと思うのですが、それでも岸田戯曲賞受賞作品となった。

<『ブルーシート』は特殊というか、コンテクストがあまりに強すぎるのでそれから逃れて読むのは難しいかなとは思います。ただ、必ずしも逃れなければならないかというのもまた問題ではありますが。近年の受賞作品は、『わが星』も含めてですが、上演の際の演出イメージが強いものが多いと感じます。>

:強い力を持った演劇の「テキスト」を抜き出したものが、「戯曲」を上回ることがあるかもしれないということですよね。戯曲というものの記述方法が変わらなければいけないのかもしれない。『わが星』はそれこそ時報などの音楽的な小節で全部切り分けたりできるはずなので、あれは本来、楽譜で書かなきゃいけなかったって思ってるところがあるんです。それなのに、あの縦書きの、いわゆる戯曲の記述方式でやろうとしている。楽譜として最初から書いていれば、テキストや上演台本ではなく、新しい書き方の戯曲として成立したのかもしれないですね。

時と場所を超える演劇

 インタビューの最後の部分にある柴氏の考え、すなわち新しい記述方法による戯曲は増えつつある。『わが星』の、リズムに合わせて文頭をずらした書き方もその一つに入るだろう。演劇の上演形式や観客の鑑賞体験の形態が多様化した中で、戯曲だけが従来の形式に従って書かれなければならないというのはナンセンスである。今後、より様々な形式が現れるのは必定だろう。

【リズムに合わせて文頭をずらした書き方:「わが星」(白水社)P180-181 撮影=ワンダーランド 禁無断転載】
【リズムに合わせて文頭をずらした書き方:「わが星」(白水社)P180-181 撮影=ワンダーランド 禁無断転載】

 戯曲を読む楽しみ方の一つは、脳内の劇場での観劇である。以上のインタビューから、劇作家の仕事とは戯曲における「劇性」を生成することで、この脳内の劇場での観劇経験をより豊かにするものであり、言葉や沈黙の中に仕組みとしての演劇を創造することであると考えられる。その時の演劇とは具体的に何を指すのか、という根の深い問題は置いておくとしても、この考え方は劇作家の一つの定義を打ち出す。すなわち劇作家とは、近代的な戯曲のように上演を支配したり上演の元となる世界観を提示したりするものではなく、非常に広い意味での<演劇>を作り出すものだと言えるだろう。その時の<演劇>は、通常の上演とは異なり、「いま・ここ」を超え、読み手の個々人の内に現れ得るものである。このことは、忘れられがちであったがしかし、劇作家という仕事の本質の一部である。現代以降の劇作家は、その本質をより自己言及的に表現するようになるのではないだろうか。インタビューの中で柴氏が語ったことは、そのような劇作家の未来を予感させるものであった。

(インタビュー:2014年6月17日渋谷区にて)

【略歴】
柴幸男(しば・ゆきお)
1982年生まれ、愛知県出身。劇作家・演出家・ままごと主宰。「青年団」演出部所属、「急な坂スタジオ」レジデント・アーティスト。
 日本大学藝術学部在学中に『ドドミノ』で第2回仙台劇のまち戯曲賞を受賞。2010年に『わが星」で第54回岸田國士戯曲賞を受賞。一人芝居をループさせて大家族を演じる『反復かつ連続』、全編歩き続ける芝居『あゆみ』、ラップによるミュージカル『わが星』、朝の一瞬を切り取った一人芝居『朝がある』など、新たな視点から普遍的な世界を描く。
 近年は、レパートリー作品の全国ツアーや地方公共ホールとの共同創作、劇団うりんこ(名古屋)での新作児童劇の創作や「あいちトリンナーレ」への参加など、東京以外の場所での活動も多い。その一例として、2013年は「瀬戸内国際芸術祭」に参加し、小豆島(香川県)で滞在制作を敢行。島民や観光客を巻き込み、“その時、その場所で、その人たちとしかできない演劇”を生み出した。
 また、アートスペースを併設した休憩所である「象の鼻テラス」(横浜)では、パブリックスペースという特徴を生かし、流れる人と時間をそのまま劇中に取り込んだ作品づくりを行っている。
 2014年の主な活動として、4月に愛知・劇団うりんこ『妥協点P』(作・演出)、7月に青年座『あゆみ』(作・演出)を上演、7・9月に小豆島にて「アート小豆島・豊島2014 小豆島 醤の郷+坂手港プロジェクト 観光から関係へ -Relational Tourism-」に参加予定。
 また、「ままごと」HPにて『戯曲公開プロジェクト』を開始、過去の戯曲を無料公開している。
・ワンダーランド寄稿一覧 http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/shiba-yukio/

宮永琢生(みやなが・たくお)
 1981年生まれ、東京都出身。プロデューサー・ままごと製作総指揮。企画制作・プロデュースユニット「ZuQnZ(ズキュンズ)」主宰。
 2007年に平田オリザが主宰する「青年団」に入団し、2011年の退団まで本公演および関連公演の制作として携わる。2009年に柴幸男と共に「ままごと」を起ち上げ、製作総指揮&プロデューサーとして全ての公演および活動に関わる。
 「ままごと」の他にも、黒川深雪(InnocentSphere)とのユニット「toi(トイ)」のプロデューサー、音楽ユニット「□□□(クチロロ)」のライブでの企画制作、「TPAM(国際舞台芸術ミーティング)」のショーイング・プログラム・ディレクター等の活動も行っている。

關 智子(せき・ともこ)
 1987年生。日本学術振興会特別研究員、早稲田大学大学院文学研究科博士課程在籍(演劇映像学コース)。研究対象は20世紀末から21世紀のイギリスを中心とした西洋演劇および戯曲。国際演劇評論家協会(AICT)会員、Webマガジン『シアターアーツ』編集委員。第17回シアターアーツ賞佳作受賞(「部外者であるということ―ハビマ劇場『ヴェニスの商人』劇評ー」)。
・ワンダーランド寄稿一覧 http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/seki-tomoko/

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