ままごと「戯曲公開プロジェクト」をめぐるインタビュー(2)

◎「いま・ここ」を超える劇性の作り手
 關智子

 前回の記事では、「ままごと」の柴幸男氏と制作・宮永琢生氏に「戯曲公開プロジェクト」の企画意図と今後の発展についてお話を伺った。そこで改めて、「劇作家とはどういう職業なのか?」という問いが浮上した。
 現在、ヨーロッパを中心に、劇作家の仕事を問い直す動きが見られる。それは、いわゆる「戯曲らしい戯曲」を書かない劇作家が増えていることに起因する。
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ままごと「戯曲公開プロジェクト」をめぐるインタビュー(1)

◎戯曲のミックステープ
 關智子

 小劇場レビューマガジン・ワンダーランドを訪れる方の多くは演劇が好きな人だと思っている。したがって、今この記事をお読みになっているあなたもその一人と仮定しながら書いている。では、戯曲はどうだろうか。演劇が好きなあなた(仮)は、同じくらい戯曲をお読みになるだろうか。観客に好きな劇作家の名前を訊いて、いや、好きでなくても構わない、知っている日本の劇作家の名前を訊いて、どのくらいの名前が挙がるだろう。日本劇作家協会会員のリストを見ると、意外な多さに驚き、さらに彼らの作品の多くが容易には手に入らないことを知る。大学図書館に行ってジャンルごとに分けられた棚を眺めると「日本戯曲」の棚は狭い。その内現代戯曲は少数であり、世紀末以降となるとさらにその一部しか占めない。
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ミュンヘン・カンマーシュピーレ「浄化されて/渇望/4.48サイコシス」

◎ポストドラマ的テクストから作り上げられたドラマ
 關智子

【はじめに】
 イギリスの劇作家であるサラ・ケインの作品は、遺族の希望により、上演に際しての大幅な改変・削除が一切認められていない。特に後期の『渇望』(Crave)、『4.48 サイコシス』(4.48 Psychosis)は、いわゆる論理的なストーリー展開がなく、断片的な言葉によって織り上げられている、いわゆる「ポストドラマ的」なテクスト作品でありながら、テクストを解体して再構成するようなポストドラマ的演劇としての作り方は許可されていない。

 ミュンヘン・カンマーシュピーレでの上演はそのような制約を逆手に取り、『浄化されて』(Cleansed)、『渇望』、『4.48』を一回の公演で半ば連続して上演することで、個々の作品には描かれていない一つのドラマを作り出した。
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国際演劇協会「第三世代」(紛争地域から生まれた演劇4)

◎戸惑う者たち
  關智子

「第三世代」リーディング公演チラシ
「第三世代」リーディング公演チラシ

はじめに

 昨年行われたITI主催のリーディング&ラウンドテーブル『第三世代』(以下『第三世代』)の劇評を書きませんか、というご提案をいただいた時、かなり迷った。
 既にワンダーランドには、横堀応彦氏によるこの公演の劇評が掲載されている。横堀氏はドイツでの上演と比較し、作品のドラマツルギーを明らかにしており、さらに日本における「リーディング公演」という形式が持つ問題点を指摘している。興味深く、説得力のある劇評だった。
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地点「コリオレイナス」

◎Chiten to Globe-地点『コリオレイナス』@グローブ座観劇レポート-
 關智子

 ロンドンのグローブ座が地点を招聘した。
 シェイクスピアのグローブ座、京都を中心に活動している地点、その両方を知っている人がこのニュースを聞けば、「えっ」と思うに違いない。ほとんど想定できなかった組み合わせである。地点がシェイクスピア作品をやる、というだけの話ではない。それでも少し驚くくらいなのに、ロンドン、それもグローブ座という特殊な環境で地点がシェイクスピア作品をやるのだ。期待と当惑が入り混じった複雑な感情を覚えながら、チケットを購入した。
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ロンドン・ヤングヴィック劇場「カフカの猿」

◎猿と人間の狭間からの出口
 關智子

「カフカの猿」公演チラシ
「カフカの猿」公演チラシ

 開演時刻が近くなり、劇場内の「禁煙」と書かれたランプが消灯された。しかし、舞台上の非常口のランプは消えない。妙だと思った。客席上の照明が落とされても、まだ消えない。しばらくしてその非常口から、燕尾服を着て大きな鞄とステッキを持った、小柄な人物が現れた。彼は舞台上のスクリーンに映された猿の写真を見て戸惑ったように肩をすくめ、それから学術的な口調で語り出した、自分がいかにして猿から人間になったかを…。
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中野成樹+フランケンズ「ゆめみたい(2LP)」

◎それでも「そっと前進」する
 關智子

「ゆめみたい(2LP)」公演チラシ
「ゆめみたい(2LP)」公演チラシ
 「これはある男の話である。彼は決断力を欠いていた」
 (‘This is a tragedy of a man, who could not make up his mind.’)

 ローレンス・オリヴィエが監督・主演を務めた映画『ハムレット』はこの言葉から始まる。叔父クローディアスに殺された父王の仇をとろうとしながら、主人公ハムレットはその決定的証拠がないためになかなか目的を果たせずにいる。ハムレットを決断できない男として見る見方は現在では広く受け入れられており、あらゆる上演でこの解釈が取り入れられている。中野成樹+フランケンズ(以下「ナカフラ」)『ゆめみたい(2LP)』も部分的にはその流れを汲んでいると言えるだろう。決断できない男ハムレットを描いた他の上演作品やオリヴィエの『ハムレット』とこの作品が異なっている点は、前者は作品を提示するにあたってなんらかの解釈を採択すると「決断」しているのに対し、後者は作品の提示の仕方そのものも全面的には「決断」しない。
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鴎座クレンズドプロジェクト02「浄化。」

◎「浄化。」されるわたし
關智子

「浄化。」公演チラシ

 「わたしは強烈な力であの人の中に投影されており、ひとたびあの人を欠くとなると、再び自分を捉えることも、とり戻すこともできなくなる。わたしは永遠に失われてしまうのだ。」

 この言葉はロラン・バルト(Roland Barthes)が『恋愛のディスクール・断章』(Fragments D’un Discours Amoureux, 1977. 三好郁朗訳、みすず書房、1980年)における「破局」の項で述べたものである。この本は、『浄化。』の戯曲である『洗い清められ』(Cleansed, 1998. 近藤弘幸翻訳。以下敬称略)を書いた際に作者のケイン(Sarah Kane)自身が影響を受けたと述べており、作品の主題である精神的限界状態としての愛を表象するために参照していたとされる。この『浄化。』では、このバルトの言葉にあるような状態が上演の中で描かれると同時に、それは作中の登場人物だけではなく観客までも巻き込もうとする力強い、挑発的な試みが見られた。
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鴎座「クレンズド」(リーディング・パフォーマンス)

◎狭間を浮遊する作品
 關智子

鴎座「クレンズド」 公演チラシ 俳優が舞台上で台本を手にしているという事は何を表すのか。彼らは完全に役に埋没する事はなく、かと言って彼らそのものとしてその場に存在している事もない、観客と交換可能でありながら違う世界を生きている狭間の存在になる。そんな居心地の悪い所在無さを感じながらも、時折突如としてその場に出現する劇的世界に観客を引き込もうとする舞台。2010年12月25日に行なわれた鴎座『クレンズド』はそんな作品だったように思う。

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中野成樹+フランケンズ「寝台特急”君のいるところ”号」

◎「寝台特急」「きみのいるところ」である劇場
關 智子

寝台特急中野成樹+フランケンズ(以下中フラ)の作品はいつも緊張する。
と言うと、観た事のある人の大半は疑問に思うかもしれない。「誤意訳」という砕けた翻訳(翻案とすら言えるかもしれない)で、近現代劇をポップにアレンジする劇団、という印象があるだろう。実際には笑い所があり、全体としてまとまりのある明るい作品が多いように感じる。だが、私はいつも新作のチラシを目にしただけで緊張する。それは、「誤意訳」によって原作が間違った翻訳及び解釈で上演され、歪められてしまうと考えるからではない。作品が大幅に変更されて、もう途中から原作が何なのかすらよく分からないようになっても、観終わると「これは原作に近付こうとしているのではないか」と感じるからだ。中野さん本人ですら「間違ってる」と言っていても、間違っていない気がして来る。すると、自分の芝居の観方や判断が大きく揺らぐ。だから毎回、緊張して観ている。

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