ロンドン・ヤングヴィック劇場「カフカの猿」

◎猿と人間の狭間からの出口
 關智子

「カフカの猿」公演チラシ
「カフカの猿」公演チラシ

 開演時刻が近くなり、劇場内の「禁煙」と書かれたランプが消灯された。しかし、舞台上の非常口のランプは消えない。妙だと思った。客席上の照明が落とされても、まだ消えない。しばらくしてその非常口から、燕尾服を着て大きな鞄とステッキを持った、小柄な人物が現れた。彼は舞台上のスクリーンに映された猿の写真を見て戸惑ったように肩をすくめ、それから学術的な口調で語り出した、自分がいかにして猿から人間になったかを…。

 この奇妙な講演の原作はフランツ・カフカの『ある学会報告』である。不条理な世界を描くカフカの作品は、その多くが人間そのものがテーマになっている。恐らく最も有名なのは『変身』だろう。アフタートークで池内紀氏が語っていたように、そこで描かれているのは虫になったグレゴール・ザムザの状態ではなく、むしろ虫から見た周辺の人々である。この『ある学会報告』でも、人間になった猿(レッド・ピーター)が語るのは猿の目から見た人間についてであり(多少無理があるが、夏目漱石の『我輩は猫である』を猿に置き換えて想像して頂ければ分かり易いかと思う)、人間とは、という問題を読み手に問う作品だと言える。

 だが、ここで注意すべきなのは語っているのは単なる猿ではなく、「人間になった猿」だという点である。これが演劇作品として上演されると非常にややこしくなる。人間になった猿を人間が演じ、さらに言うまでもないが人間とはかつて猿だったものである。この複雑な構造は、原作が受け手に突きつける「人間性(humanity)」への問いを深めており、演劇として上演されることが相応しい作品だと言えるだろう。その意味で、コリン・ティーバンによる翻案・脚本とウォルター・マイヤー=ヨハンによる演出は見事だと言える。近年では戯曲以外のテクストを演劇化した作品が増えているが、『カフカの猿』には演劇という形式と原作の内容を結びつける必然性があり、そのような成功例はあまり多くない。この作品は正に人間を見せる芸術としての演劇の力を、改めて強く認識させる作品だった。

 近年、ロンドン周辺の演劇界ではこの人間性を問う作品が多く見受けられる。例えば、座・高円寺が上演したエドワード・ボンド(『戦争三部作』)は暴力を人間性の表象として提示し、ハワード・バーカーは極限状態に現れる人間の本性を追求する作品を書いている。他にも多くの作品がある中でこの『カフカの猿』が特異なのは、その軽快さだろう。

 カフカの作品には、どんなに異常な状況や展開が描かれていても、そこに独特の親しみやすさがある。この公演では、語り手のレッド・ピーターは自分の過去を語りながら、しばしばその時の様子を再現して見せる。例えば、酒の飲み方を習った時の様子を語る際は、観客の一人に酒瓶を渡し、自分は円形の照明の中で跳んだりはねたりする。まるで、檻の中から酒を欲しがって騒ぐ猿のように(!)。瓶を持った観客はかなりためらいがちに舞台上に上がって彼にそれを渡すのだが、その様子はまるで調教師が焦らすためにわざとゆっくり瓶を渡しているように見え、笑いを誘う。また、彼は別の観客にノミを見つけてそれをつまんで口に運ぶ真似をしたり、バナナをむいてあげたりと、猿だった頃の仕草を再現しながらも、プロのダンサーさながらに踊ってみせたりもする。これらの演出は作品にコミカルな印象と軽快なリズムを与えている。

「カフカの猿」公演から
【写真は、「カフカの猿」公演から。撮影=石川純 提供=世田谷パブリックシアター 禁無断転載】

 また同時に、カフカはどんなに寓話的で滑稽なだけのように思えるだけの作品を書いても、常に人間への鋭く醒めた視線を持っている。ここでは、そのような視線が持つ独特の不気味さ、不条理さが、「出口なし」という絶望的なキーワードを織り込むことで表されている。

 「出口なし」という状況は、ピーターが密猟者に捕まり、船の中のせまい檻の中で体験したものである。彼はそこから逃れるための出口として人間への道を選んだと語る。それはすなわち、かつて何らかの窮地を脱するために進化したわたし達人間の姿である。そして人間への道を選んだ猿としての彼は、人間性と獣性を持った、どことなく不気味な生物として描かれている。物腰は紳士的で語り口は知的だが、彼が猿だったころの再現として舞台上を駆ける時、はしごを曲芸のように上る時、そして興奮して叫び床を叩く時、それらはユーモアに溢れながら、するりと不気味な影が胸の内を撫でる。もちろんこれは猿だった頃の様子を見せるために演技しているだけだと思いながらも、一瞬、その目が獣じみて見える。さらに言えば、目の前にいるのはキャサリン・ハンターという人間の俳優であり、全てが作り事だと知っていながらも、人間の根源にある獣臭さを嗅ぎつけてしまったような気になる。

 ピーターは、一緒に住むメスのチンパンジーに動物と人間が混ざったような狂気を感じ、それに嫌悪を抱いていると語る。この同族嫌悪は観客がピーターに対して感じるものでもある。そしてこの嫌悪感は、カフカが描くような非日常的な状況下でだけ得られるものではなく、極めて身近なものである。人間は総じて理性的であり知能も高いと言える。だが、例えばラッシュ時の駅で、テレビのニュースの中で、自分の家の中で、知らない人は勿論、よく知った人でさえ、人間ではない何か得体の知れないものに思える時がある。その時に感じる嫌悪と恐怖は、自分の身の内にいる猿を再認識させられることに対するものだろう。この『カフカの猿』は、カフカが追求した「人間とは」という問いを人間を用いて表し、人間の存在をそれとして再認識させており、非常に(人間を見せる芸術として)演劇的、人間的な作品だと考えられる。

 作品の最後で、ピーターは人間になって不満はないが満足もしていないと言う。彼は、すなわち人間は、檻の中から出口を見つけたはずなのにまた出口のない状態になってしまっている。彼は講演を終え、また大きな鞄とステッキを持ち、その場を後にしようとしてハッとする。そして客席に向ってにっこり笑った。指差すのは「非常口」と書かれた緑のランプである。彼はこの場へ入って来た時に通った「出口」に、また出て行った。ピーターはまた「出口」として猿への道を辿ったのだろうか。わたし達にも「出口」はあるのだろうか(しかしどこからの「出口」なのか、わたし達は「出口」のない状況なのか?)

 このような複雑な構造を演じきったキャサリン・ハンターは正に「世紀の名女優」の名に相応しい。人間の持つ獣性、猿の持つ人間性をこれほど見事に、しかも同時に表現できる俳優はまずいないだろう。カーテンコールで舞台上に現れた彼女はお茶目な女性で、つい1分前に見せていたあれは何だったのかと思わせられ、その得体の知れなさにぞっとした。Twitterで見られた感想の中には、「是非俳優たちに見て欲しい」というものが多く見られたのも頷ける話である。

 また、この作品を招聘した世田谷パブリックシアターの活動は注目に値する。『カフカの猿』はアカデミックな視点から演劇の可能性や俳優の演技理論などを考える上で重要であると同時に、これまで演劇を見たことがない人や子供でも飽きることなく、娯楽として楽しめる作品だと考えられる。広い客層に開けており、かつ深い意味を持ったこの作品を招聘するということから、公共劇場としての真摯な姿勢がうかがえる。地域の文化的施設として必要な役割とは、そして求められている作品とはどのようなものなのか、それらを常に求めていることが分かる同劇場の活動に、今後も注目したい。(2012年5月3日14:00の回観劇)

【筆者略歴】
 關智子(せき・ともこ)
 大学院演劇学西洋演劇専攻。現代英演劇が主ですが基本的に雑食です。テクストと上演の関係が気になるので、暇さえあればテクストを読んでいます。ドラマトゥルクとか文芸部員とかいう存在にとても心惹かれています。

・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/seki-tomoko/

【上演記録】
ロンドン・ヤングヴィック劇場カフカの猿』~フランツ・カフカ「ある学会報告」より~

2012年05月02日(水)~2012年05月06日(日)
シアタートラム
※英語上演・日本語字幕付

原作:フランツ・カフカ「ある学会報告」
翻案:コリン・ティーバン(『THE BEE』『The Diver』共同執筆者)
演出:ウォルター・マイヤーヨハン

出演:キャサリン・ハンター

ポストトーク
5/2 出演:野村萬斎
5/3 出演:池内紀
5/4 出演:谷賢一
5/5 昼 出演:西岡智(西岡兄妹)
5/5 夜 出演:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
5/6 出演:白井晃

全席指定 一般 5,000円、高校生以下 2,500円、U24 2,500円、友の会会員割引 4,500円

主催:公益財団法人せたがや文化財団
企画制作:世田谷パブリックシアター
協賛:トヨタ自動車株式会社/Bloomberg/東邦ホールディングス株式会社
協力:東京急行電鉄/東急ホテルズ/渋谷エクセルホテル東急
後援:世田谷区
平成24年度優れた劇場・音楽堂からの創造発信事業

「ロンドン・ヤングヴィック劇場「カフカの猿」」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 薙野信喜

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