ワンツーワークス「ジレンマジレンマ」

◎3.11後の「正義」
 宮武葉子

「ジレンマジレンマ」公演チラシ
「ジレンマジレンマ」公演チラシ

 状況の説明なしに、三つの取り調べを同時進行で見せられる。時間の経過とともに、この三件がいずれも3.11に関わるものであるということが分かってくる。ワンツーワークス「ジレンマジレンマ」は、「正義」とは何かを問いかける意欲作である。タイトルはゲーム理論「囚人のジレンマ」に由来する。ただし、劇中で囚人のジレンマが直接描かれるわけではなく、わずかに第三の取り調べにその痕跡を残す程度である。

 取り調べを受けているのは、職務放棄したと覚しきシラス、風評被害に苦しむ地元産の米を扱わず、他県のブランド米を売って稼いでいるらしい販売者ツムラ、そして窃盗事件をおこした大学生ニッタである。彼らを取り調べるのは、それぞれシラスと同じような組織に属すると覚しきマキガミ、農協の人間であるというヒイラギ、そして刑事のカドクラ。ツムラとヒイラギの二人が女性である。

 シラスは情状酌量を訴え、ツムラは無実を主張して対話を拒否、ニッタだけが自分の犯行を認めているという設定になっている。取り調べは、進行するにつれて当初とは別の様相を見せはじめ、終盤に第三の人物が登場することでさらに変貌する。やがて「正義」のあやふやさが浮かび上がるという仕掛けである。

 舞台は大まかに三つに分けられていて、シラスの取り調べは主に下手奥、ツムラは上手手前、そしてニッタの尋問はその中間ぐらいの位置で行われる。椅子と机以外、大道具やセットはほとんどない。調査側の人間が多少の小道具を持つぐらいで、あとは演技だけで物語が展開される。それぞれの取り調べは時系列、だがぶつ切れに示される。役者は常に舞台上にいるわけではなく、喋っては引っ込み、また登場する。この作りのため、基本的に二人の人間のやりとりによって話が進むにもかかわらず、筋運びが単調にならない。場面が切り替わる時に入るストップモーション、台詞の繰り返し、スローモーションがアクセントになっていて、見ていてワクワクさせられた。言葉で説明するのは難しいが、動きが「ピタリと決まっている」のである。こういう表現の仕方は、映像では難しい。やはり演劇ならではのものであると思う。

「ジレンマジレンマ」公演の写真1
「ジレンマジレンマ」公演の写真2
【写真は、「ジレンマジレンマ」公演から。撮影=中川忠満 提供=ワンツーワークス 禁無断転載】

 細かい事情はともかく、「どうやら東日本大震災後の話らしい」ということは幕が開いてすぐに分かる。シラスが原子力保安捜査官であることは台詞で説明されるし、ツムラの地元の米が売れないのは放射能のためだと察することも、多くの日本人にとってそれほど難しくはない。つまり本作は、3.11に真っ向から挑んだ作品だということだ。

 マキガミはシラスの無責任さを非難する。どうやらシラスは副所長級の地位にあったようだ。シラスは、未曾有の事態にパニックを起こした自分を正当化する一方で、己の安全だけを考えて持ち場を離れるという行動が褒められたものでないということを自覚している。ゆえに、彼の言葉はいちいち歯切れが悪く、見ていてイライラさせられる。彼の言うことはそれなりにもっともであるし、その態度も実にしおらしい、にもかかわらず、高圧的なマキガミ以上に印象がよくないのである。

 ヒイラギは他県から嫁いできたツムラの地元への愛着のなさを指摘し、ツムラは何を売ろうが自由だと言い返す。農協の組織力や実態には詳しくないが、地元の産物を扱えといった圧力がかけられることは実際あるのだろうか。ツムラが主張する通り、「地元の米は地元の人間すら買わない」のであり、「小売店も生活していかなければならない」以上、彼女が他県の米を売るのもそれほど悪いこととは思えない。結果、ヒイラギは「地元という大義名分を掲げて個人を圧迫する感じの悪い人」に見える。

 カドクラは、中途半端な法知識を示すニッタをいちいち論破し、ことの重大さを認識させようとする。確かに、常にヘラヘラしているニッタは人を苛立たせるが、カドクラもやや大人げないように思える。盗ったのは1件だけだというニッタに対し、他の事件への関与も追求するカドクラ。ニッタが嘘をついているのか、カドクラがまとめて罪を着せようとしているのか、この時点でははっきりしない。会話の途中でニッタが取調室の監視カメラに気づくが、カメラは作動していないとカドクラはいう。これまた実態をよく知らないのだが(知らないことが多い)、取り調べの可視化というのはどうなっているのだろうか。あれ、そもそも監視カメラは誰のためのものだったっけ?

 前述の通り、これらの取り調べは細切れに見せられるので、ここまで話が進むのにそれなりの時間がかかる。取り調べを受ける側がそれぞれ個性的、かつ、全面的に受け入れるかどうかは別として、まぁもっともだといえるぐらいには筋が通っているのに対して、取り調べる側は三者ともどちらかといえば高圧的で、相手が有罪という前提で喋る。これを立てつづけに見せられるといささか飽きる。せっかく三つの事例を挙げたのだから、それぞれの雰囲気が違っていたら、もっと良かったのではないかと思う。

 その後、三つの調査は、当初とは違った方向に流れ出す。
 シラスは、はじめマキガミにその無責任さを強く非難されている。だが、実のところマキガミは差し障りの生じない報告書を作りたがっているのであり、そのために都合のいい発言をシラスから引き出そうとしていることが途中から明らかになる。施設責任者が逃げ出すようなことは「あってはならない」故に、シラスは「責務を果たしたかった」が「やむにやまれぬ事情で」その場を離れた、ということでなければならない。情報の不足やタイミングの悪さその他不幸な偶然の重なりによって結果的には持ち場を去ったが、自分たちの役目を忘れたわけでは決してない、ということにならなければ困るのだ。

「ジレンマジレンマ」公演の写真3
「ジレンマジレンマ」公演の写真4
【写真は、「ジレンマジレンマ」公演から。撮影=中川忠満 提供=ワンツーワークス 禁無断転載】

 グズグズとではあるがいったんは同意しかけたシラスは、やはり自らを誤魔化すことは出来ない、自分はあの日わが身の安全のこと以外考えていなかった、といって証言を覆す。当然、マキガミはこれを受け入れない。そこへシラスの後輩(あるいは部下)である若手職員サカモトが登場し、事故当日の心情を語る。彼は、自分としては人々を助けたいと心底思っていたが、状況がそれを許さなかった。それでも出来る限りのことはした、と証言するのである。シラスは自分を誤魔化すなと叫ぶがサカモトは揺るがず、マキガミは得たいものを得られて満足するのだった。

 マキガミの目的がつじつま合わせなのであれば、冒頭の責任云々は何だったのか。また、唐突に現れたサカモトが嘘をついているとシラスが考える理由も、サカモトについての情報量が少なすぎてよく分からなかった。もしかしたら、重要な台詞を聞き落としてしまったのだろうか。あるいは、もしかしたらマキガミの目的がシラスの考えていたことと違っていた、ということそのものがこの取り調べの「どんでん返し」だったのだろうか。だとしたら見てる時にはよく分からなかった。スミマセン。

 ヒイラギは、ツムラとその夫が入手困難な新潟産のコシヒカリをどうやって買い付けているのかという質問に転じ、夫の友人で地元生産者であるフタミがその場に呼ばれる。そこからツムラの本当の罪状、すなわち米の産地偽装が明らかになるのである。出来のいい米なのに地元産だというだけで売れないのは悔しいと考えたフタミとツムラ夫婦は、コシヒカリに地元の米を混ぜた。これが、おそらくは近隣の密告によって農協に知れたのだった。

 これは意外性があって面白かった。ただ、ここに至るまでが若干長いので、ツムラとヒイラギのイヤミ合戦は気持ち抑えめの方がよかったかなと思う。また、初め自分が「地元の農家のため」を思っていると強調していたヒイラギは、ある時から「とことん正義を追求する」に転じる。だが偽装が明らかになれば、地元農産物の信頼性は損なわれる。とすると、ヒイラギは地元のことを考えていたわけではなく、単にツムラを追い詰めるために言ったということにならないだろうか。逆に、ツムラのしたことは確かに犯罪であり、地元にとっても大きなマイナスであるが、せっかくの米を食べてもらいたいという目的そのものは、地元生産者を益することを意図している。ということは、ツムラとヒイラギの立場は、実は逆だったということなのだろうか。解釈に、やや迷った。

 ニッタにはスガヤという共犯者がいた。先に自白した方の罪を軽くするとカドクラは言う(これが「囚人のジレンマ」である)。カドクラは別室で取り調べを受けていたスガヤを呼び、自分は席を外す。取調中にケータイに応えて席を外す、ということがあるのかどうか、よく分からない。今時なら、あるいはあるのかも知れない。二人きりになったニッタとスガヤは互いに自白していないことを確認し合う。会話から、他の事件も彼らがやったということ、彼らが単純に金に困って盗んだわけではないということ、ニッタがスガヤを守ろうとしていることが判明する。しかし仮にも警察内で、こう無防備に喋っていいもののなのだろうか、と心配していたら、案の定監視カメラは停止しておらず、カドクラは隣室で全てを聞いていたのだった。スガヤが帰された後、カドクラは自分が真相を知っていることを明かし、彼らの行為の悪質さを強く非難する。ニッタたちの犯行現場は実は避難準備区域で、彼らは意図的に被災者から盗んでいたからだ。これに対して、ニッタは「災害の規模が大きく、死者の数が多ければ偉いのか」と反論する。自然災害で人が亡くなっても、それが一人二人であれば支援の手がさしのべられることはない。災害の規模の大小にかかわらず、残された人間は困難な状況に置かれるのに、世間は彼らを見殺しにする、というのが彼の主張である。スガヤの両親は自然災害で命を落としていたのだ。これを聞いたカドクラは、ビデオカメラの映像を証拠として採用するつもりはないこと、その代わりに映像と二人の本名をネットに曝すと言いだす。彼は被災地の「地元民」であり、ニッタたちの行為に「義憤」を感じたからだというのだ。

 …思い切り個人情報保護法違反だ。これは引いた。ケーサツがそれ言っちゃイカンだろう。仮に彼に実行の意図がなく、ただ脅しのためだけに言ったのだとしてもだ。刑事という立場で口にしてはいけないことというものは存在する。警察はこういった脅迫をする組織だといいたいのか、あるいは義憤そのものが批判されているのだろうか?

 見終わって感じたのは、まず第一に「地元」という言葉のいやらしさだった。善意や正義を体現するもののように見えて、実は人を縛る枷になっている。おおっぴらに否定しにくいところが余計に腹立たしい。ヒイラギもカドクラも、地元を守る、地元のためといった言い方をするが、二人が「正しい」とは思いにくい。これは作り手の意図から離れた解釈かもしれないが、3.11を扱った芝居で「絆」のマイナス面を描くというのは、なかなかすごいことであると思った。

 もちろん、それぞれの立ち位置によっても見解が異なるとは思うが、一向に進まないがれき撤去、うやむやにされそうな雰囲気の原発問題、その中で消費イベントに仕立て上げられていく「東北支援」を見ていると、カドクラよりむしろニッタの方に共感を覚える。もちろん東北支援は必要だと思うし協力するにやぶさかではない(ほんの微力ですが…)が、「今、問題を抱えるところ」は東北だけではないのだ。確かに未曽有の災害だった。だが、被害者は他のところにもいる。自身の「地元」だけを特別枠に入れるカドクラの論法には、うなずきがたいものがあった。

 あるいはツムラの件。ヒイラギは、特に前半で「地元の方々に悪いと思わないのか」というような言い方をする。農協として困る、あるいは自分がこう思う、ではない(さすがベテラン調査官である。老獪だ)。

 ツムラたちにとって、「地元」を具体化することは可能だと思う。隣のナントカさん、向かいのナニナニさん…といった形で、だいたいの範囲を限定することが出来るのだろう。が、「地元の人たち」という時、それは具体性を失い、曖昧模糊としたカタマリに変化する。「地元の人たちが言っている」というのは、個人ナニナニさんの発言ではおそらくない。

 地元の人たちはツムラが地元産のコメを並べても買ってはくれない(他の店のことはわからない)。そして、「地元」とはツムラの夫が入手しにくいコシヒカリをコネで仕入れているのをチェックし、偽装をタレこむ人々でもあるのだ。そもそもツムラのところに温かい「絆」など存在しないのではないか。自分の側に立ってくれるならともかく、地元はツムラを守ってくれるものではない。

 それでもツムラは「地元のことなんか知らない」と正面切って言うことは恐らく出来ないのだろう。彼女も共同体に属する人間であり、和をもって尊しとする日本人である。義理立てしないと後ろめたいと思うのだろうと思う。イヤだなぁ、こういうのは。

 顔の見える相手との関係が深まるのであれば、それは素晴らしいことである。が、「地元」なる曖昧な集団に取り込まれる、あるいは姿の見えない団体「地元」と何となく同調することを「絆」に含めるのは違うのではないか。「絆」が大義名分化すると、幸福から離れていくような気がする。そんなことを、見ていて思った。

 そしてもうひとつ。
 「ジレンマ」とは、二つの相反する事柄の板挟みになることであると定義される。だが、劇中の人々は他人とぶつかって頭を打ってはいるものの、特に板挟みにはなっていなかったように思う。「ジレンマ」ではなく、「正義」に関する何か(思いつかなくてスミマセン)の方が、タイトルとしてはふさわしかったのではないだろうか。

 正義とは、そもそも何か。概念上「ある」のは確かだし、「正義」という言葉が必要な局面はあるとも思う。だが、それはあくまで抽象概念であり、実体を持たないがために「唯一絶対」にはなり得ない。

 数学でいう「直線」はフィクションであると聞いたことがある。どれほど細く描こうと、「線」は厳密には「面」になってしまう。だが考える上では必要なので、「線というものが存在している」と仮定して考える、のだそうだ。大まかな説明で恐縮だが。正義もこれに近いものなのではないかと思う。

 誰もが、自分にとっての「正義」の実現を望んでいる。その「正義」は人によって異なる。誰が正しくて誰が間違っているということではない。「だから、他人の意見も尊重しましょう」と、言葉にすればありきたりである。だが、いざ自分の正義と他者のそれが両立しないとなった時、意見が一致するかどうか以前に、「異なる正義の存在を受容する」こと自体、そう簡単ではない。

 「ジレンマジレンマ」に登場する九人は、立場も考え方も違う。皆が違った言い分をもち、それぞれうなずけるところとそうでないところがある。彼ら一人一人の正義に、それぞれの立ち位置から光を当てた結果、正義そのものの形が見えなくなってしまった、というのが、この芝居の面白さだと思った。

 いやいや、待て待て。
 正義が、誰の目にもクッキリひとつに見えるという状況がよろしくない結果を生んだことを、日本人は知っている。実際に体験したかどうかは別として、知識としては、少なくとも。

 「正義の形」なぞ、簡単に見えない方がいいのかも知れない。楽に手に入れられる正義は、危うい。楽な分、あとあと取り返しのつかないことに結びついてしまいそうだ。

 3.11以降特に、この国では何が正義であるのかが見えにくくなっている。正義について考えることも、考えた結果他人と衝突することも、しんどくて面倒で不愉快なことである。といって問題から目を背ければ、口当たりのよいスローガンのような正義が空白部分に入り込むのだろう。それはやはり避けなければならないことであるように思う。

 それぞれが考える正義を持ち寄ってすりあわせ、ぶつかりながら少しずつ調整していくというプロセスは小地味で手間ばかり掛かり、しかも問題をすんなり解決出来ない可能性がある。けれども正義の暴走を押さえることは出来る、ような気がする。マキガミたちのように痛い目をみたいとは思わないが、痛い目みることも出来ない状況には陥りたくない。消極的な結論に落ち着いたのだった。

【著者略歴】
 宮武葉子(みやたけ・ようこ)
 1968年8月8日兵庫県神戸市生まれで東京育ち。慶應大学法学部&早稲田大学文学部卒。前者では歌舞伎研究会、後者では早宝会に入り、バランスを取ったつもりでいる。2012年3月に京都造形芸術大学通信部を卒業、現在はただの会社員。ジャンルを問わず何でも観るが、観た後は突っ込まずにいられない体質。

【上演記録】
ワンツーワークス#6「ジレンマジレンマ
中野 ザ・ポケット(2012年3月3日-11日)

【作・演出】古城十忍
【出演】奥村洋治(ワンツーワークス)、永田耕一(スーパー・エキセントリック・シアター)、関谷美香子(ワンツーワークス)、永川友里(文学座)、長田典之、越智哲也(ワンツーワークス)、日暮一成(ワンツーワークス)、浜村夕紀(ワンツーワークス)、奥本真司、谷本健志
【スタッフ】
美術:礒田ヒロシ
照明:磯野眞也
音響:黒澤靖博
舞台監督:尾崎裕
衣裳:加島博美
小道具:安田惣一
演出助手:増田和
宣伝美術:古川タク(イラスト)+西 英一(デザイン)+富岡甲之(スチール)
票券:ぷれいす
制作:藤川けい子
協力:アイズ、バックステージ、タクンボックス、Gプロダクション、スーパー・エキセントリック・シアター、アクトレインクラブ、文学座
企画・製作:(株)オフィス ワン・ツー/劇団ワンツーワークス
文化芸術振興費補助金(トップレベルの舞台芸術創造事業)

■全席指定 前売 4,000円 当日 4500円 学生 2,500円
 ※受付開始および当日券販売開始は開演の1時間前、開場は30分前です。
 ※10歳未満の児童はご入場いただけません。

■アフタートークセッション
3月6日(火) 『社会の正義と個人の正義』 片山夏子(東京新聞社会部記者)×古城十忍
3月8日(木) 『私のジレンマ』 奥村洋治×永田耕一×関谷美香子


「ワンツーワークス「ジレンマジレンマ」」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: NIPPONの論点(Bot)
  2. ピンバック: 薙野信喜

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