サンプル「女王の器」「自慢の息子」評に応えて

◎生きる「物語」人間
 松井周

 4月11日掲載の山崎健太さんと前田愛美さんの「女王の器」評及び5月2日掲載の西川泰功さんの「自慢の息子」評に対して、サンプル主宰で作・演出の松井周さんが論考を書いてくださいました。上演された作品の劇評、その劇評への作り手からのさらなる言葉という往復運動によって、新たな演劇的磁場が立ち上がりを見せるのではと考えます。(編集部)

はじめに

 「生きているだけでどうしても虚構的に生きてしまう。どこか本当らしくない」という感覚に苛まれることや「お前は本当の人生を生きていない。お前の人生は偽物だ」と説教されることはかなり苦痛だし、情けない。本物の価値を知らないだの、人生を無駄にしているだの言われると、半分くらい「そうかも?」と思ってしまう。ただ、説教する側の想定する「本物の」人生とは何であろうか? 深さ? 味わい? それともモデルとなる生活でもあるのだろうかと。でも、演劇をするということ、観るということはこのような価値観の押し付けに反発するためでもない。「偽物万歳!」とか「俺はピエロでいい」的な発想は「本物」への憧れが透けて見えるロマンチシズムでしかない。
 僕にとって演劇は「本物」や「偽物」の価値を無効化できる営みだ。もっともこの感覚は太田省吾さんの以下の言葉に励まされてといったところが大きい。

 僕の理解では、観客は、社会的存在である自分を殺されに来るんだということだと思うんです。そうしないと、生命存在的な自分っていうのが、日常の流れの中で見失われたままになる。演劇は、社会的価値なり反価値なりを決めるための表現ジャンルではなく存在の意味を語るためのものだという僕の考えにとっていい言葉を得たと感じたところなんです。(『WALK 31号 座談会 「世界劇場をめぐって」』)

 社会の中での「価値」を基準に人間を描くのではなく、人間の「存在」そのものを描くのが演劇ではないかという考え方に僕はとても惹かれる。太田さんが「言葉」を極力使わない演劇に傾倒したことの理由もよくわかる。「言葉」は当然のことだけれど、皆の共有物なのでどうしても社会的な意味がつきまとう。例えば「優しい」という言葉につきまとうイメージは大体共通しているので、ある個人をそうやって形容した時に、その人の「存在」そのものを縮減し限定してしまう。

 このように「言葉」は対象の「本質」を規定することはできるかもしれないが、どうしても「存在」から外れていってしまうという認識が僕にはある。基本的に、演劇をつくるということは「存在」に肩入れすることで、批評するということはある対象から「本質」を抽出しようとすることだと思う。
 だから、演劇を批評しようとすると、まずはどう書いていいものか迷う。作品の「存在」と僕という「存在」が関わるということを前提として何かを書くならば、作品を経験している間にふと思い出した記憶や、湧いて出た次の作品のアイディア、ある俳優の家族構成についての考察、あるシーンにおける、隣に座っていた人とのリアクションの違いなどを書き連ねたいが、これは僕の中で起こったことで、言ってみれば僕という「存在」を描くということになるからふさわしくないのでは、と思ってしまう。僕という「存在」のリアクション、つまり印象を述べることにしかならない。対象となる作品の輪郭がはっきりしない。やはり、批評は対象となる作品の「存在」の豊かさを多少間引いた形になっても、「本質」を抽出するべきではないかとも思うのだ。そうしないと誰にとっても開かれている作品とは言えなくなってしまう。

 今回はワンダーランドに寄せられた劇評に応答するという形で書くということなのだけれど、結局僕は「存在」と「本質」の間をウロウロしながら書くことになるだろう。応答するというよりは、それらの劇評をヒントにして新たな「物語」を描くという形になるだろうと予想する。いかに個人的なことを書いても、言葉を使う限りどうしたって公共的であるし、いかに公正な基準に従って書こうとしても多少個人的なフィルターを通して歪んでしまうという当然だけれども面倒くさい認識を持って書こうと思う。

演劇とは何か?

 僕にとって「演劇」とは、大体以下のようなものである。
 現実の世界で「田中」と呼ばれている男が、舞台上では「王様」と呼ばれている場合、「現実」と「虚構」が一人の男の上に重ねられている。ある「現実」の肉体に「虚構」が重ね合わされている状態、その「二重性」を観客も俳優も同じ空間で共有しようとする試みのことである。「現実」の方に重きが置かれるか「虚構」を押し付けるようにするかは作り手のさじ加減と観客のノリによるだろう。さらに、「田中」という名前すら生まれて最初に貼り付けられた「虚構」に過ぎないわけで、実は日常生活においても私たちは自らの肉体に何らかの「虚構」を貼り付けながら生きているとも言えるので、「演劇とは何か?」という問題は本来、誰にでも通じる問題でもある。

 「生きているだけでどうしても虚構的に生きてしまう。どこか本当らしくない」という感覚を持っている人に対して「世界は演劇だからね」と言うのはキザかもしれないが、「演劇やろうよ」とスカウトはしたくなる。「じゃあ限りなく本当に近いウソの世界を作らない?」とか言って。先述したように「現実」と「虚構」の二項対立を無効化することが演劇の可能性だと思っているからだ。
 それでまず、具体的に作品の構想をするときにまず僕が思い返すのが以下の文章だ。

 舞台というのは、物理的な具体的な場所であって、その場所を一杯にすること、それに具体的な言語を語らせることが求められているということである。(中略)この具体的言語は、言葉に従属することなしに五官に訴えるように作られており、従って、まず感覚を満足させるべきだということである。言語のために詩があるように、感覚のためにも詩はある。(アントナン・アルトー『演劇とその形而上学』)

 このアントナン・アルトーの言葉は何度も読み返す。ここにある「言葉に従属することなしに五官に訴えるように作られ」た「具体的言語」のことをよく考える。僕なりに解釈すると、「具体的言語」とはモノの質感や、光、音、熱などが人体に及ぼす作用だ。例えば、ふっくらとしたソファ、日なた、川のせせらぎなどが私たちの五官に訴えかけてくる、人間の言葉とは違った言語のことではないだろうか。もっと細かく考えれば、環境が投げかけてくるあらゆる情報だ。それらに対して俳優がきちんと向き合っていることが確認できるならば、そのシーンは成立すると僕は考えている。また、そのときに向き合っているのは俳優だけでなく観客が含まれている場合もあるだろう(ただ、僕の中でまだ観客と俳優を区別なく「参加者」としてみなすようなパフォーマンスを作っているわけではないので、この部分はまだ考察途中である。だから、まずは俳優に限った話をしていこうと思う)。

 実は、俳優が全ての環境情報に向きあうという言い方は正確ではない。何故なら、人間は実はそれらの環境情報を編集して生きているかもしれないからだ。
 伊藤計劃のエッセイで、ベンジャミン・リベットの「自発的な筋運動の際に観測される準備電位実験」と「受動意識仮説」(原文では「意識受動仮説」と書かれているが記述間違いだと思われる)について述べているところがある。

 意識は「出来事」を「記憶」としてとりまとめるために存在する。脳のネットワークが「つぎはぎの」現実から生成した現実、そして意識下が決断し行動した諸々、そうしたものをひと続きの出来事、言い換えるなら「物語」へと編纂するために、記述するために存在するのだ。無意識が行ったことを「ああいうことがあった」「こういうことがあった」と系統だった一連の出来事として「認識」し「記憶」して脳の図書館に仕舞いこむために存在するのだ。(『WALK 57号 伊藤計劃「人という物語」』)

 環境情報を脳がその人自身に適した「物語」に編集しているという感覚だ。日常生活においても、環境情報を「物語」に変換して生きているということならば、舞台上でも同じことだろう。ある「役柄」を演じるまでもなく、脳によって編集された「物語」を生きているのだから。生きているだけで自分なりの「物語」を作ってしまうということだ。
 だから、僕は五官を刺激して活き活きとした身体性を取り戻そうと言いたいわけでもない。それを言い出すとまた「本物/偽物」観にとらわれてしまうからだ。そうではなく、「田中(役柄)として本物の人生を歩むために、明確な意志を持て」と言われれば「そうだな」と思いつつも何だかうまく乗れないし、「本物の身体性を取り戻せ」と言われれば「そうだな」と思いつつやっぱり乗れないような、主体性のない中途半端な人間こそが僕のニュートラルな人間観で、俳優にはそれを体現してもらいたいと思っている。
 この発想だと皆が同じようなキャラクターになるだろうか。いや、そうは思わない。各人の現実に対する「物語」編集能力のばらつきが各人のフェチシズムやこだわりを形成し、ひとかたまりの個性とも呼べる特徴を持つであろうし、あるいは、各人が同じようにこだわる部分に共通の「つぼ」を見ることもできるだろう。

 つまり、日常を生きているだけで「物語」を紡いでしまうのが人間ならば、舞台上でどんなに断片的で辻褄の合わない、支離滅裂なことを行なっても「物語」にはなるだろう、それを「物語」として受け取る事は可能だろうという発想で作品を作っているということだ。過剰にフィクショナルな設定(台本上の設定。一般的にはこちらが物語と言われる)を俳優に貼り付けようとも、舞台上の光を眩しがったり、柱と戯れたりすることで、俳優独自の「物語」が紡がれるだろう。ただし、そうは言っても初めからそのような支離滅裂さをゴリ押しすると、受け取る側が支離滅裂ブロックを発動させて一切受け付けなくなってしまう可能性があるかもしれないので、なるべく素知らぬふりをして、その関門をすり抜けるように、設定や問題などを提示しようとする。その後から、徐々に支離滅裂に向かっていくということになる。

『女王の器』について

 『女王の器』も同じ発想で作ったものだ。三つの物語(四年に一度交代しては殺される女王でありながらも、その難を逃れ地下に潜りクーデターを企む女の話/自分が何故か女王の巨大な像だと思い込んでいる女性の話/親子二代に渡って女王の巨大像建設に携わっている建築家の家族の話)が複雑にからみ合っていき、融合していくのだけれど、どこか不自然に肥大していたり、欠けていたり矛盾があったりする。誰かと誰かの妄想が癒着して転移しているような有様だ。

 これは基本的に僕がやりたかったことの集大成になるだろうと思って作ったものだった。演劇においては、肉体が現前していればそこにどんな設定を貼り付けようと矛盾はしないはずだ。小説は言葉の情報が全てだが、演劇には身体があって、たとえ言葉がどんなに裏切ろうともそこに身体という担保があるから、という感じで作り始めた。
 もちろん、デタラメな言葉のみだと五官は刺激されないと考えて、モノや光や音と俳優の関係、そこに発生する引力(=コミュニケーション)を大事にしようとした。さらに、その延長として、観客の視線や声にも常に反応することを俳優に課した。重要なのはそこにある「引力」をどう説得力のあるやり方で見せることができるかであった。
 山崎健太が「洗剤、アニメ、錬金術」に書いていたように、「界面活性」という言葉がこの作品のキーワードであった。

 火と水、男と女、生と死、生物と無生物。様々に相反するものの共存は、舞台を構成する複数の筋の中でもモチーフとして反復される。男として生まれながらも女として育てられた建築家の子。女王として生贄に捧げられる運命から逃れ、「生きてるのに死んでいて、死んでいるのに生きてる」「あいの子」となったイケニエ女。「クイン」と名付けた人形を埋め続け、なぜか最後には自らも人形となってしまうバイトの女。
 「女王」という言葉で緩やかに繋がりながらも個別に提示される三つの筋。それらが混然一体となって終幕を迎える舞台の構造もまた、異なるものの共存というモチーフを繰り返す。(山崎健太「洗剤、アニメ、錬金術」)

 相反するものが溶鉱炉に入れられて溶かされ、別のものに生まれ変わるようなイメージと僕の狙いはかなり近いものだ。しかも、溶鉱炉のみでなく、どこか決定的に分離していくもの、剥がれていくものについての言及も「界面活性」剤の剥離効果から読み解いていることが興味深い。

…真横からの照明はしばしば役者たちのシルエットを壁に映し出す。足元ではなく壁面に映し出される影たちは、役者の身体のあるこの世界とは別の世界に生きているかのようである。さらにいくつかのシーンでは、マイクが使用されることで声が身体から切り離される。舞台上の様々な場所から聞こえる役者の声。身体、役、影、声。役者の身体に統合されるはずのいくつもの層が、舞台上に浮遊し始める。(山崎健太「洗剤、アニメ、錬金術」)

 人間があらゆることをフィクションとして捉えてしまうのならば、影や光に対しても、または音に対してもそのようにふるまうのではないだろうか。例えば、光は神で影は悪魔であるように思い込むことも、記憶の中の声が生々しく響き、現在の声が遠く聞こえる場合、古いアルバムをめくるようにノスタルジックに日常を生きてしまうこともあるだろう。

 また、前田愛実の「女王の国を駆けぬける男児の悪乗り」における以下の指摘は、先述した「本物/偽物」観を越えるための僕の試みの可能性と限界を表しているように思える。

 ところで天高く屹立する巨大な女王像(腋毛が太いロープサイズ)は、女の形をしていながら男がありがたがる相当にファリックなものではないだろうか。
 途中、不倫する女とのからみで、髪をウィッグでどんどんと“盛って”いく現代っ子らしきギャルが登場する。うずたかく“盛ら”れるギャルの髪は、終盤タワーのようにそびえたって女王像との相似形をかたどる。現在のギャルが模しているのはこの女王像だ、ということだろうか。

 人工的に盛られた女らしさがいびつな姿をあらわすとき、“らしさ”は増幅して変貌しペニスの近似値となる。(前田愛実「女王の国を駆けぬける男児の悪乗り」)

 『女王の器』で試みたかったことの大きなものとして「性差の乗越え」があった。人間社会におけるジェンダーやセクシャリティについて考えるというよりも、生物的な視点から雌雄同体や性転換を考えて、それを舞台化してみたかったのだ。だから、ペニスのような女王像も出来上がるし、人工的な女らしさが増幅するほどペニスに近づいてしまうような「変態(生物的な意味での)」が起こる。また、自分を「女王像」だと思っている女もいて、前田が指摘するように彼女は「男に愛されようとしたとき、対象として所有されたいと願い、そのあまりに自らのファンタジーにからめとられ、人形とな」る。それは男の「物語」の登場人物になろうとするために、都合のいい女になろうとする滑稽なことかもしれないが、生物的に見れば、状況に適応しようとすること、つまり「擬態化」という一つの手段でもあるということを示したかった。ただし、作品全体として、前田のタイトルにもあるように「男児の悪乗り」が目立つのも確かでいくら僕自身が女への「擬態化」をしても、どこかでその限界はあるだろうということだ。

 もう一つの課題は、台本上の設定や言葉が断片化して支離滅裂になっても、舞台上の俳優や照明や空間がそこに「存在」していれば、どんな「物語」もそこに見て取ることができるという考え方を変更していく必要があるのではないかということだ。端的に言えば、それは3.11後だからだ。ここまで各人による現実の捉え方、「物語」の作り方がバラバラになってくると、舞台上に分散した「物語」を見て取っても俳優の「存在」は際立たないし、ということは観客も自らの「存在」を感じ取れないのではないか。だから、ここはいっそのこと、もう少し台本上の設定を明確にして、登場人物の同一性を高めるほうがいいのではないかと考え、『自慢の息子』再演にのぞんだ。

『自慢の息子』について

 西川泰功による「移動する主体が<まなざし>の変容を照らす」と題された『自慢の息子』評は丁寧に自慢の息子の戯曲構造を説明してくれている。

…事態が現実と虚構の間で宙づりになっているという印象を持ちます。これは戯曲の構築原理が、現実層と寓話層の間を揺れているからだと考えることができます。寓話層では、母が息子のつくった国へ移住するという枠組みがあります。現実層では、気がふれた母がニートの息子の待つ自宅へ帰宅する話と受け取ることができます。(西川泰功「移動する主体が<まなざし>の変容を照らす」)

 『自慢の息子』が現実層と寓話層の間で揺れている世界であるということは重要な指摘である。「揺れて」いるのだから、観客は「今はこっち(現実層)、さっきまではあっち(寓話層)」と見方を固定できない。だから宙吊りになる。ここまでは戯曲の構造の話であるが、西川は演劇においては何よりも「身体の現前」が前提となっているということを彼のブログ「妊婦/忍者」のチェルフィッチュ評に書いている。

 身体の現前がまずもって明らかにしているのは、心とか心理とか内面とかいう単語で呼ばれるもの、つまり精神のさまざまな働きだけれども、これらがどのようにしてありうるか、ということだ。一個の身体を前にしては、そうした精神の働きはむしろ虚偽性として強く前面に出てくる。舞台のうえで俳優がなにを話そうとその言葉が真実がどうかなんて結局のところ確かめる方法はないのだ。根拠づけてくれる何かなんてないのだ。そう言い切ってしまえば、「身体が台詞の真偽をことごとく裏切る」というのがまずもって演劇の特徴なのだと言える。(西川泰功「チェルフィッチュから考えてみる…」)

 冒頭に書いたように、この認識は僕が演劇に対して感じている可能性と一致する。この直前の文章でも彼は「実存が本質を裏切る」ということが「演劇的な事態にほかならないし、演劇に批評性を取り戻すとしたらきっとこのことがキーワードになる」と当たりをつけていると書いている。ここも同意できる。まるで「人間はこうだ」とか「男(女)はこうあるもの」という本質が先にあるかのような言説に対して「それ、ウソでしょ」と突っ込める力は演劇にあると思うし、そんな言説が現前する俳優によって軽々と覆されていくさまにカタルシスを感じるからこそ演劇を作っていると言ってもいい。ただし、例えば「放射能」という言葉一つ取っても、その言葉が指し示す「真実」を簡単に言い当てられないことを国民が共有している現在において、「実存が本質を裏切る」ことはデフォルトになっているとも言えるだろう。だから、今回の『自慢の息子』再演はなるべく登場人物の過去や関係性を明示してキャラクターを固定する方向で作ったつもりだった。もちろん、とは言ってもそこはバランスを取って、完全に固定したわけではない。

 西川にとって、『自慢の息子』のラストは受け入れがたかったようだ。アパートに独立国を作ろうとした息子の国を、隣国(隣家)に迎えられた偽物の息子が地中から支えている。そして、ここに日本とアメリカの関係が成立していると読み取る。その図式的な絵に取り込まれた母がいて「私、今どこにいるの?」と尋ねるとガイドがこう答える。「どこにでもいますよ」と。どこかで象徴として結晶化するように見えた現実層と寓話層の間をさまよう主体は最後まで居場所がわからずに、オルゴールの一部であるかのように動かされて終わる。

 僕は日本とアメリカの関係を読み取っている西川の視点をとても興味深く読んだ。「自慢の息子」の王の権力はいつの間にか隣国の王に掠め取られていてもはや無力だ。その植民地的安定の中で主体性を伴わない国民たちがとりあえず現状肯定をしながら生きているさまが浮かび上がる。
 僕はこのような日本とアメリカの関係を明示していないが、自分の世界観にこびりついているいくつかの実感と一致している。ただ、隣国に迎えられた偽物の息子はもうすでに殺されていて、そのセミの抜け殻のような服を身にまとった妹(偽物の息子は彼女の兄でもある)の妄想のようにも取れるように描いたつもりもある。だから、アメリカと日本という図式はどこか「本質」的に捉えすぎていないかという疑問が残る。つまり、俳優や空間の「存在」を無視していないかと思った。

 僕のラストシーンのイメージは、幾つかのデタラメのような本当のような話が重なって、非整合的な、辻褄の合わない神話のようなものを形成しているというものだ。その中に組み込まれてしまった登場人物たちは、自覚なく誰かの「物語」を演じてしまっている。自分のものか他人のものかを判断する基準はない。ガラクタを集めた間に合わせのオルゴール人形のように動き続けて朽ちていく、というような。もちろん、僕自身による強引な図式化であるのは間違いない。しかも、先述したように、登場人物たちの過去や関係性を明示したために、「主体性なき主体」を別の方法(例えば具体的な生活のシーン等)で表現する可能性があったことも否めない。しかし、僕としては、「主体性なき主体」の次の課題としてとっておくつもりだ。

おわりに

 やはり、自作品について書くのは難しい。どうやったって批評にはならないし、蛇足感を拭えない。だから、何だか歯切れの悪い、だらだらしたものになってしまった。でもこれは書いておきたかった。何故ならワンダーランドに寄せられた劇評がどれも面白かったからだ。まるで新しい「物語」に触れた感じもした。それを早くさらに別の「物語」に展開させてみたかった。もちろん、次の作品を作るためにも役立てたい。また、何より、これらの文章をまとめて読む人の中で、いろんなイメージが乱反射してくれたらいいとも思う。
 次の作品がまだどうなるかはわからないが、各人が「実存が本質を裏切る(意訳:現実は言葉では簡単につかまえられない)」ことを共通認識として持っている中で、何を表現できるかということを考えたい。真っ暗な海にいて、波間に揺れる筏の上で錨を下ろす、空中に壁紙を貼り、人工的な太陽で照らす。そこに、食卓と椅子を置き、家族で朝食を食べて「行ってきます」と言って、外の暗い海に飛び込んでいく。というようなイメージ。何だ、これ、普通の演劇だ。でも、そうかと思う。あまりにも複雑でつかまえ難い現実を少しづつピン止めするように、人工的に立体化するのが演劇の始まりかもしれない。これも蛇足だ。最後に伊藤計劃のエッセイ「人という物語」の最後の言葉で終わりたい。

これがわたし。
これが私というフィクション。
わたしはあなたの身体に宿りたい。
あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。

*ちなみに、このエッセイが載っていた『WALK』という雑誌はものすごくクオリティが高い。雑誌『サンプル』を作りたいと思った理由の一つでもあり、ひそかにバックナンバーを集めている。

【筆者略歴】
松井周(まつい・しゅう)
 1972年東京生まれ。1996年、俳優として劇団青年団に入団。俳優活動と共に劇作・演出家としても活動を始め、2007年、劇団サンプルを立ち上げ、2010年『自慢の息子』が第55回岸田國士戯曲賞を受賞。また小説やエッセイ、TVドラマ脚本などの執筆活動、CMや映画、TVドラマへの出演なども行う。現在、東京藝術大学非常勤講師、映画美学校講師。
次回公演 越後妻有アートトリエンナーレ2012 テスト・サンプル02「キオク REVERSIBLE」(8月24日-26日)
製作過程公開(8月13日-19日)、インスタレーション公開(8月20日-26日)。
開催直前展@渋谷ヒカリエ(6月17日)
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/matsui-shu/

【参考】
・サンプル「女王の器」評/女王の国を駆けぬける男児の悪乗り(前田愛実)
・サンプル「女王の器」評/洗剤、アニメ、錬金術。(山崎健太)
・サンプル「自慢の息子」評/移動する主体が<まなざし>の変容を照らす(西川泰功)


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