◎洗剤、アニメ、錬金術。
山崎健太
「界面、活性!」
このセリフに『女王の器』における企みの全てが込められていると言ってもよい。耳慣れない言葉かも知れぬが、界面とはつまり境界面であり、身近なところでは洗剤に界面活性剤という薬剤が使われている。界面活性剤は水と油の両方に親和性があるため、本来は混ざり合わない水と油にこの界面活性剤を混ぜ込むと「乳化」という現象が起き、両者が均一に混ざり合う。界面活性剤の働きに象徴される、相異なる二つのものの混合というのが『女王の器』の中で繰り返し取り上げられるモチーフのひとつだ。
芝居の冒頭、古屋隆太演じる刑事は自らと二人の元妻についてこのように言う。「一人目はだから、火のような女で、二人目は水のような女だった」「俺が空気みたいな感じだったから。風か? とにかく、最初の妻だと火は燃え上がるし、次のは波風立ちすぎる」「でも三人でいると、いいんだよ。ぴたっと納まる感じでね。もしくは拮抗するっていうのかな、バランスがいいんだ」
ここでは刑事が火と水という相反するものを仲立ちすることで三者が一体となる様が示されている。そして刑事は自らの媒介としての役割を誇示するかのように「界面、活性!」と叫ぶのである。
「空気みたいな」刑事と火と水のような二人の元妻。そしてラストシーンで刑事は新たな恋人を「土のような女」だと紹介する。空気・火・水・土は錬金術における四大元素だ。
そして錬金術とは、たとえば硫黄と水銀のように異なるものを同じ「錬金炉」に投げ入れることで、より高次のもの(たとえば金)を生み出そうとする試みである。様々なレベルにおいて相反するものの一致を試みる『女王の器』という舞台はまさに、「錬金炉」そのものだ。
火と水、男と女、生と死、生物と無生物。様々に相反するものの共存は、舞台を構成する複数の筋の中でもモチーフとして反復される。男として生まれながらも女として育てられた建築家の子。女王として生贄に捧げられる運命から逃れ、「生きてるのに死んでいて、死んでいるのに生きてる」「あいの子」となったイケニエ女。「クイン」と名付けた人形を埋め続け、なぜか最後には自らも人形となってしまうバイトの女。
「女王」という言葉で緩やかに繋がりながらも個別に提示される三つの筋。それらが混然一体となって終幕を迎える舞台の構造もまた、異なるものの共存というモチーフを繰り返す。
異なるものの共存の場となるのは人間の身体だけではない。事物もまた、複数の意味の場として機能している。それが最も顕著なのは、舞台装置としても大きな存在感を放つ白い布である。舞台上に張られた伸縮性のある白い布。周囲の数ヶ所を舞台上方から垂れ下がるワイヤーに引っ張られ、アメーバのような形状だ。
ところどころに隆起や窪みで立体的なカーブを描きつつ、全体としては滑らかでシルクのような質感であるようにも見える。観客はこの真っ白な布の上に、様々な意味を読み取ることになる。
それは砂漠である。あるシーンでは小さなラクダに乗った人の人形が布の上を進んでいく。白い布は広がる砂漠となり、その隆起は旅人の行く手にそびえる砂丘となる。それは避妊具である。舞台上で性行為が描写されるとき、男は白い布を纏う。白い布越しに女に抱きつく男。またその布は粘る精液をも表しているのかもしれない。あるいは処女膜。女王になるための条件は生娘であることだ。行為のあとの乱れたシーツにも見える。
戯曲の言葉に沿って考えるならば界面つまり内と外を隔てる面を抽象的に表したものでもあるのだろう。
そしてその布は、当然のことながら、ただの布でもある。布の上に転がされるボール。白い布に蛍光色のボールは非常に映え、当然ながら観客の目を惹くのだが、そこに演じられている内容との関連を読み取ることは難しい。
観客がそこで知覚するのは、ただただボールの描く軌跡だけである。カラフルなボールによって可視化される布の曲線。それは物体として存在する布の輪郭だ。白い布は砂漠であり避妊具であり精液であり処女膜でありシーツであり界面であり、そしてやはり布である。このように様々な意味の交点、共存の場として布はそこにある。
言葉もまた例外ではない。例えば冒頭に引用した「界面、活性!」というセリフ。前後のセリフから「カイメン」は「界面」であると思われるが、しかし、刑事の卑猥な動きから想起されるのはむしろ「海綿(体)、活性」(=男性器の勃起)であるかもしれない。また、タイトルともなっている「女王」という言葉は、特定の個人ではなく「女王」という概念を表す言葉として使われている。
『女王の器』の世界では「女王」に選ばれた女性はすぐに生贄に捧げられる運命にあり、代々の生贄が全体として「女王」という概念を成していると言ってもよい。小道具のマトリョーシカが象徴し、「女王は一人であって全部であり、全部であって一人だ」というセリフが示すように、「女王」という言葉の中には無数の「女王たち」が入れ込まれている。「全は一、一は全」。
これは荒川弘のマンガ『鋼の錬金術師』のセリフであり、作品の中では「世界という連環の中で生きる個人」あるいは「ミクロコスモス(人体)とマクロコスモス(世界)の照応」を意味するものとして登場する言葉だが、ここにも錬金術との関わりを見出すことができる。
ところで、界面活性剤にはある種の剥離効果がある。相反するものを混合させるその性質とは裏腹の、一体となった層を分離させる性質。その性質は生活の知恵として、貼り付いて取れないシールを剥がすのに利用される。
平面に貼り付いたシールに洗剤を薄く塗ってラップで覆いしばらくすると、表面と一体化していたシールをきれいに剥がすことができるのだ。
『女王の器』でもまた、相反するものの共存と同時に、ひとつのモノに潜む複数の層を分離させることが試みられていた。界面を活性化させ、層を一枚一枚剥いでいくこと。こうして露わになった新たな面が舞台に奇妙な生々しさを与える。
例えば役者。上演中、役者たちは自らの出番以外の時間も常に演技空間の周囲にいて観客の目に入る状態にある。それを見る私たちは、役と役者自身、虚構と現実ということをいつも以上に意識せずにはいられない。
また、真横からの照明はしばしば役者たちのシルエットを壁に映し出す。足元ではなく壁面に映し出される影たちは、役者の身体のあるこの世界とは別の世界に生きているかのようである。さらにいくつかのシーンでは、マイクが使用されることで声が身体から切り離される。舞台上の様々な場所から聞こえる役者の声。身体、役、影、声。役者の身体に統合されるはずのいくつもの層が、舞台上に浮遊し始める。
『女王の器』は人間の身体が、様々な事物が、そして舞台そのものが異なるものの共存の場であり、そこには複数の層が潜んでいることを示して見せた。だが、分離され切り離されたかのようにも思える複数の層たちは、それによって生気を失うのではなく、むしろある種の生々しさを持って私たちに迫ることになる。
「風の音がする。徐々に地面の下を生き物がうごき始める」と記されたラストシーン。舞台を覆う白い布が蠢き、上に乗った机や椅子もまた動き始める。伸び縮みする影。立ち尽くす人。そこでは人間ではなくむしろ事物こそが、たしかな存在感=生気を放ち、脈動していた。
事物に潜む複数の層に光をあて、そこに生気を吹き込むこと。サンプルの手法は、複数のセル画を連続して映し出すことで静止画に動きを与えるアニメのそれに喩えることが出来る。
そもそもアニメーションとはanimate、「命を与える」という動詞の名詞形であり、あるいはアニメと語源を同じくするアニミズムはあらゆるモノに霊魂が宿るという信仰であった。錬金術もまた、無生物からより高次のもの=生命を生み出す術を探求する側面を持つ。
錬金術の炉としての『女王の器』が舞台上に生み出そうと試みたのは、まさに生命そのものであったのだ。私たちはモノとしての「舞台そのもの」が生々しく動き出す様を目撃する。
SF作家エドモンド・ハミルトンに「異境の大地」という短編がある。この作品で描かれるのは植物の時間だ。インドシナの奥地で行われている秘儀。この儀式に参加し、ハナチと呼ばれる液体を飲んだ人間は限りなく植物に近い存在となる。
何百年と生きる植物の時間の尺度の下では、人間の営みなどは一瞬にも等しい。逆に植物の時間を得た人間にとって、植物はごく「普通の」速さで動き回る同胞となる。次々と領土を広げ、奪い、熾烈な生存競争を繰り広げる植物たち。
人間の時間を生きる我々がその世界を覗くことは難しい。植物を撮影した映像を早回しにすることでかろうじてその様子を推し量ることができるのみだ。
『女王の器』のラストシーン。頭上に高く伸びたウィッグとともに「ほぼ樹木のような姿で立っている」女。そしてその周囲で蠢く事物たち。「亡命者」の名を持つ彼女はその名の通り、人間としての時間を失い、事物たちの時間に飲み込まれていくように見える。
そこにあるのはまさに、「異境の大地」で描かれたような、我々には不可知であったはずの時間なのではないだろうか。かつてカメラによってそこにある未知が捉えられたように、演劇もまた、そこにある未知を暴き出す装置なのだ。
松井周は『自慢の息子』のあとがきで演劇の空間を「虚構と現実を橋渡しする『間』」であり、「間」を共有することで「私たちは同じようで違うなあとか、違うようで同じだとかを肌で感じられる」、それこそが「演劇の希望」であると述べている。
この「間」というテーマはそのまま「界面」という形で『女王の器』に引き継がれる。「間」としての演劇を媒介に劇場で行われる錬金術。そこで活性化されるものもまた「界面=間」である。
私たちは異なるものと出会うことから始めなければならない。異なるものが出会うその境界にこそ、新たな時間/空間/人間の「間」が開くのだろう。
*エドモンド・ハミルトン「異境の大地」は創元SF文庫『反対進化』収録。
【筆者略歴】
山崎健太(やまざき・けんた)
1983年東京生まれ、早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系幻影論ゼミ1期卒業生。現在、同大学院文学研究科表象・メディア論コース所属。演劇研究。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ya/yamazaki-kenta/
【上演記録】
サンプル「女王の器」
川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(2012年2月17日-26日)
作・演出:松井 周
出演:古舘寛治、古屋隆太、奥田洋平(以上、サンプル・青年団)、野津あおい(サンプル)、岩瀬亮、羽場睦子、稲継美保、川面千晶、菊池明明、とみやまあゆみ、師岡広明
舞台監督:谷澤拓巳
舞台美術:杉山至+鴉屋
照明:木藤歩
音響:牛川紀政
音響:林あきの
衣装:小松陽佳留(une chrysantheme)
演出助手:郷淳子
ドラマターグ:野村政之
英語字幕:門田美和
WEB:マッキー
宣伝写真:momoko matsumoto(BEAM×10 inc.)
フライヤーデザイン:京 (kyo.designworks)
制作:三好佐智子(quinada)、冨永直子、小島寛大(川崎市アートセンター)、高橋マミ(川崎市アートセンター)
チケット料金(全席自由・日時指定・税込):
一般:3,500円
ユース(27歳以下):3,000円
高校生以下:2,000円
※ユース、高校生以下は公演当日に要証明書提示。
主催:サンプル/quinada/川崎市アートセンター
協賛:株式会社資生堂
助成:公益財団法人セゾン文化財団
協力:青年団、レトル、M★A★S★H、キューブ、ナイロン100℃、至福団、にしすがも創造舎
後援:「しんゆり・芸術のまちづくり」フォーラム
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