◎「チェーホフの『桜の園』について」(宇野重吉著、麦秋社)
都留由子
劇団民藝の俳優で演出家だった宇野重吉が、チェーホフの『桜の園』を演出した際の上演台本と演出ノートを整理して出版したのがこの「チェーホフの『桜の園』について」である。注釈は不要だろうが、劇団民藝といえば新劇の老舗、宇野重吉といえば、1988年に亡くなるまで、滝沢修と並んでその民藝の重鎮だった人である。
1978年に出版され、そのときに読んだ。当時、話題になったのだと思うが、それはあまり覚えていない。ただ、読んでびっくりしたことだけはよく覚えている。あまりにびっくりしたので、その後、学校を卒業し、身辺の変化と何回かの引越しを経てなお、この本は手元にあるほどである。
この本のごく最初の部分で、宇野は書いている。
その通り、宇野は「逆撫で」の上にも「逆撫で」をくり返す。例えば『桜の園』の冒頭。ロシアの没落途上の大地主ラネーフスカヤ夫人の屋敷。幕が開くと誰もいない。パリから帰宅する夫人の到着を待っていた、もとは農奴で今は羽振りのいいロパーヒンと、この屋敷の小間使いドゥニャーシャが入ってくる。
ロパーヒン やれやれ、やっと汽車が着いたか。何時だね?
ドゥニャーシャ 二時になるところ。(蝋燭の灯を吹き消す)もう明るいもの。
このたった3行から、宇野は、ロパーヒンがドゥニャーシャにどのくらい遅れて入って来るのか、登場するまでの二人はどこで何をしていたか、ロパーヒンの持つ本がどんな本か、彼はどうやって汽車が着いたことを知ったのか、ドゥニャーシャがそっけなく「二時になるところ」と答えるのはなぜか、など、片っ端から疑問を持つ。
そして、続く戯曲の全てを同様に「逆撫で」し、呆れるほどの粘り強さで答えを明らかにしていくのだ。戯曲の中から。チェーホフの書いた手紙から。チェーホフに届いた手紙から。初演に出演した俳優の言葉から。もともとのロシア語の意味から。研究者の書いた書物から。日本ではどうしても分からない言葉があるからと単身モスクワまで行きさえする。パソコンもメールもなく、今のロシアがまだソヴィエト連邦だった35年以上も昔に。
ただの芝居好きの学生で、作品を作る現場など全く知らなかった私には、幕が開くまでにこんな大変なことが行われているなど、思いもよらなかった。戯曲はここまで読めるのか。「眼光紙背に徹す」とはこのことだろう。自分が何の疑問も持たずに、ただつるつると戯曲を読んでいたことにも気づいて、自分の目の節穴っぷりにも大いにびっくりしたのは言うまでもない。
宇野は「逆撫で」をくり返して、登場人物の興奮を、行き違う恋を、愚かさや身持ちの悪さを、「間」の意味を、しゃがれ声の理由を、台詞のあとの「…」を、「笑う」の笑い方を、そして、初演時に、チェーホフからロパーヒン役にと希望されたスタニスラフスキーがなぜこの主要な役をやらなかったかまで、次々に説明していく。ひとつひとつ丹念に根拠を明らかにし、理詰めで解き明かす、その鮮やかな手際と説得力は、推理小説顔負けである。宇野重吉が探偵だったら、殺人現場に残されたどんな微かな手がかりも決して見逃さず、確実に犯人を追い詰めていったに違いない。そして、おお!舞台の上で起きることには、小さな身振りや咳払いにさえ、みんなきちんと理由があり、互いに影響し合って事態が動き、物語は進んでいくではないか!
宇野の「逆撫で」によって示された物語の見事さといったら組み上げられたパズルのよう。小説や戯曲を読んだことはあっても、その組み立てをこんなふうに示すものを読んだことのなかった私には、驚きの1冊だった。
ただし、この本はとても面白いけれど、演出ノートとして役に立つのかどうかは分からない。このように緻密な構想や意図を持っても、それが舞台の上で俳優によって実現されなければ、観客には伝わらないからだ。
私はこの本を読む前に、宇野が演出した、つまり、この演出ノートが使われた1974年の『桜の園』を、客席で見ていた。本を読んだ後に思い出してみると、自分の眼の節穴であることを棚に上げて言うのは本当に気が引けるのだが、ここで述べられていることが全て舞台の上で行われていたかというと、少なくとも私には、全て行われていたようには思えなかった。『桜の園』は、当時高校生だった私にはとても面白かったけれど、それは宇野が目指したのとは違うふうに面白かったのだ。
この本にこんなに感激した私は、しかし、その後、S・ベケットやH・ピンターや別役実などの戯曲を読んだり、上演を見たりするようになって、「逆撫で」のしようがないお芝居があることを知り、それを面白いと思うようになった。世の中も人生も、原因があって結果があり、つじつまが合っているように漠然と思っているけれど、よく考えてみれば、自分が何者であるかさえ本当には分からない。あてもなくゴドーを待っている方が人生の真実に近いのではないか、などと生意気にも思っていたように思う。
そして、だけど、34年もたって、「忘れられない1冊」を考えたとき、私はこの本を読み返したくなった。理由のよく分からないことばかりに囲まれて、気合を入れて一所懸命見ていないと、何が起きているのかも、どういう意味なのかも見失ってしまう(と私には思える)今、筋道が立って、きちんと整理され、理由も意味もちゃんとわかる世界を示してくれたこの本を思い出したのかもしれない。ラネーフスカヤ夫人の桜の園のように、懐かしくて美しい、でも、もう戻れない世界だからというのは、あまりに感傷的に過ぎるだろうが、そういうことでなくても、宇野重吉の「逆撫で」の手つきを知るのは、古本屋で探しても一読の価値があるとやっぱり思う。
[編注]
宇野重吉著「チェーホフの『桜の園』について」(麦秋社、1978年)は現在絶版。図書館で借り出すか、古書市場で入手可能。amazonでも古書を販売しています。
【筆者略歴】
都留由子(つる・ゆうこ)
阪神間で育ったので、幼稚園のころ宝塚歌劇を見たのが舞台との出会い。身軽に芝居を見に行けなかった子育て期に、子ども向けのお芝居の面白さを発見した。ワンダーランド編集部の新参者。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ta/tsuru-yuko/
懐かしい本が取り上げられました。熱心な読者ではなく、都留さんのように感激もせず、しかし持っているだけで嬉しくなる本でした。装丁がいいのです。どこにあるか今はすぐ見つからないけど、確かこの本に触発されて、チャーホフの翻訳家でもある池田健太郎さんは『「かもめ」評釈』を書き、教育の世界でも、都立大の坂本忠芳さんが「教育記録論」を書いた。すごい本だと思い、まだ手放さずにいますよ。まだ見つからない。