◎女王の国を駆けぬける男児の悪乗り
前田愛実
サンプルはごく初期から見続けている劇団だが、登場人物の造形や戯曲の構造に感心はしても、とうてい理解したり、まして共感などできるものではないと思っていた。
松井周の処女作にあたる『通過』では、性器を事故で失った男性とその家族が、怪しい宗教に家をのっとられていく蟻地獄的な顛末にぞっとし、『カロリーの消費』では痴呆症の老人に介護士が性器マッサージするエピソードに、叫びだしそうな嫌悪感を覚えた。よくもこんなに悪趣味なことを思いつけるなとむしろ感心したし、それら鬼畜な内容は、青年団所属俳優たちによる清潔な演技とのギャップで、壮絶な後味の悪さをかもしたものだ。
ところが、ところがといっていい、今回の『女王の器』では、初めてサンプルの上演に共感してしまった。
もちろん感動した作品はこれまでにもある。今回の『女王の器』がB面ならば、さながらA面といった感じの、2011年岸田戯曲賞受賞作『自慢の息子』もしかり、同時期に蜷川幸雄演出、埼玉ゴールドシアターによって上演された『聖地』では暗転の闇にまぎれて涙をぬぐったものだ。だが、ひとごとでなく自分自身にガッツリ食い込んでくる感覚はことサンプルに限っては今回が初めてだった。
考えてみれば、初期のサンプル作品に対する違和感の根源は、ひとえに自分が男ではない、という一点につきたのかもしれない。
松井は子供の頃、男児同士でおちんちんを突き合わせて面白がっていたそうだ。4-5歳児はうんちやおちんちんといった下ネタを、気がふれたかと思うほどに連呼して笑い続けることがあるが、松井のこの遊びもその範疇にあり、誰もが経験する成長過程の活用形だろう。だからちょっと変態気味だけど心配する必要はない。
ただおちんちん的なことをいえば、自分のパーツをアビューズする、例えば自分の股間に象の絵を書いたり、ぶるぶる振りまわすなどして、自己の一部を対象化して面白がる、という自虐的で暴れん坊な感覚は女児にはあまりない。
女である私がサンプルのいわば男児的“悪乗り”、乱暴な感性について行けない理由は、そのあたりにあった気がしている。以来、サンプルに対して一定の距離を置いた心地で対することができるようになった。露悪さが男児の子供っぽい悪乗りの延長であるならば理解はできる。微笑ましいというほどのんきなものではないにしろ、役者の達者さも手伝って、変態っぽい残虐さもユーモラスなものとして許容しつつ鑑賞できるようになった。
さて、ならば今回の『女王の器』は何だったのだろうか。本作品は、選ばれた純潔な乙女が、4年間女王として在位し、手厚く遇されたあと処刑される、というある国家の酷い制度をベースに展開する。
ある時、百何代目かの女王は男にそそのかされ、母親を身代りに失踪、国の門番や先代の女王の孫を引き連れて制度の改革、革命を唱え、その布教の旅にでる。並行して、巨大な女王の石像をつくっている建築家と妻、母親に女装させられ女として育てられている建築家の息子という家族が登場する。
また、別時空の、現代の日本らしき場所での話として、不倫をしている女と不倫相手の刑事、そしてその女の失った人形のエピソードなどが挿入され、複数の物語がからみあいながら展開していく。
中盤、王国と現代はクインと名付けられた人形によって繋がることがわかる。現代に属する不倫中の女が、幼少時、両親から与えられた人形を次々に埋葬して葬式ごっこをしていたが、クインと呼び、一番大事にしていた最後の人形が盗まれたまま見つからないのだという。女は不倫相手の刑事に人形の捜索を訴える。この最後の人形こそが生贄にされるはずだった女王だということなのだろう。
王国と現代が交錯するとき、この不倫する女は自分の人形のかわりに建築家親子の手によって女王像へと変貌を遂げさせられる。
この石像への女の変身が見事にふるっている。
トイレットペーパーがまるで亀甲縛りのようにぐるぐるとまかれ、顔や首、肩などにペタペタと赤い傷口のようなものが貼られていく。やがてそれが乳首であることがわかると、たくさんの乳首がついた様子は「多数の乳房を持つ豊穣の女神」として知られるエペソスのアルテミス像を思わせる。
背中につっこまれたマネキンの足は両肩から突き出し、網タイツやブラジャーっぽいもの、ぬいぐるみなど、様々なフェティッシュなモノをくっつけられた女王像は、女の象徴を過剰に上乗せして常ならぬ存在へと転身、最後に口に魚肉ソーセージが突っ込まれる。
敬うべき女王の像としてはあまりな造形である。どす黒いきゃりーぱみゅぱみゅと言ってよいだろうか、加えてサディスティックなテイストが大盛りに添えられている。しかし当の建築家たちは嬉々として作業に集中し、その出来栄えにご満悦のようだ。できあがった女王像はもはや人の形でさえなく、局部が集積したばけものだ。
不倫相手によって、そして自らも見られることで性的に消費されることを望み(冒頭の刑事との対峙において、自分でシャツに水をかけ、下着を透けさせて見せつける場面がある)、性的対象におとしめられた女が、文字通り自分がかつて所有した人形、クインへとなりかわるのである。
ところで天高く屹立する巨大な女王像(腋毛が太いロープサイズ)は、女の形をしていながら男がありがたがる相当にファリックなものではないだろうか。
途中、不倫する女とのからみで、髪をウィッグでどんどんと“盛って”いく現代っ子らしきギャルが登場する。うずたかく“盛ら”れるギャルの髪は、終盤タワーのようにそびえたって女王像との相似形をかたどる。現在のギャルが模しているのはこの女王像だ、ということだろうか。
人工的に盛られた女らしさがいびつな姿をあらわすとき、“らしさ”は増幅して変貌しペニスの近似値となる。
では何が男たちを女王像づくりに駆り立てるのだろうか。
王国では、男性人口が減少しており、男性は絶滅危惧種として家族とともに特別保護区に囲いこまれている。受精はとうの昔に機械仕掛けになっており、人口減少の問題は起こっていないようだ。
人々は乱暴な男児の出生を怖れているから、建築家の息子も女として育てられる。つまりこの国では“男”なるもの自体が絶滅の途にあり、男たちは女らしさのシンボルを積み上げることで、自らのセクシャリティを満たし、男性性喪失に対する無意識化の不安と闘い、自らの存在意義をかろうじて支えているのだろう。
なるほど、ならば女王像の造形に見られる男たちの局部への異常な執着は興味深い。赤ん坊は成長の過程において、食事すなはちおっぱい、すなはち母という、母=食べ物という認識から、“おっぱいをもった母”へと移行し、徐々に母親を人格を持った全体像として把握する。
こう考えると、おっぱいに代表されるフェティッシュな局部を集積してできた女王像は、女性を一つの人格として統合的に認知できない、極めて幼い女性性に対する憧憬が形になったもの、男たちのファンタジーだ。無邪気に女王像の建設にうちこむ男たちの姿は、子供たちの積木遊びにも似てみえる。
では、石像化する女の側から考えればどうか。
もちろん、自己をおっぱいという食糧かつ断片的なモノに落とし我が子を育てる犠牲的な母性は、子供の健全な成長には必要なものだ。しかし、育ちきった男が女の部位をモノ化すれば、彼女は人ではなく人形となる。
途中、逃亡中の女王が「子供がほしい」とつぶやく。人形となって処刑されることをなりゆきながら拒んだ彼女にも、子供がほしい、母乳をあげたい、「おっぱいというモノになりましょう」という感覚がある。
この対象化されたいというあやうい欲望は、母性とせめぎあい、ときどきセクシャリティともすり替わり、くるくると変貌しながら、女の中に矛盾しつつ、引き裂かれながら存在している。女は対象化されたいという欲望を時々持つことがある生き物なのだろう(個人差はあるけど)。母になるということは自身の身体を子供に与えることだ。
一方この不倫する女は男に愛されようとしたとき、対象として所有されたいと願い、そのあまりに自らのファンタジーにからめとられ、人形となってしまったのではないだろうか。
女王の器とは、女王としての器量をさしているが、もちろん器としての身体をも意味しているのだろう。伊勢神宮の式年遷宮が、一説として、その実体である神性を保つために殿舎を新しくすると憶測されるように、王国では女王という容器を4年に一度新しくし、人柱として捧げることで、国家という中身に命をやどらせ続ける。犠牲になる女王の身体がすなはち国家の器であり、その身体一つ一つが杭となって国家の輪郭を規定している。
ここでふと思う。残酷な女王制をしくこの王国は、不倫する女がかつて所有し、次々に葬った人形たちの国の出来事、転じて女の頭の中にわいて出たファンタジーだと割り切ってよいだろうか。王国の女神像は男たちのファンタジーだと割り切ってよいのだろうか。
カーテンコール直前、うずたかく天井にまでたちのぼるギャルの頭は、王国と現代の相似形を示し、王国の女王像が我々の頭上にもあることを見せつけて、見る者を安堵させてはくれない。そのふらふらと安定しない様子に、私たちは、男も女も既存の男女の在り方にゆきづまっているのではないかと感じた。
最後に、適材適所の俳優の厚みに極めて強く感銘を受けた。
今やサンプルの看板女優になりつつある、なんとなくなんだか可愛い野津あおいの、危機一髪なのにのんきな女王。うまくて当たり前、気持ち悪さが冴えわたる建築家、古舘寛治と刑事役の古屋隆太。サイケなミニワンピの女装姿で、絶滅危惧種のたそがれをにじませた建築家の息子役の奥田洋平。
サンプルの裏看板、羽場睦子が演じた女王の母は、自らを子供の犠牲とすることをいとわない昭和の母を連想させた。師岡広明演ずる女王の孫は、弛緩した風貌の中にするどい目つきがアンバランスで存在があやうい、危ない。細くてうすい体で門を守る菊池明明のぴょこぴょこする門番歩きは、おもしろ可愛くてヤバすぎた。蛇足ながら、女性の門番は女王の処女性を示唆しているのだろう。
ほか私にとっては新顔の3人の女優もそれぞれにとても大変によかった。細部のうまさはとりあげるときりがないほどだ。そしてそこからの連想も自己増幅して新しい意味を与えようと次々におそってくる。優れた俳優たちの好演と相まって、松井の男児的悪乗りが今回も緻密に暴走していたと思う。
【筆者略歴】
前田愛実(まえだ・まなみ)
英国ランカスター大学演劇学科修士課程修了。早稲田大学演劇博物館助手を経て、現在はたまに踊る演劇ライターとして、小劇場などの現代演劇とコンテンポラリーダンスを中心に雑誌やwebなどに執筆。ダンス企画おやつテーブルを主宰し、20代~60代の階段状、歳の差メンバーたちと活動。
【上演記録】
サンプル「女王の器」
川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(2012年2月17日-26日)
作・演出:松井 周
出演:古舘寛治、古屋隆太、奥田洋平(以上、サンプル・青年団)、野津あおい(サンプル)、岩瀬亮、羽場睦子、稲継美保、川面千晶、菊池明明、とみやまあゆみ、師岡広明
舞台監督:谷澤拓巳
舞台美術:杉山至+鴉屋
照明:木藤歩
音響:牛川紀政
音響:林あきの
衣装:小松陽佳留(une chrysantheme)
演出助手:郷淳子
ドラマターグ:野村政之
英語字幕:門田美和
WEB:マッキー
宣伝写真:momoko matsumoto(BEAM×10 inc.)
フライヤーデザイン:京 (kyo.designworks)
制作:三好佐智子(quinada)、冨永直子、小島寛大(川崎市アートセンター)、高橋マミ(川崎市アートセンター)
チケット料金(全席自由・日時指定・税込):
一般:3,500円
ユース(27歳以下):3,000円
高校生以下:2,000円
※ユース、高校生以下は公演当日に要証明書提示。
主催:サンプル/quinada/川崎市アートセンター
協賛:株式会社資生堂
助成:公益財団法人セゾン文化財団
協力:青年団、レトル、M★A★S★H、キューブ、ナイロン100℃、至福団、にしすがも創造舎
後援:「しんゆり・芸術のまちづくり」フォーラム
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