die pratze 「授業」フェスティバル

◎イヨネスコの不条理劇はどう料理されたか?(下)
 芦沢みどり

「授業」フェスティバルのチラシ
「授業」フェスティバルのチラシ

 さて。マガジン294号に掲載された()の続きである。
 前回の文章を読み返してみたところ、実験演劇集団「風蝕異人街」の舞台の記述が言葉足らずだったことに気づいた。このグループはフェスティバルで唯一、テキストのハーケンクロイツのくだりを復活させていた。それについて「どうせなら大日本帝国軍人でやってくれたらよかった」と書いた。そのあとに、「そうすれば日本の加害の歴史が見えてきたはずだ」と補足しておきたい。

 しつこいようだがもう一度ハーケンクロイツに話を戻す。教授が女生徒を殺す理由について、解釈がなぜ違ってくるかを考えると、私見ではハーケンクロイツのくだりをどう読むかが鍵になる。この芝居にナチスの表象は必要ないと考えるか、戯曲が書かれた時代背景を重視するか。もし後者なら、ナチスの表象と性暴力は鋭利な刃物のような政治性を帯びてくる。男性による性暴力とナチスの大量殺人は、圧倒的な支配力で対象を凌辱するという点で、それが個人であれ集団であれ、人間をモノ扱いするきわめて非人間的な行為だからだ。

 教授の性暴力をストレートに表現した舞台の例として、ここに2007年のモルドヴァの劇団による『授業』来日公演を参照項として挙げておきたい。じつは筆者はこの舞台を見逃しているが、さいわい2007年9月12日付週刊マガジン・ワンダーランドに片山幹生氏が「ウジェーヌ・イヨネスコ劇場『授業』」という劇評を寄せているので、必要な部分を引用させていただくことにする。

 この舞台の女生徒殺害場面を片山氏は、「…言語的倒錯に伴ってエスカレートしていく破壊衝動の表現が実に生々しく激しい。教師は自分のことばが発する熱に浮かされるように踊り狂い、服を脱ぎ、バケツに入っていた水をまき散らす。女子学生の胸をはだけ、豊満な乳房を露わにしてもみしだき、ナイフをちらつかせ、最終的にはナイフを女子生徒に突き立てる」と書いている。

 モルドヴァは1991年のソビエト崩壊後に共和国として独立したが、それ以前からくすぶっていた内紛が内戦に発展して数千人の死者を出した。暴力の記憶も生々しい国の舞台と、70年近くいちおうの平和を保っている国の舞台を単純には比較できないし、しても意味がない。ただここで指摘しておきたいのは、イヨネスコの不条理劇は身体の痛みを伴っていて、それはテキストにちゃんと書かれているということだ。

 身体の痛みということで言えば、イヨネスコに限らず不条理劇ってみんなそれを持っているものじゃないの?と思う。不条理という観念用語が邪魔をして実感しにくいなら、不条理の<absurde>(仏語。英語はabsurd)を<馬鹿馬鹿しい>と訳せばいい。イヨネスコ、ベケット、アダモフ。不条理劇の代表的劇作家と称される人たちの作品に共通しているのは、消えてしまいたくなるほどの人間存在そのものへの疑いと痛みの感覚だ。イヨネスコはルーマニア、ベケットはアイルランド、アダモフはロシアの僻地(両親はアルメニア人)の出身で、それぞれが人生のある時期パリへ流れ着いてフランス語で<馬鹿馬鹿しい>戯曲を書いた。これは単なる偶然というより歴史的必然だろう。イヨネスコは『授業』が上演された時、観客が笑うとは思っていなかったと『ノート・反ノート:演劇論集』(白水社)に書いている。人間であることの恐ろしさ、おぞましさを知ってしまった作家たちが、戦後、もはや旧態然の芝居では人間を描くことはできないと考えて書いた戯曲を、観客は馬鹿馬鹿しいと思って大笑いした。それが不条理劇だというのが筆者の、少なくともフランスに限定しての不条理劇観である。

 この文脈で、フェスティバルで『授業』はどう料理されたかを振り返ると、原作との接続/断絶といった言葉が浮かんで来る。原作への意志と言い換えてもいい。

 Super Stream Throughの『授業』は男2人女1人のダンスから始まる。ストリート系ダンスがしばらく続いたあと、ガタイのいい男性一人が舞台に残って少女が着るような夏のワンピースに着替え、椅子に腰かける。それが『授業』の始まりの合図だった。女生徒役のワンピース男は脱力した感じで長い間椅子にだらしなく座っているが、やがて立ち上がり、気乗りしないまま教授宅のドアベルを押す。すると女中役の女性ダンサーが現れて応対し、教授を呼びに行く。教授はド派手なタイツの上に黒いジャケットを着て出て来る。教授の動きが面白い。たとえば手をこすり合わせるというテキストのト書きの指示を、彼はダンスの動きに変換させ、前かがみになって手をこすり合わせる。これを執拗に繰り返す様子を見ていると、ある種の昆虫の前脚の動きに見えて来る。このようにテキストのセリフやト書きを、文脈と切り離したところで身体表現に置き換えて行くパフォーマンスが展開されたあと、教授による生徒殺害の場面になる―というか、生徒は教授に自殺するようそそのかされたように見える。教授が生徒の足首に吊り具の付いた輪をはめると、生徒は一人で脚立に登り、舞台脇の構築物に吊り具を引っかけて自分で逆さ吊りになるからだ。

Super Stream Throughの「授業」から
【写真は、Super Stream Throughの舞台から。 撮影=前澤秀登 提供=die pratze 禁無断転載】

 ここでは生徒役のパフォーマーの、デカいばかりで身の置き所がないような身体が、今の日本のどうしようもない状況を体現しているとも取れる。だから勝手に宙吊りになって死んでろ!なのか?ダンス・パフォーマンスとしての面白さは十分にあったが、『授業』を料理したというよりはテキストからヒントを得たパフォーマンスだった。そう思って観れば、楽しい舞台には違いない。

 『永久個人』は総勢10人のパフォーマーによる異色の舞台だ。舞台下手奥に横長のテーブルが置かれ、そこにメード喫茶から抜け出て来たような女中役の女の子と、女性シンガーが並んで立っている。彼女の前のテーブルには弦楽器(名前は知らない。弦が数本しかないようなごく単純な楽器)が置かれている。舞台に目を移すと、白いテープで囲われた床の上にパイプ椅子3脚が倒れ、衣類が散乱している。舞台前方の柱に点滴用具が括りつけられ、下に造花がある。上手奥の椅子に座った男が薄暗がりの中で台本を読み始めるが、曖昧模糊とした発声法は言葉がかろうじて日本語らしいと分かるだけで、それがイヨネスコのテキストかどうか分からない。後で配役表を読んだら、彼は僧侶役であり台本への批評文を読んでいたことが分かった。やがて舞台奥のシンガーが弦楽器を弾きながら歌い始めるが、その声に度肝を抜かれた。歌には違いないが、時々叫び声を入れながら歌う歌唱法は、これまでに聴いたことがない種類のもので、耳に快くもないかわり不快でもなく、オリジナルとしか形容できない。彼女の歌声にびっくりして気を取られていると、5人の女性が下手舞台奥から出て来る。着衣が乱れ胸も露わな5人は、所狭しと、もともと狭い舞台を狂ったように動き回り、寝転がる。小道具に点滴用具があるので、精神病院の光景にも見えて来る。最後に客席から中年の俳優が出て来て、イヨネスコの『授業』の台本を読み始めると、とたんに舞台はしらけムードになり、パフォーマンスは唐突に終わる。

永久個人の「授業」から
【写真は、永久個人の舞台から。 撮影=前澤秀登 提供=die pratze 禁無断転載】

 これは『授業』との断絶/接続以前に、テキストそのものを否定した舞台だ。<料理する>という言葉には相手をねじ伏せるという意味もあるから、イヨネスコをねじ伏せることを意図したのだろうか。にしても最後に教授役と思われる男性が、舞台を終了させてしまう支配力を持って現れた時、『授業』の異化というよりは舞台裏の力関係が露呈したように見えた。それは筆者の錯覚だろうか。

 双身機関(名古屋)の舞台は、断絶しつつ接続しようとしていたと思う。あるいはその逆か。照明が入ると下手奥に男が客席を背に向けて寝転がっているのが見える。やがて下手奥から若い女が出て来るが、極度に緊張しているらしく動きがぎこちない。青白く見える顔は薄い白塗りだ。中年の女中が出て来て応対する。(セリフを話すのは彼女一人だけで、顔を白塗りしていないのも彼女だけ)。やがて教授役の若い男が白シャツに黒っぽいスーツ姿で出て来ると、ラヴェルの「ボレロ」が聴こえ始める。彼は椅子に身を硬くして座っている生徒の前で踊り始める。女中がやって来て彼を止めようとするが、若い教授の踊りは激しさを増すばかり。音楽もそれに合わせて音量が上がって行く。教授が生徒を刺し殺すクライマックスにさしかかった時、それまで舞台奥で横たわっていた男が起き上がり、生徒に掴みかかって刺し殺してしまう。

双身機関の「授業」から
【写真は、双身機関の舞台から。撮影=田中英世 提供=die pratze
禁無断転載】

 この舞台で踊り手は、イヨネスコのテキストをパントマイム的になぞるのではなく、つかず離れず抽象化した動きでテキストを追って行く。最初から最後まで聴こえている「ボレロ」の単調なメロディーとリズムの陶酔感が、教授の熱狂と共振する。生徒を刺し殺す時に人が入れ代わるのは、もう一人の人格が手を下すという意味なのか。日本人は性欲・暴力をストレートに表現するのは得手ではないが、この舞台はクライマックスを生徒殺害に持って行くことで、それを暗示していたと思う。暴力を告発するというよりは、人間の性の哀しみの表現ではあったけれど。

 テキストと四つに組んで独自の『授業』を創出したのが長掘博物館◎プロデュースの舞台だった。接続/断絶で言えばそのどちらでもなく、むしろ原作を超えて行こうとする意志を感じさせる力強さがあった。舞台を左右2つに分け、左右まったく同じテーブルと椅子を置いて芝居は始まる。教授役は一人だが生徒は二人。二人とも白に近いベージュのシンプルな衣裳を着て、見た目はいかにも弱々しい。教授役は黒っぽいシャツとズボンの大きな体躯の俳優で、粗野ではないが内に暴力を秘めた凄みがある。まず下手のセクションで生徒が歯痛を訴えるところから芝居が始まる。セリフの発声は明晰。弱々しく見えた女生徒が意外と強く、歯痛を訴えるセリフが自己主張に聞こえてくる。同じことが教授にも言えて、支離滅裂な言語学の自説の開陳が、堂々とした学説の発表のように聞こえる。途中で演技空間が上手に移り、もう一人の女生徒が教授宅へ授業を受けに来る所から始まる。セリフが前半と重なる部分があり、この場所では同じことが繰り返されていることが暗示される。無機的な装置と落とした照明が俳優たちの演技と相俟って、女生徒殺害が組織暴力のように感じられる。ハーケンクロイツを出さなくても国家暴力は表現できるのだ。

長掘博物館◎プロデュースの「授業」から
【写真は、長掘博物館◎プロデュースの舞台から。 撮影=前澤秀登 提供=die pratze 禁無断転載】

 ただ一つよく分からなかったのは、ナイフをカッコーと言い換えた箇所だ。ナイフと訳されているフランス語のcouteauが、coucou(仏語でカッコー)と音が似ているため、原作では教授がcouteau をcoucouと言い間違える。coucouには鳩時計の意味もあるので、言い間違えたのか生徒を馬鹿にしてわざと言ったのかは分からないが、いずれにせよ間の抜けた音ではある。だが日本語のナイフという訳語をカッコーに置き換えても原作のおかしさは伝わって来ないと思うが、どうだろう。

 以上が筆者なりの「授業」フェスティバル総括である。参加団体全ての作品に言及できなかったのは、筆者にその力量と気力がなかっただけのことだ。参加団体の中には「利賀演出家コンクール」で賞を得たグループもあったが、(上)にも書いたように筆者はどの集団の作品も初めてで、初めて出会う新鮮さを大事にしたので、あえて受賞歴については触れなかった。

 最後に。神楽坂die pratzeが閉鎖されてもこうした企画は続けて行くという企画者たちにエールを送りたいと思う。

【筆者略歴】
芦沢みどり(あしざわ・みどり)
 1945年、天津(中国)生まれ。演劇集団円所属。戯曲翻訳。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ashizawa-midori/

【上演記録】
ウジェーヌ・イヨネスコ「授業」フェスティバル-如何に「授業」を料理するか?
神楽坂die pratze(ディ・プラッツ)
4月27日(金)-29日(日) 千賀ゆう子企画+双身機関(名古屋)
5月1日(火)-2日(水) Super Steam Through+劇団つばめ組
5月4日(金)-6日(日) crossroad project/交差点企画(茨城)+サイマル演劇団
5月8日(火)&9日(水) 一徳会/KAG(千葉)+『永久個人』
5月11日(金)-13日(日) 実験演劇集団「風蝕異人街」(札幌)+長堀博物館◎プロデュース

スタッフ
舞台監督/佐藤一茂、田中新一
音響/齋藤瑠美子、松木優佳、佐藤春平
照明/三枝淳、富山貴之、久津美太地
映像/workom
協力/相良ゆみ、山口ゆりあ、アマヤフミヨ、中村麻美、OM-2、JTAN(ジャパン・シアターアーツネットワーク
宣伝美術/林慶一
記録/田中英世(写真)、前澤秀登(写真)、船橋貞信(映像)、大久保由利子(写真)
監修/真壁茂夫
制作/金原知輝、吉村二郎、林慶一

主催/die pratze
助成/EU ジャパンフェスト日本委員会
著作権代理/(株)フランス著作権事務所


「die pratze 「授業」フェスティバル」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: die pratze
  2. ピンバック: 薙野信喜

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