◎戯曲のミックステープ
關智子
小劇場レビューマガジン・ワンダーランドを訪れる方の多くは演劇が好きな人だと思っている。したがって、今この記事をお読みになっているあなたもその一人と仮定しながら書いている。では、戯曲はどうだろうか。演劇が好きなあなた(仮)は、同じくらい戯曲をお読みになるだろうか。観客に好きな劇作家の名前を訊いて、いや、好きでなくても構わない、知っている日本の劇作家の名前を訊いて、どのくらいの名前が挙がるだろう。日本劇作家協会会員のリストを見ると、意外な多さに驚き、さらに彼らの作品の多くが容易には手に入らないことを知る。大学図書館に行ってジャンルごとに分けられた棚を眺めると「日本戯曲」の棚は狭い。その内現代戯曲は少数であり、世紀末以降となるとさらにその一部しか占めない。
日本における戯曲を取り巻く環境は、元々すごく栄えているという訳ではないだろう。しかし以前は戯曲を載せた演劇雑誌もまだ数があったし、日本劇作家協会も『せりふの時代』という季刊雑誌を出していた。今、ネットオンデマンドで「21世紀戯曲文庫」を入手することは可能だが本数は多くなく、演劇雑誌が次々に休刊、『せりふの時代』も同じ状況となった。すなわち、劇作家がその作品とアイデンティティを顕示する際には、これまでとは異なる形が求められていると言える。
そのような中で、柴幸男氏が主宰する「ままごと」が「戯曲公開プロジェクト」を発足させた。ままごとのサイトで、柴幸男氏の戯曲作品を無料公開するというプロジェクトである。ほとんど同じ時期に、「アマヤドリ」主宰の広田淳一氏も戯曲をネット上で無料公開した(DRAMA(公開戯曲集))。この動きは今後の日本戯曲のあり方を変え得るのだろうか。変わるとすれば、どのようなものになるのだろうか。
筆者は、柴氏とままごと制作の宮永琢生氏にインタビューを行い、日本戯曲を取り巻く環境のこれからについて伺った。
プロジェクトの発端と経緯
<まず、プロジェクトのそもそもの発端と、公開に至るまでの経緯について>
柴:最初は自分のことです。最終的には戯曲や演劇の公共性についても考えたのですが、それは後付けで。僕は演出なしで戯曲だけの執筆の依頼っていうのはほとんどなかったんですね。ありがたいことに作と演出や、演出だけのお仕事はいただいてたんですけど。でも僕の中では劇作家という仕事も大事にしていきたいと思っていて、まずは良い戯曲を書かないといけない、僕の戯曲自体のクオリティを上げることが必要かなと。過去の戯曲も含めて、今書いている戯曲を、ちゃんと、今後も誰かが上演するんだという気持ちで書かないといけないな、と思ったんです。そして劇作家でありたいということを世に表明していきたいと考えました。
書いた戯曲が上演されないと劇作家とは言われないだろうと思ったので、上演機会を増やしたいと考えました。実は今後、僕の戯曲を積極的に上演してくださいみたいなプロジェクトをいくつかやろうと考えていまして、その手始めに、過去の戯曲の中から、実際の上演や上演映像を見たことのない人でも上演できそうな作品を選んで無料で公開しようと思ったんですね。戯曲が既に評価されている方だったら戯曲集を出しましょうという話があると思うんですけど、僕は多分なさそうだなと思って(笑)。本になって出版されないのであれば、手元に置いておくよりも、もう無料で公開しよう、と。
自分たちで本を作って出すということも考えたんですけど、やっぱりコストがかかりますし。できるだけ上演して欲しいので、それならHP上で公開してみました。読んだり、稽古場や授業、ワークショップとかでやったりするのは無料で、公演として上演する場合の上演料はご相談ということにしました。これはまず僕一人で思いついて、劇団員に相談したという流れです。特に反対意見もなく、皆、面白いんじゃないっていう感じでした。
宮永:「ままごと」は《演劇》を立ち上げる集団なので、戯曲を《演劇》を創るための一つの素材として捉えた時に、それ自体を公開することに対しては特に問題はない。というか、むしろ《演劇》を様々な意味で拡げるためには有効な手段なのではないかと考えました。
柴:ただ、僕の戯曲と言っても、果たして全部僕が一人で書いたかと言うと断言はできないと思うんですよ。それは現代演劇の作・演出の現場でできる台本の宿命だと思うんですけど。稽古場から生まれたアイデアや、そこから作られた言葉は、台本の中に必ずあるわけですよね。実際、『ハイパーリンくん』という短編は役者さんに歌詞を考えてもらった部分もあって、そのことを明記して公開しています。作・演出の場合、最終的な台本の作者は劇作家だけかという部分は怪しいな、とは思います。
最初は「柴幸男が公開する」ということだけで考えていました。ですがそうすると、一劇作家がやっている、個人的な活動という見え方になりますよね。でも、説明するときに「僕、戯曲公開したんですけど」と言うだけだとあんまりピンとこないなと思ったんです。そうじゃなくて、「プロジェクト」という名前を付けてしまって、劇団が活動の一環でやっているという見せ方をした方が良いことがあるような気がしたんですね。僕がテストサイトを作ってみた時に、勝手に「ままごと戯曲公開プロジェクト」と名付けたんですけど、割とそこが劇団員に好評でした。これは何にでも「プロジェクト」と命名するだけでちょっと面白く見えるよって話を聞いたからなんですけど(笑)。
僕の個人的で一回的なものっていうよりは、「戯曲公開プロジェクト」と名前を付けて、継続的に公開しますっていう、もうちょっと「公開していく動き」みたいになる方が面白そうだな、と。今そういう活動はしていませんけど、この「プロジェクト」をままごとがやるとなった時に、知り合いの劇作家の作品もそこに公開されていくようなページができたら面白いかもしれないって。そういう妄想が広がったので、個人のものではなくままごとの「プロジェクト」にしてみました。
メディア形態 ―紙 or WEB―
<先ほど出版することも考えたっておっしゃっていましたが、紙媒体で出版するとコストもかかりますが同時にリターンもありますよね。それでも紙ではなくネット上で、というのはどういう意図があったのでしょうか?>
柴:まず、今、僕が唯一お金を出して買いたいと思うのは、本とか雑誌くらいなんです。でも正直、紙の本というのは、きっとこれからどんどん高価になり減少していく、高級品になっていくんじゃないかなって思ってるんですね。特に戯曲が本で出版されることはほとんどなくなるんじゃないかと思ったんです。なくなるという言い方は極端ですけど。
『わが星』が出版された時に、部数を白水社の方から教えていただいて、それで印税が出る訳ですけど、その部数は、例えば再演の総来場者数と比べるとかなり少ない数なんです。演劇を観る人が減っているという話もあるのに、戯曲を読む人はもっと少ない。それでちょっと考えてみたんですが、戯曲を買う人には二種類いると思ったんです。それは「読むために戯曲を買う人」と「上演したい戯曲を探している人」です。
もっと極端に考えれば、もうすでに観たお芝居の戯曲が欲しい人と、これから何か上演したくて戯曲を探している人の二種類です。読み物としての戯曲を否定するつもりはありませんが、現実としてそれしかもう、戯曲を買ってまで読みたい人っていないんじゃないか。それなら、本にして五百円とかで売るよりは、もういっそネットで無料公開しようと。あと、在庫を抱えたくなかったっていうのがありますね(笑)。僕もいつも上演台本をPDFでスタッフに渡してますし、もうこの形で良いんじゃないかなって、ある種の開き直りみたいな形で決めました。本という形にこだわらないでいこうって。
もちろん既に出版しているものもありますし、全部は公開していません。また、中には僕らが主催ではない公演の戯曲もあります。そういうのは、上演権は二年か三年くらい主催者側にある契約なんですけど、著作権自体は僕らにあるので、戯曲を公開しても原則問題はないと判断しました。もちろん事前に相談もしました。名古屋の劇団うりんこのために書いた『妥協点P』という作品はまだ上演中で、東京公演はこれからなんですね(現在は終了。2014年8月27日-31日アゴラ劇場)。これから上演する戯曲を公開するのは、僕は面白いと思ったので劇団うりんこに相談したところ、「良いですよ」と言ってもらえたので、現在公開しています。
宮永:まあ、上演もされず出版もされずに自分たちの戯曲を手元に置いておいてももったいないしな、とも思いますし。それに今、戯曲は、出版されてもなかなか読み物として成立しませんしね。
柴:戯曲を公開しているウェブサイトには、言い訳がましく「試験的に」って書いてあるんですけど、今後ずっと同じ考えかどうかはわかりません。が、戯曲の形状は必ずしも紙でなくても良いんじゃないか、と今は思っています。理想論で言えば、重要なのは書かれている内容、情報の価値のはずなので、それは紙上でも画面上でも変わらないということを信じたいですね。
これはままごとで発行している「ままごとの新聞」でも書こうと思ったんですけど、日本劇作家協会のHPに坂手洋二さんと谷賢一さん、青井陽治さん、漫画家の赤松健さん、弁護士の福井建策さんの対談(「表現の自由を語ろう―第一回<TPP・児童ポルノ法>をどう見るか?―」)があって、その中で坂手さんも仰ってたし、僕もそう思うんですけど、もう戯曲を演劇と無関係に読む人はいないんですよ。演劇というものを作ったことがあったり興味がある人以外は戯曲を読まない。というか、読めない。多分、学校で教えたりしないとどう読んでいいか分からないし、戯曲それ自体を楽しむことは困難だと思うんですよね。戯曲はそれくらい閉じているというか、言い方は悪いですが、ある意味、不完全な文字表現だと思うんです。
でも、それは逆に言えば、上演されてるものを本当にちゃんと目で見るまでは、戯曲をいくら読んでもマイナスにならないということでもあると仮定したんです。それもあって『妥協点P』を公開しませんかと劇団うりんこに相談したんですよ。偶然読んだ人が見たいなと思って劇場に来る可能性こそあれ、全編読んでもう見なくていいやって思うような人はほとんどいない。だから、戯曲はある種不完全な情報だから、どんどん公開していった方が得なのかなと思ったんです。
ネットで公開しようと考えたことには他にも理由があって、「はりこのトラの穴」(脚本登録&公開サイト:はりこのトラの穴)という高校演劇の戯曲のサイト、演劇をやってる高校生と話していると、みんなまずあそこへ行くって言うんですね。それで自分たちの人数に合う戯曲を探すって。ネットで戯曲探すというのは驚きだったんですが、もしそれが彼らの主流なら、インターネットで公開するのが一番良いのかなと。地方の高校生が僕のサイトをどういう経緯で知るのか、というのがカギだと思うので、もしみんなが「はりこのトラの穴」へ行くんだったら、ままごとのことも知ってくれるような関連づけをお願いしたりとかどうだろう、と思っていて…まだ何もしてないですけど(笑)。
有料or無料
<インターネットのメリット/デメリット双方になり得るのが、検索するという行為そのものだと思います。ままごとのサイトで公開しているとなると、まず、ままごとあるいは柴さんのことを知らないとそこへ行けない。>
柴:『ラブひな』や『ネギま!』という漫画の作者である赤松健さんが、絶版になった漫画を無料で公開するプロジェクト(「Jコミ」)をやっているんです。すでに絶版になった漫画なので、もう売り上げも出ないし、BOOKOFFで出回っていても作者には何のプラスもない。赤松さんのやってるのは、そういう漫画をスキャンして載せ、そこにクリック広告を載せて、クリックした分は全部作者に行くっていうサイトらしいんです。それとは別に、『ブラックジャックによろしく』の佐藤秀峰さんも漫画を無料で配布していて、同時に新作も配信している(「漫画on Web」)。
どちらも個人のサイトではなくポータルサイトを作っていて、要は色んな作家の作品を無料あるいは課金で読めるサイトなんです。そういう形の方が人が入るし、つまりそれは「はりこのトラの穴」と同じ環境なんですね。でも、今、僕がそういうサイトを個人で作って運営していくのは正直しんどいなって思ったので、とりあえず自分の劇団からで、今は我慢しよう、と。一回は妄想しましたけどね、戯曲を公開するサイトを作るっていうのは。それこそ自分の身近な劇作家の人とかに相談してみたりしても面白いかなって。
<カナダには戯曲作品ばかり集めた戯曲センターがあり、ドイツでは戯曲のエージェント的な仕事をしている機関があります。そういうことを、日本ではネット上でしかも無料でできたら面白そうですよね。>
柴:音楽はデータそのものが「音楽」として成立するので、百円とか二百円とかで売るっていうのは分かるんですけど、戯曲は単独で読んでも「演劇」と言い切れるかは難しいですし、一般の人が面白いと思う可能性は高くはないので、もう自分の戯曲に関してはお金取って販売するというようなスケールの話はやめようと思いました。戯曲がちょっとでも世間的に延命するためだったら、むしろ逆にどんどん無料公開した方が良いんじゃないかとも思ったんです。
同じ意図かどうかはわかりませんけど、著作権保護が五十年から七十年へ延長されるというのが問題になったとき、別役実さんが反対する立場を取られたんです。自分の作品も含めて、戯曲はなるべく早く公共物になった方が良いという趣旨のことを別役さんは仰っているんです。その感覚ですよね。公共的なものになったら確かに良いんじゃないかなって僕も思ったんです。自分のこと、演劇全体のことを考えると一つずつ値段を付けてる場合でもないかなって。
それと、僕は日本語のヒップホップが好きで、よく聞くんです。その中で、これはアメリカからの発信なんですけど、ミックステープと呼ばれる、フルアルバムに相当する曲数の音楽を無料配信するのが流行ったんですよ。多分もともとは、無名の歌手が有名になるために無料でアルバムを出すという手法だったんだと思います。また、許可のないサンプリングを使用した楽曲を発表するための方法でした。でも、たまに全曲がまったくの新曲の作品もあるんです。新曲なんだから売れば良いだけの話なのに、それをミックステープとして無料で配る人がいる。メジャー契約している人がフリーで配信する場合もある。おそらく、フリーで作ると、さきのサンプリングの件などレコード会社の規制が緩むんですね。表現とかもちょっと過激なこともできたりするので、そういうのをわざと一曲出しておいてファンの信頼を勝ち取る、という意味もミックステープにはあったりすると思うんです。また地方の歌手が中央と同じ批評の土台に上がるための方法でもあったりします。著作権の消滅した作品を無料で読める青空文庫を読んだりミックステープを聞いたりしていると、無料化するっていうことに抵抗がないというか、そういうものが増えていくんじゃないかって予感すらしたんですよね。僕自身が日常的にそれらの作品を享受して、そして新しい作品を購入したりしている。
本当は、これから上演される新作の戯曲が既に公開されているというのが一番、面白いかな、と思ってます。それこそ野田秀樹さんは、文芸雑誌に先に発表されたりしていますよね。でも正直、現在の僕の戯曲は文芸誌には載せてもらえない…(笑)。だからそれはできないけれども、戯曲を先に配信して、例えばそれで、演劇自体には興味はあるけど戯曲を読んだことのない人が読んだりするようになったら良いなと思ったりしました。戯曲を読んで一番面白いのは、読んだ戯曲の上演をすぐに観るか、観た直後に読むかのどっちかなんです。だから、そういうふうに関連づけて発表できるのが一番良いのかなって。
アーカイヴのためではなく未来の上演のために
<柴さんとしては、過去の戯曲をアーカイヴのような形で残したいというよりも、将来的に上演されるためのものとして公開しているということでしょうか。>
柴:上演してもらいたいですね。戯曲の通りに上演されなくても良いです。僕の場合は、戯曲を改変とか切り刻まれたことはあまりないですけど、やりたいと言われたらいくらでもどうぞと言います。もちろん自分の戯曲に価値があると思っているから公開するんですけど、でもやっぱり「単体で完璧に成立している作品だから読んで欲しい」というよりは、「戯曲を探している人が読んでくれてちょっとでも上演してくれたら嬉しい、立体化されたら嬉しい」という気持ちが強いですね。
…アレ? でも、こんなことをしていたら逆に劇作家としての依頼は減りますかね……?(笑)上演機会を増やしたいということは戯曲一作あたりの単価を下げたいということにもなりますね。新作を依頼してくれるのだろうか…?(笑) いや、でも自分のフルアルバムをミックステープで無料配布している人と同じなわけですよね。それが商業的にプラスになるのか、逆に無料だからそれだけ聞いていれば良いやって思われるかは、質によるということですよね。結局は戯曲の質ってことじゃないですかね(笑)。
劇作家の仕事と戯曲における劇性
戯曲とは、まずもって同時代を生きる人間の体を通して声となることが前提とされる、極めて特殊な言葉の集合体である。したがって同時代性を色濃く含んでおり、また演劇というライヴアートとは異なり、後世にほとんどそのままの形で残ることが可能なメディアでもある。すなわち、同時代性と普遍性の双方を併せ持つ特異な芸術作品だと言えるだろう。だが、特に現在の日本においては、その多くが外部に出されず、そこに書かれた言葉はやむを得ず使い捨てにされる傾向が強い。
「戯曲公開プロジェクト」はそのような状況に新たな一石を投じる。ハード面においていくつかクリアすべき課題があり、またその波紋がどのように広がって行くのか(そもそも波紋が広がるのか)は未知である。だがほとんど同時、現在活躍中の劇団「アマヤドリ」を主宰する劇作家・演出家広田淳一氏が類似した試みを行っていることからも分かるように、劇作家たちの間にそのような必要性を感じさせる何かが起きつつあるのではないだろうか。
今回はプロジェクトに直接関係するお話を伺った。そしてここに、さらなる疑問が生じる。柴氏は劇作家と演出家を兼任する、いわゆる「作・演」の演劇人である。だが今回のプロジェクトは劇作家としてその必要性を感じたと語っている。月並みな問いではあるが、それでは、彼にとって劇作家という職業はどのようなものなのか。パフォーマンスや、戯曲の代わりに小説や伝記などを用いる演劇作品も多く見られる現在、彼は戯曲をどのようなものとして提示しているのか。次回はこれらの問いを通じ、柴氏の戯曲美学にフォーカスしたインタビューをお届けしたい。
(インタビュー:2014年6月17日渋谷区にて)
【略歴】
柴幸男(しば・ゆきお)
1982年生まれ、愛知県出身。劇作家・演出家・ままごと主宰。「青年団」演出部所属、「急な坂スタジオ」レジデント・アーティスト。
日本大学藝術学部在学中に『ドドミノ』で第2回仙台劇のまち戯曲賞を受賞。2010年に『わが星」で第54回岸田國士戯曲賞を受賞。一人芝居をループさせて大家族を演じる『反復かつ連続』、全編歩き続ける芝居『あゆみ』、ラップによるミュージカル『わが星』、朝の一瞬を切り取った一人芝居『朝がある』など、新たな視点から普遍的な世界を描く。
近年は、レパートリー作品の全国ツアーや地方公共ホールとの共同創作、劇団うりんこ(名古屋)での新作児童劇の創作や「あいちトリンナーレ」への参加など、東京以外の場所での活動も多い。その一例として、2013年は「瀬戸内国際芸術祭」に参加し、小豆島(香川県)で滞在制作を敢行。島民や観光客を巻き込み、“その時、その場所で、その人たちとしかできない演劇”を生み出した。
また、アートスペースを併設した休憩所である「象の鼻テラス」(横浜)では、パブリックスペースという特徴を生かし、流れる人と時間をそのまま劇中に取り込んだ作品づくりを行っている。
2014年の主な活動として、4月に愛知・劇団うりんこ『妥協点P』(作・演出)、7月に青年座『あゆみ』(作・演出)を上演、7・9月に小豆島にて「アート小豆島・豊島2014 小豆島 醤の郷+坂手港プロジェクト 観光から関係へ -Relational Tourism-」に参加予定。
また、「ままごと」HPにて『戯曲公開プロジェクト』を開始、過去の戯曲を無料公開している。
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宮永琢生(みやなが・たくお)
1981年生まれ、東京都出身。プロデューサー・ままごと製作総指揮。企画制作・プロデュースユニット「ZuQnZ(ズキュンズ)」主宰。
2007年に平田オリザが主宰する「青年団」に入団し、2011年の退団まで本公演および関連公演の制作として携わる。2009年に柴幸男と共に「ままごと」を起ち上げ、製作総指揮&プロデューサーとして全ての公演および活動に関わる。
「ままごと」の他にも、黒川深雪(InnocentSphere)とのユニット「toi(トイ)」のプロデューサー、音楽ユニット「□□□(クチロロ)」のライブでの企画制作、「TPAM(国際舞台芸術ミーティング)」のショーイング・プログラム・ディレクター等の活動も行っている。
關智子(せき・ともこ)
1987年生まれ。日本学術振興会特別研究員、早稲田大学大学院文学研究科博士課程在籍(演劇映像学コース)。研究対象は20世紀末から21世紀のイギリスを中心とした西洋演劇および戯曲。国際演劇評論家協会(AICT)会員、Webマガジン『シアターアーツ』編集委員。第17回シアターアーツ賞佳作受賞(「部外者であるということ―ハビマ劇場『ヴェニスの商人』劇評ー」)。
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