ミュンヘン・カンマーシュピーレ「浄化されて/渇望/4.48サイコシス」

◎ポストドラマ的テクストから作り上げられたドラマ
 關智子

【はじめに】
 イギリスの劇作家であるサラ・ケインの作品は、遺族の希望により、上演に際しての大幅な改変・削除が一切認められていない。特に後期の『渇望』(Crave)、『4.48 サイコシス』(4.48 Psychosis)は、いわゆる論理的なストーリー展開がなく、断片的な言葉によって織り上げられている、いわゆる「ポストドラマ的」なテクスト作品でありながら、テクストを解体して再構成するようなポストドラマ的演劇としての作り方は許可されていない。

 ミュンヘン・カンマーシュピーレでの上演はそのような制約を逆手に取り、『浄化されて』(Cleansed)、『渇望』、『4.48』を一回の公演で半ば連続して上演することで、個々の作品には描かれていない一つのドラマを作り出した。

【こどものお遊戯 ―『浄化されて』】

 公演は『浄化されて』から始まった。本公演は、この後の2作品とは異なり、まだストーリーも登場人物も場面設定もそれと分かる形で表されている。複数の愛のベクトルが複雑に交錯し、その愛の歪な表現としての過激な暴力描写は初演当時に物議を醸した。『浄化されて』の上演の際にプロダクションに突きつけられる第一の課題は、一見上演不可能と思われるような上演指示である。テクストにおいては、登場人物の舌手足が切り取られ、ネズミがその傷口を齧り、姿なき声が登場人物を殴ってレイプする。これらの上演指示は演出の腕の見せ所でもある。

 本公演の演出のヨハン・ズィーモンズ氏は登場人物たちに幼稚園か小学校に通う子どもの格好をさせ、これらをすべて彼らの「お遊戯」として表現した。すなわち、残忍な加害者であるティンカーが、自分の腕を振り上げて「キュイイイン」というチェーンソーのような音を立てながら被害者であるカールの腕に当てれば、カールは腕が切られた「ということになる」のである。ストリップダンサー(彼女もまた子どもの真似事として、ぎこちなく歌い踊る)に投げられるトークンは小石であり、おもらしはチョコレートで表される。性行為は向き合って足を投げ出して座るだけで、それになる。それは彼らの、そして劇場の「約束事」である。

 このような子どもの遊戯として表されることで、彼らの愛がいかに純粋であり、残酷であり、必死なものであるのかが表現されていた。ケインの作品には、かつて「この作家に必要なのは批評家よりも精神科医である」と批評されたことがあるほど、過激な暴力によって愛が表現されている(その後ケインがうつ病の症状が悪化し入院したことを思うと笑えない皮肉である)。テクストを読んでも、演出によっては、あまりの過剰さゆえにその表現に納得できないこともあるだろうと推測される。しかし本公演では、お遊戯として提示されることで、その暴力性や過激さが説得力をもっていたと言える。つまり、子どもであるがゆえに他人の痛みに鈍感であり、残酷な表現になってしまっているのである。そしてその暴力は、彼らの他人に対する愛がそれほどまでに必死かつ純粋なものであることを示していた。愛を上手く表現できないがしかし、切実なまでに誰かを求める行為として、その残酷なお遊戯はあったのである。

 その表現は痛々しいまでに客席に伝わり、やはり暴力的に観客を巻き込んだ。ロビンという登場人物が、ティンカーの支配下にいる残りの日数を数えるシーンで、彼はおもちゃのそろばんを使って一つずつ数えていく。客席に向かってそれを数え上げるのだが、彼はたどたどしくもはしょることなく地道に数えて行くために、いつしか筆者も心の中で同じように数えていた。気づいて見れば、周りの観客も彼と同じテンポで頷きながら数えており、しかも途中で「51!」と客席から声がかかった。客席に笑いが漏れたのも束の間、終わりの見えない列挙に、やがて恐怖が芽生える。いつ終わるんだ、という客席の不安はロビンの不安である。

 登場人物に感情移入し易いストーリーのある『浄化されて』を最初に持ってくることで、そこで観客は舞台上の出来事、すなわち暴力的なまでに誰かを愛し、愛されることを求める姿に感情移入するよう促される。そして次の『渇望』へ、徐々にコントロールが利かなくなる次元へと引きずり込まれて行くのである。

【絶望の変奏曲 ―『渇望』】

 『渇望』はストーリー展開のない短いテクストである。ほとんど台詞しかなく、それもどのような状況下で発されるべきかという指示がない。登場人物もA、B、C、Mというイニシャルだけで示され、台詞の内容からそれとなく性別とある程度の年頃が推測できる、という程度である。彼らはモノローグなのかダイアローグなのかが判別困難な断片的かつ詩的な言葉を交わしていく。

 『浄化されて』が終わると、俳優の内4人が着替えながら舞台の上へ椅子を持ってきて座る。作品は緩やかに続いているように見える。椅子の装飾などはバラバラであり、俳優たち(女性2人と男性2人)の外見もバラバラである。彼らは客席に向けた椅子に座ったり立ったり歩いたりしながら、対話ともつかない対話を凄まじい早さで交わす。その内容は、過去の回想や誰かへの要求、絶望的な心情の吐露である。

 その光景は、まるでルームシェアをしている4人のルームメイトの日常を切り取った海外のトレンディドラマのようである。時折彼らは軽い口論のようなものも交わし、観客の笑いを誘う。しかしその笑いもやがて消える。彼らの対話はなくなり、個々のモノローグとしての性質を強めていく。それにも関わらずそれぞれの言葉の内容は同じ方向へと向かい、互いに呼応し、次第に交響曲のように劇場に響く。

 公演に合わせて筆者が行ったインタビューの中で、ズィーモンズ氏は「登場人物はバラバラで対話が成立しないのに、一体感を持ち始め、妙なシンフォニーを奏でる」と語った(※)。筆者はドイツ語に堪能ではないために、早口の彼らの台詞は上手く聞き取れなかったが、英語とは異なる重厚な音の響きやリズムを体感することはできた。彼らは言葉の奏者であり、椅子はオーケストラのものとなる。舞台天井から吊るされている様々な太さ・長さの白い筒は、パイプオルガンを連想させた。

 彼らが奏でるのは絶望の変奏曲であり、精神の鎮魂歌である。『浄化されて』の登場人物たちのように、『渇望』の登場人物たちもまた誰かから愛されたり、現在の状況から解放されたりすることを「渇望」している。その「渇望」は、まるで泳げない者同士が水中でもつれもがき合うようにより救い難い状況へと発展していく。『浄化されて』では(悲劇的なものにしろハッピーエンドにしろ)一応の結末が提示されたが、『渇望』の彼らにそれは与えられない。協奏曲として一体化した彼らの「渇望」はコントロール不可能なものとなり、自らの存在すら蝕んでいく。

【精神の断末魔 ―『4.48サイコシス』】

 『渇望』の最後では霧のような雨が降り、紙でできている白い筒は破れ、崩れ落ちて垂れ下がる。『渇望』において言葉が構成していた協奏曲は、実際に舞台上で楽器を用いて演奏される。舞台向かって左端に、譜面台にテクストを置いて椅子に腰掛ける男性がおり、舞台中央、ぼろぼろになった白い筒に囲まれて一人の女性がやや俯き気味に座っている。こうしてケイン最後のテクストである『4.48』は始まった。

 『4.48』はもはや登場人物もなく、テクストにおいてはページの上に断片的な言葉が文字通り散りばめられているためにほとんど詩に近い。それらは非論理的な思考の発露であり、作品の終わりに近づくにつれ空白が多くなっていく。

 ケインはこの作品が完成した1週間後に首を吊って自殺した。彼女の状況とテクストの内容とにあまりに多くの共通点が見られるために、ロンドンでの初演時はほとんど遺書に近いものとして見なされたこともある。ケインの影を追い払うことが難しいこの作品を、ズィーモンズ氏は三部作の最後の部分として上演することで、一連のテクストに見られる言葉の流れを見せ、崩壊する精神世界の断末魔として描き出し、ケインの個人的なものではなく普遍的なものとして提示した。

 しばしば女性のモノローグ劇として上演されることもあるために、中央の女性が語るのかと思いきや、中心的に語るのは右の男性である。しかも彼は譜面台に置いたテクストを読み上げており、ピーナッツのようなものを食べ、ティーカップを傾けながら、椅子に寛ぎ詩を読み上げるように語る。彼一人がそのようにして語る時だけ、楽器が演奏されていた。まるでリーディング劇の上演のような奇妙な空間である。

 しかし、その落ち着いた雰囲気は徐々に蝕まれていく。突如として医師のような白衣を着た二人の人物が現れ、彼に語りかける。彼はややヒステリックになり、二人は去る。またテクストを読み上げるが、時折彼自身の言葉であるかのように、譜面台から目を上げて客席に語りかける。そして中央の女性が彼に語りかけ、彼もまた彼女に語りかける。二人の台詞は医者と患者のやりとりのようでもあるが、その役割は途中で交代する。

 このような展開の中で、一体誰の言葉が語られているのか、定かでなくなる。テクストの言葉なのか、男の言葉か、それとも彼女の言葉なのか。役割が交換され、言葉が混ざり合うことにより彼と彼女の境界は曖昧なものとなり、「わたし」と「あなた」が判別不可能となる。男のモノローグの時にだけ奏でられていたはずの音楽はいつしか、二人の台詞の間にも流れるようになる。男は女に愛を告白するが、彼の愛は成立しない。彼女は彼であり、彼は彼女である。

 『浄化されて』から描かれ続けた愛の希求は、『4.48』において、ポストモダン的な悲劇的結末を迎える。すなわち、自己が成立しなくなるがゆえに愛の対象となる他人も成立しなくなり、他人へと向かうはずの言葉がどんどん内側へと向かい、行き場のない絶望的な愛の循環となるのである。

【ポストドラマ的なテクストからドラマを作り出すこと】

 このようにカンマーシュピーレでのケイン三部作上演は、ポストドラマ的テクスト(特に後期の2作品)を用いてひとつのドラマを作り出していたと言えるだろう。もちろんそれはいわゆる近代劇的なドラマとは異質だが、ある主題が時間を経て展開されるという意味においては当てはまる。本公演はケインのテクストを追うことで、自己同一性と言葉、そして何よりも他人を求める愛が次第に蝕まれ、崩壊していく様を描き出していた。

 本公演は3作品をひとつの作品とすることで、ある作家の活動を批評的に観察し彼女が一貫して取り組み続けたものを炙り出している。その手法はひとつのテクスト作品だけで完結させていないという意味においてはポストドラマ的と呼び得るがしかし、上演作品全体においてあるテーマが展開するという意味においてはドラマ的である。本公演は、いわゆるポストドラマ的演劇がドラマという概念と共存し得ることを、極めて詩的に提示していたと言える。
(2013年1月25日観劇)

(※)このインタビューは2013年1月25日、カンマーシュピーレにて行った。なお、インタビューに際してウルリケ・クラウトハイム氏、ユリア・ロホテ氏、アレクサンドラ・トヴァロク氏にご協力いただいたことを謝辞に代えてここに記す。

【上演記録】(当日パンフレットより)
ミュンヘン・カンマーシュピーレ「浄化されて/渇望/4.48サイコシス」(Gesäubert/Gier/4.48 Psychose)

初演:2012/01/21, Schauspielhaus, Münchner Kammerspiele.
原作:Sarah Kane(Cleansed, Crave, 4.48 Psychosis)
演出:Johan Simons
制作:Eva Veronica Born
衣装:Teresa Vergho
照明:Wolfgang Göbbel
映像:Carl Oesterhelt
ドラマトゥルク:Koen Tachelet / Jeroen Versteele
俳優:Marc Benjamin / Annette Paulmann / Stefan Merki / Stefan Hunstein / Sylvana Krappatsch / Thomas Schmauser / Sandra Hüller(順不同)
奏者:Gertrud Schilde / Joerg Widmoser / Nancy Sullivan / Jost-H. Hecker / Juan Sebastian Ruiz / Sachiko Hara(順不同)

【筆者略歴】
關智子(せき・ともこ)
 1987年生。早稲田大学大学院文学研究科博士課程在籍(演劇映像学コース西洋演劇専攻)。国際演劇評論家協会(AICT)会員。第17回シアターアーツ賞佳作受賞(「部外者であるということ―ハビマ劇場『ヴェニスの商人』劇評―」)。研究対象は20世紀末-21世紀のヨーロッパにおける戯曲。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/seki-tomoko/

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