鴎座「クレンズド」(リーディング・パフォーマンス)

◎狭間を浮遊する作品
 關智子

鴎座「クレンズド」 公演チラシ 俳優が舞台上で台本を手にしているという事は何を表すのか。彼らは完全に役に埋没する事はなく、かと言って彼らそのものとしてその場に存在している事もない、観客と交換可能でありながら違う世界を生きている狭間の存在になる。そんな居心地の悪い所在無さを感じながらも、時折突如としてその場に出現する劇的世界に観客を引き込もうとする舞台。2010年12月25日に行なわれた鴎座『クレンズド』はそんな作品だったように思う。

 今作品は、まず企画としてサラ・ケイン(Sarah Kane)の『洗い清められ』(Cleansed)(注1) を1年ごとに3回、それぞれ全く異なる形で上演するという『クレンズド・プロジェクト』があり、その第一弾として今回のリーディング公演が上演された。演出(川口智子)(以下敬称略)は「戯曲をちゃんと受け取るため」と語っており、テクストに対する誠実な姿勢が窺えた。

 テクストの話をすれば、原作の『洗い清められ』はケインの演劇戯曲5作品の中で真ん中の3番目にあたる(注2)。 この作品の前と後では作風がかなり変化しており、ちょうど両者の特徴を半々に持っている部分が見られる。例えば精神的肉体的な暴力の表現は前期作品で物議を醸した特徴の流れを引いていると考えられ、実体があるのかないのかすらよく分からない人物の登場、心の内側を抉り出すような台詞は後期の作品に見られる。両方の間にあるこの作品は、そういう意味ではケインの特徴を総合的に含んでいると言え、まだケインの名が普及しているとは言い難い日本で上演する際にこの作品を選ぶだけである程度価値があると考えられる。

 あまりよく知られていないテクストの上演の際にまずリーディングという形式が選ばれるのは珍しくない。しかしそういう場合によく陥りがちなのはテクストの紹介程度に留まってしまうケースである。リーディングは台詞を覚える必要が少なくなるために稽古期間が短くて済み、また大掛かりな舞台装置もなくて済む(もちろん演出の意向によるが)。更に解釈を観客(聴衆)にそのまま委ねる事が可能なので、結果的にテクストを読み上げただけ、という上演は多い。もちろんそれはそれでリーディングの一つの形としてあり得るが、『クレンズド』ではそのリーディングという形式の持つ可能性の一つを観客に提示したという点においても評価できる作品であったと思う。しかもその提示された可能性は、テクストの本質の一部ともかなり密接に関わっており、正に形式と内容が一致した上演だったのではないだろうか。

 『洗い清められ』はある視点から見れば狭間を浮遊する人物たちを描いた作品と言える。死んだ兄グレイアムを愛するあまりに、彼になりたがり自分の肉体の改造を望むグレイスは精神と肉体の狭間で、医者でありながらあらゆる人々を傷つけるティンカーは愛と破壊の狭間で、成就したはずの愛をティンカーに脅かされるロッドとカールは真実と嘘の狭間で、それぞれ歪な愛の終着点を求め更に正気/狂気の狭間を浮遊する。

 人物たちだけではなく舞台設定も日常/非日常の狭間にある。大学キャンパスという日常的な場所で、ティンカーはカールの舌、腕、足を切り落とし、性器をグレイスに移植する。ピープショーが行なわれ、図書館では書物の山に火が放たれる。そんな最中に聞こえて来る音はクリケットの試合の歓声やフェンスの傍を通る子供の歌声と、歪に日常が挟み込まれる。筋らしい筋もなく、辛うじて繋がったシークエンスで構成されたこの作品は「浮遊」という言葉が合うような、掴み所のなさが全編を貫いている。

 このようにまずテクストの次元で描かれていると見られる、二項対立の狭間を行き来する事で双方が瓦解してして溶け合った世界は、上演において舞台上だけでなく客席をも巻き込むような演出により表現されていた。

鴎座「クレンズド」公演から
【写真は、鴎座「クレンズド」公演から。撮影=青木司 提供=鴎座 禁無断転載】

 上演が行なわれたspace EDGEは、渋谷の喧騒から離れた、大型トラックの駐車場のような場所だ。扉はなく分厚いビニールのカーテンで外界から中途半端に遮断されたその場所は、左側に観客席が並べられ奥に音響・照明デスク、右側が舞台空間になり、その奥の倉庫らしい部屋の扉が開けられて中が見えた。外の冷気が容赦なく入り込むのでコートを着たまま暖房器具に当たっていると、演出が何気ない様子で現れてこの企画のコンセプトを説明する。そして俳優達とその配役を説明し、「それじゃあ始めます」と言って特に照明や音響が変わる事もなく、俳優が台本の言葉を読み始めて芝居が始まった。上演中俳優達は言葉に即したような(いわゆるリアリズム的な)演技をする事はほとんどない。彼らは「~役」であるというよりもむしろ「~の言葉を読む人」になっている。ト書きも俳優が読み上げるが、その割り振りはバラバラでしかも言葉の通りに動く事はまずない。
 このような演出の場合、俳優の力量は如実に現れる。役としてではなく俳優としての自分自身のまま観客の前に立ち、テクストの媒介者として存在しなければならない。『クレンズド』の俳優たちはそれを見事やってのけるだけではなく、更なる効果も作品にもたらした。それは登場人物の出現である。

 俳優の身体と言葉が乖離しているような上演において、劇的世界の構築は困難である。観客は俳優の身体を通して音声化されたテクストを受容する事で、想像力の中で劇的世界を構築する。だが、今公演では俳優の身体と言葉の奇妙な一致により、俳優が役に没入するでもなければ役が俳優に帰属するでもなく、その時その場(いわゆる「いま、ここ」)に登場人物が出現し、一瞬にして劇的世界が構築されていた。例えとして特に印象的だったものを挙げれば、ティンカーに苦痛を強いられるロビン/滝本直子である。滝本は延々と繰り返される「ティンカーはチョコレートを一つ彼に投げる ロビンはそれを食べる」というト書きを読みながら舞台を左右に走り続ける。彼女と、チョコレートを戻しそうになるロビンが突如一致し、その後書物に火を放ったロビンがグレイスに言った「ごめん、寒かったんだ」という一言は、単なる息切れではなく肉体的精神的苦痛を押さえ込んで自分の不始末を取り繕う痛々しい言葉となった。他にも、倉庫での伊佐千明のダンスは女のアイデンティティの欠落と、辻田暁の発する言葉の不安定感はグレイスの精神と身体の不安定感と一致した。このような登場人物の出現が所々に挟み込まれる事で、劇的世界は舞台と観客の狭間のものとなっていたと考えられる。

 言葉と身体の関係は別の形でも提示されていた。それはリーディング最大の特徴の一つである物理的なテクストの存在の強調である。上演中、奥の倉庫で踊る伊佐千明は度々手にしているテクストを体に押し付けたり振り回したりし、他の俳優も床に擦り付けたりする事でカサカサした紙の質感が伝わってきた。そのようなテクストそのものの存在の強調により、言葉とそれに支配される役という存在が感じられた。前述したように、今作品において登場人物は出現するものであり常にテクストと俳優の狭間にいる存在である。俳優がそのテクストを持て余すかのような仕草をする事で、テクストから逃れたくても逃れられない登場人物のジレンマを表しているかのようにも見える。

 言葉はケイン作品において重要なテーマの一つである。『洗い清められ』では、ロビンは図書館でグレイスからスペリングを習い、以降言葉の集合体である書物はグレイスへのロビンの愛の記号として見られる。カールは言葉の罠である嘘を吐いた事で罰を受け、ティンカーは言葉でもあらゆる愛を破壊する。今公演ではテクストの次元で重要視されている言葉を上演の際にも丁寧に扱っている印象を受ける。最後のシーンでは、壁に映写されたグレイス/グレイアムの言葉を俳優全員で読み上げる。紙という媒体を捨てても俳優(登場人物)は言葉から解放されるわけではなく、一方台詞の言葉はもはや登場人物に帰属するものではなくなる。それまで俳優と登場人物、劇的世界と観客を辛うじて繋いでいた言葉が、そのツールとしての信用を裏切り、誰のものでもなく言葉そのものとして自我を得て全ての狭間を飛び交っているように感じられた。

 言葉という様々な形に変化し得る媒体を用いて、作品は全ての狭間に出現する。テクストのエクリチュールが俳優の身体を通して舞台上にて音声化され、それを受容した観客の想像力をもって現れた場合に、作品が舞台上にあるとは一言では言い切れないし、観客の中にあるとも言えない。『クレンズド』におけるこれらの特徴はリーディングという形式ならではでありながら、決してテクストそのものの内容を無視したものではない。むしろテクストの内容に真摯に向き合った結果としてのこの形式、演出として納得でき、また形式と内容の関係を再考する上でも重要な公演であったのではないかと考えられる。

 次回公演は2011年12月に『浄化。』というタイトルで予定されている。今公演でテクストと真っ直ぐに向き合った鴎座が全く異なるアプローチを仕掛けるらしく、当分先だが既にその日を待ち遠しく感じる。
(2010年12月25日15:00観劇)
【注】
1 近藤弘幸訳
2 Complete PlaysにはBlasted、Phaedra’s Love、Cleansed、Crave、4.48 Psychosisとテレビ脚本Skinが収録されており、それより以前の’Monologues’と呼ばれる作品は本人の希望により出版されていない。ここではComplete Playsに収録されているものについてのみ言及する。

(初出:マガジン・ワンダーランド第228号、2011年2月16日発行。無料購読は登録ページから。2月22日加筆修正)

【筆者略歴】
 關智子(せき・ともこ)
 大学院で西洋演劇学を勉強中。ドラマトゥルクという存在にどうしようもなく興味を覚えつつ、実はそれが何なのかどうすればなれるのかを日々模索中。演劇を愛してますが、実は演劇が何なのかは未だ五里霧中。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/seki-tomoko/

【上演記録】
鴎座「クレンズド」(リーディング・パフォーマンス)
渋谷・space EDGE(2010年12月25日)

作:サラ・ケイン
訳:近藤弘幸
演出:川口智子

出演:久保恒雄(黒テント)、中川智明、草光純太、伊佐千明(BATIK)、滝本直子(黒テント)、武田幹也、辻田暁
音響:島猛
照明:横原由祐
入場料 1500円(全席自由)


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