中野成樹+フランケンズ「寝台特急”君のいるところ”号」

◎「寝台特急」「きみのいるところ」である劇場
關 智子

寝台特急中野成樹+フランケンズ(以下中フラ)の作品はいつも緊張する。
と言うと、観た事のある人の大半は疑問に思うかもしれない。「誤意訳」という砕けた翻訳(翻案とすら言えるかもしれない)で、近現代劇をポップにアレンジする劇団、という印象があるだろう。実際には笑い所があり、全体としてまとまりのある明るい作品が多いように感じる。だが、私はいつも新作のチラシを目にしただけで緊張する。それは、「誤意訳」によって原作が間違った翻訳及び解釈で上演され、歪められてしまうと考えるからではない。作品が大幅に変更されて、もう途中から原作が何なのかすらよく分からないようになっても、観終わると「これは原作に近付こうとしているのではないか」と感じるからだ。中野さん本人ですら「間違ってる」と言っていても、間違っていない気がして来る。すると、自分の芝居の観方や判断が大きく揺らぐ。だから毎回、緊張して観ている。

私はワイルダーの『特急寝台列車ハヤワサ号』(以下『ハヤワサ号』)を以前に読んだ事がある。読後最初に持った感想としては「どうしてこれは寝台特急でなければならないのだろう」という疑問だった。物語は列車が走り出す所で始まり、シカゴに到着して終わる。だったら、バスでも電車でも飛行機でも良いのではないか。東京発京都着深夜バスでも構わないのではないか。

だが、中フラの上演を観て、寝台列車である意味が分かった気がした。

寝台列車の特徴は、カーテンを引くと個室が出来る点にある。他の知らない誰かと同じ空間にいるはずなのに、劇中でも「しゃっ」と表現される簡単な動きだけで簡易個室が出来、そこで各々が全く違う夢を見る。他の移動手段に比べて、寝台特急は人が個の世界に入った瞬間がとても分かり易い構造になっている。人は思い思いの理由から列車に乗り、それぞれ全く関係ない旅路を終えて殆ど繋がりも持たずに分かれる。車内で誰かが亡くなろうが、旅の理由がどれ程深刻だろうが、直接的な関係を持つ事はない。恐らく殆ど全員がこの一度限りの出会いに名残も感じず旅を終える。

この事を考えると、寝台列車は何かに似ている。上演中に私は、劇場の構造と酷似していると感じた。勿論客席には個々にカーテンがある訳ではない。今回の上演では、客席と舞台を分ける幕すらなかった。だが、舞台上の出来事を観客は虚構の世界、どれだけ内容が深刻でも自分とは別の世界の出来事と考え、更には隣りの観客と大した繋がりを持つ事もあまりない。上演中各々の感傷や考察に浸り、上演後もバラバラと帰って行く。それでも確かに一定時間を同じ空間で過ごす。舞台上にいる俳優達は観客と同じ生身の人間であり、「今ここ」にいる。
ワイルダーは演劇という舞台と観客の関係性或いは劇場の空間構造を、寝台特急に見立てて提示したのではないだろうか。それを裏付けるかのように、原作はメタシアター的構造をとり、「舞台監督」が『ハヤワサ号』は芝居であるという事を度々強調する。このハヤワサ号は劇場のメタファーではないだろうか、と私は感じた。

だが、恐らく『ハヤワサ号』をそのまま翻訳して上演されても私は気付かなかっただろう。気付いた原因は中フラが付け足した部分、つまり「誤意訳」による改変だ。『寝台特急“きみのいるところ”号』(以下『きみのいるところ号』)には付け足し部分が幾つかあるが、私は主に二ヶ所に注目した。
まず、原作では「舞台監督」の状況説明と指示によって作品の虚構性が強調されるが、『きみのいるところ号』では虚構性の強調として作品半ばで、「下段二号(医者)」が「素に戻った役者2」になった理由(「みどりちゃん」との離婚)を語り出し、「MC1」以外の全員が「素に戻った役者」になるシーンが付け足されている。次に、原作の結末は旅客達が各々バラバラに列車を降りて終わるが、中フラでは「下段一号(独身女)」と「ボーイ」が結婚した事を暗示するように赤い糸が背景に描かれ、他の役者達が拍手をするという結末になっている。

寝台特急
【写真は「寝台特急"君のいるところ”号」公演から。撮影=鈴木 竜一朗 提供=中野成樹+フランケンズ 禁無断転載】

この二ヶ所の変更は、共通点として他人との見えない繋がりが表現されている事が挙げられる。作品の虚構性を表現するのに「舞台監督」という一人の人物だけを用いるのではなく、全員を「役者」として用いる事で舞台上に一つの共同体が表現され、更に言ってしまえばこの演劇作品を成立させているのは舞台上の役者だけではなく、私もその一人である観客も必要である、という事が言われているかのようだ。結末部分では、「下段一号」と「ボーイ」の間にある見えない(恐らく赤い)糸を「狂女」が一度切ってしまうが、その後で結び直す事で二人は結婚する。殆ど直接的な関係を持たないはずの、旅の間だけの関係が実は見えない何かで繋がっており、更に別の誰かによってそれが切られたり繋げられたりするという事を表現している。原作にはないこれら二つのシーンを入れる事で『きみのいるところ号』では、ないように見えるが実はある繋がり、していないように思えるが実はしている共同作業というものが強調され、それらが物語上、舞台上だけではなく、観ている客席も含まれているのだ、という事が表現されていると感じた。

そして、タイトルを読む。『寝台特急“きみのいるところ”号』。この寝台特急は、「下段一号」「狂女」「ボーイ」等の登場人物だけではなく、「きみのいるところ」、つまり私のいる観客席だと言っている。戯曲という二次元だけではなく、舞台上で表現し観客の見る演劇作品になってから初めて本来の意味が成立する。そういう舞台だと思った。中フラが上演する作品の多くは、読むだけでも十分楽しめる戯曲が多い。だが、それを舞台上で表現する意味、戯曲が演劇になる事を前提として提示される意味を中フラは考えて作品を作っているのではないか。今回の舞台を観て、その事を痛感した。

と考えるので、私は「原作に近いのではないか」「間違っていないのではないか」と思う。だが、そもそもの方法が「誤意訳」であり、「誤っている」と公言しているものを「正しく見る」というのはどういう事なのだろう。それは間違っているのだろうか。もうそうなると、何が間違っていて合っているのか、混乱して来る。だから緊張する。いや、ひょっとしたらこれは警戒という言葉の方が正しいかもしれない。自分の先入観を揺らがせ、観客としての姿勢を改めて問われるような芝居だから警戒しつつ、席に着いた。
だが、不思議な事に観終わった後は少し気が緩んだ。要するに、合っているか間違っているかの問題ではないのでは、と思える。そもそも正解が何か、ハッキリとした答えはいつも用意されない。だが、その辿り着けるはずのない正解に、迂回して寄り道して、それでも真摯に進む、その姿勢が中フラにはあると思う。それは観客にも要求される事だ。何故なら舞台と客席は別々のものではないからだ。

私も「きみのいるところ号」の一員となり、実は一緒の空間にいる隣の個室の人と、実は繋がっているかもしれない感覚を味わいつつシカゴ駅を目指した。
劇評を書くセミナーこまばアゴラ劇場コース課題作。初出:マガジン・ワンダーランド第198号、2010年7月7日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
關 智子(せき・ともこ)
大学院で西洋演劇学を勉強中。ドラマトゥルクという存在にどうしようもなく興味を覚えつつ、実はそれが何なのかどうすればなれるのかを日々模索中。演劇を愛してますが、実は演劇が何なのかは未だ五里霧中。

【上演記録】
中野成樹+フランケンズ「寝台特急”君のいるところ”号」(Wi! Wi! Wilder2010 参加)
こまばアゴラ劇場(2010年5月20日-30日)

作: ソーントン・ワイルダー『寝台特急ハヤワサ号』より
誤意訳・演出:中 野成樹
キャスト:
フランケンズ
└村上聡一、福田毅、洪雄大、 竹田英司、田中佑弥、野島真理、石橋志保、斎藤淳子
ゲスト
└小泉真希

スタッフ:
舞台監督:井関景太(有限会社 るうと工房)
照明:高橋英哉
音楽:竹下亮
美術:細川浩伸(急な坂アトリ エ)
制作:加藤弓奈

料金:全席自由前売り2800円、当日3000円、高校生 以下1800円(前売り・当日とも)

提携:(有)アゴラ企画・こま ばアゴラ劇場
主催:中野成樹+フランケンズ


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