マームとジプシー「しゃぼんのころ」

◎震えと揺れが引き起こす、舞台上の遠景。
徳永京子

「しゃぼんのころ」公演チラシ
「しゃぼんのころ」公演チラシ

おそらく劇場を持った瞬間に、演劇は“遠景”を捨てたのだと思う。世界一巨大な劇場に出現する奥行きも、簡素な野外劇のテントから図らずも見えてしまった空がもたらす、一瞬の目眩にはかなわない。そう、遠景とは目眩だ。確かに“ここ”とつながっている/いたけれど、決定的に遥かな“あの場所”。時間を好き勝手に伸び縮みさせる演劇の暴挙と偉大な自由も、神聖な“あの場所”の前では嘘っぽさが目立ってしまい、劇場の中で演出家は、遠景に永遠の片思いをしてきた。

その点で映画は、演劇の何十倍も有利だったと言える。実際に遠景を撮影し、それを差し挟むことで、目眩が内包するまぶしさ切なさや心細さを、自分の持ち物として振る舞えたから。映画が少女という被写体と相性がいいのはそのためだ。少女とは、まぶしさや切なさや心細さを、残酷という薄い皮膜で包んだ生き物だから。彼女達が急速に女へと変わる、それまでのほんの短い時間をフィルムに焼きつけることに成功して名作となった映画は数知れない。『ロリータ』のスー・リオン、『時をかける少女』の原田知世、『ミツバチのささやき』のアナ・トレントらは、それぞれの作品の中で永遠の少女であり、その聖性は、抜けるような青空の下の芝生の庭や、ラベンダーの温室や、火の粉が立ち昇る暮景の火渡りという“向こう側”が感じられる遠景あってのものだ。

だから、私が生まれて初めて舞台上に遠景を観たマームとジプシーの『しゃぼんのころ』で主人公が14歳の少女なのは、決して偶然ではない。人を傷付ける強さと、手にしたナイフで自分も傷付く弱さ、それなのに手加減しない残酷と無意味、無意味という美しさ、そこから稀に生まれてしまう哲学。少女だけが持つこうした揺れを、作・演出の藤田貴大はある手法とシンクロさせ、そこから遠景を導き出したのだ。

「しゃぼんのころ」公演

「しゃぼんのころ」公演
【写真は「しゃぼんのころ」公演から。撮影=飯田浩一 提供=マームとジプシー 禁無断転載】

あとから聞いた話では、マームとジプシーはこれまでの全作品で14歳を扱っているというが、『しゃぼんのころ』も例にもれず登場人物が全員14歳。女の子達は可愛いものが大好きで、連れだってトイレに行き、特に意味なく「マジで?」「ヤバイ!」を繰り返し、理由などなく声を立ててコロコロと笑う。けれど3人がふたりになった時には必ず、そこにいないひとりの悪口を言う。そこにいないひとりは、自分が確実に悪く言われていること、別の時間には自分がふたり組の立場になることを知っている。勇気を振り絞って本音を言うのは妄想の中だけ。男子同士のコミュニケーションはさらに飾り気がなく、いじめる/いじめられる、親密/寛大の境界線上の危うさをむき出しにしながら、ぶっきらぼうに続く。つまり今、日本中に無数に存在する少年少女達がそこにいる。

物語はふたつの軸で進む。ひとつは、ひとりの少女の家出。彼女はBFができたことで友人との間に亀裂が入り、もともと辟易していた学校での無神経な(振りをお互いに続ける)サイクルを断ち切り、河原に家出する。川をはさんで学校と反対側にあるその場所は、学校にはない正直な時間があると思われたし、学校が“過ごす”ものではなく“観察する”対象になるだけで気分が軽くなる。けれど家出仲間との間には学校とは違う2対1の関係が生まれ、学校にはないリアルな死があり、当然のようにそこにも学校が流入してくるのだった。私はここで、風がそよそよと吹き、無性に心がザワつく河原を感じた。客席数50前後のSTスポットに、一面にくるぶしあたりまで雑草が生えた広い河原を観た。川と、その向こうの河原を挟んだ、近くて遠い中学校の校舎を観た。少女達の“ここ”から、地続きなのに遠い“あの場所”を、彼女達と一緒に臨んだのだ。そのビジョンを誘発されるには、もうひとつの軸が準備されなければならない。高い声の「カワイー」と低い声の「何アレ」を瞬時に使い分ける冷酷な少女達と、笑っているのか怒っているのかわからない声で喋る感情乏しい少年達。彼女達が14歳の心と身体で必死で受け止めている家庭の事情だ。これを引き出すために藤田が多用するのは、巻き戻しと別アングルからの再生である。14歳の生態を追っていたストーリーが突然、だが唐突とは感じられない滑らかさで、あるシーンがリピートされる。それによって、最初は見えなかった角度が見え、見えていたものが影になり、その影の中から、第2の軸である「あんな意地悪なことを言っていた女の子、彼女にはこんな事情があって」という別の物語が繊細な羽ばたきと共に立ち昇るのだ。幾度も仕掛けられる、時間の遡りと角度の変更を伴うリピートによって、物語の空気に震えが生じ、それが14歳が抱える揺れと重なる時、私達は劇場の客席で奇跡のような目眩を起こす。

「しゃぼんのころ」公演

「しゃぼんのころ」公演
【写真は「しゃぼんのころ」公演から。撮影=飯田浩一 提供=マームとジプシー 禁無断転載】

やはりあとから聞いたところによれば、巻き戻しと別アングルからの再生は、すでに藤田の得意とするところらしい。だから演劇はもう、こうしてマームとジプシーがいる以上、遠景という点で映画に引け目を感じなくていい。広い校庭を突っ切って校門まで歩くセーラー服を映さなくても、屋上から見渡す「私達の小さな町」という画がなくても、遠景をイメージするのではなく、はっきり観ることができるからだ。そしておそらく、藤田の手によって生み出される繊細で波及力のある震えはこの先、遠景以上のものを観客にもたらすのだと思う。そのバイブレーションがどれだけ私の五感を揺らすかを、この先の作品で大事に確かめていきたい。
(初出:マガジン・ワンダーランド第198号、2010年7月7日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
徳永京子(とくなが・きょうこ)
1962年、東京都生まれ。演劇ジャーナリスト。小劇場から大劇場まで幅広く足を運び、朝日新聞劇評のほか、「シアターガイド」「花椿」「EFiL」などの雑誌、公演パンフレットを中心に原稿を執筆。東京芸術劇場運営委員および企画選考委員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/tokunaga-kyoko/

【上演記録】
マームとジプシー「しゃぼんのころ
STスポット(横浜)(2010年5月26日-31日)

脚本・演出:藤田貴大
出演:青柳いづみ 召田実子 吉田聡子 伊野香織  斎藤章子 荻原綾 波佐谷聡  横山真 尾野島慎太朗

スタッフ:
舞台監督 森山香緒梨
照明 吉成陽子
音響 角田里枝
演出助手 吉田彩乃、舘 巴絵
宣伝美術 本橋若子
制作 林 香菜
提携 STスポット
協力 NINGENDAYO.

チケット料金:予約 2000円/当日券 2200円

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