中野成樹+フランケンズ「寝台特急”君のいるところ”号」

◎「大人ままごと」のおもてなし
小畑克典

寝台特急公園にはすでに何人か年かさの子たちがやってきていて、砂場のへりに固まっている。目が合う。いぶかしげに、あるいは値踏みするかのようにわたしを見つめる何対かの目。沈黙。
リーダー格と思われる女の子が、わたしの足下から50センチ彼ら寄りの辺りを指して、その指を左右につーっと動かす。

「そこからこっちが、中。」
「え?」
「電車の中。そっちがホーム。」
「あぁ、」
わたしはさっそく電車に乗り込もうとする。
「だめ!そこはドアじゃないの。寝台特急だから、ドアははじっこ。」
わたしは一度横に移動して、そこから見えないラインの「向こう側」に踏み出す。
「じゃあ、あなたは…頭のヘンな人ね。」
「え?」
「頭がヘンなんだから、しゃべっちゃだめよ。しゃべらないけど、見てるのよ。」
「あぁ。」
「で、あたしが、お嫁さん。このコがおムコさん。このコがお医者さんで、このコが車掌さん。」
「頭がヘンなのはイヤだ。」
「じゃ、入れてあげない。」
「…じゃあ頭のヘンな人でいい。」

わたしはあっさりあきらめて、適当に腰を下ろす。先に来ていた子たちは、砂場のへりとバケツを使って寝台を用意している。車掌さんが彼らの間を忙しく歩き回る。まあ良い。わたしは頭のヘンな人になって、彼らを眺めていることにしよう。多少のルール違反は大目に見てくれるだろう。何といったって頭がヘンな人の役なんだから…

* * *

ままごと遊びは「お約束」を一つ一つ共有し、積み上げながら世界を創る過程である。参加者たちは虚実の間、見る者と見られる者の間を自在に行き来しながら一つの世界を織り上げる。「芝居は大人のままごとである」と言い切るのは乱暴だけれども、「展示品としての芝居」と「鑑賞者としての観客」という息苦しい関係を乗り越えるための、一つのヒントにはなるだろう。そして中野成樹+フランケンズの「寝台特急”君のいるところ”号」は、まさに演劇が手の込んだ「大人ままごと」であることを、冒頭から終幕まで、懇切丁寧に、一つずつ明かしながら、観客をガイドしていくのである。

冒頭「役柄を演じてない」様子をした複数の役者が入場し、ギョーザの具について語り始める時点で「この場はどうしようもなくこまばアゴラ劇場である」ことが強調される。「ですが」、ここは寝台列車の中である。役者が舞台上でそう名付けるからである。もしそこで役者が「ここは山手線の車内という設定です」と言えば、そこは山手線の車内である。「ここは、寝台列車の芝居を稽古している稽古場という設定です」と言えば、そこは稽古場である。「ここは、寝台列車の芝居を稽古している場面が演じられている舞台上という設定です」と言えば、そこはどこかの劇場の舞台である。

それら選択肢のどれを選ぶかは、通常暗黙のうちに観客に任されている。芝居の創り手は、そんな自明のお約束は観客が暗黙のうちに了解すればよいと思っているし、観客もそんな設定はほぼ暗黙のうちに了解しているつもりでいる(けだし「説明台詞は余計だよね」)。しかしその了解は、双方の勝手な思い込みに過ぎないかもしれないし、逆にその思い込みが食い違う余白にこそ「芝居について想像力が働く余地」があるともいえる。

寝台特急
【写真は「寝台特急"君のいるところ”号」公演から。撮影=鈴木 竜一朗 提供=中野成樹+フランケンズ 禁無断転載】

フランケンズはそこで敢えて明示的に「これは寝台列車です」と口に出して、想像力の余地を削ってみせる。同時に「おそらく」「たぶん」という留保を付け加えることも忘れない。だから、観客はもし好むなら「ですが」と異議を申し立てる余地を与えられている。こうして炙り出された緩やかなコンテクストの共有が、まずはこの芝居の大きな枠組となる。それはまた、観客に対する「目の前に展示される演劇を鑑賞して帰るだけではすみませんよ。あなたにはこの大人ままごとの中で『観るだけの役』がきちんと割り振られているんですよ」という念押しでもある。

そうした細かな念押しは、実はこの芝居のいたるところに埋め込まれている。舞台はあからさまに上手・下手で途切れ、その先にむき出しの劇場の壁が見える。役者達の衣装は現代日本人の服装から大きくかけ離れていなくて、むしろ「いまどき」風なTシャツや靴が目につく。照明や音楽はあたかも役者の合図を待っていたかのように変化する。舞台奥には線路のレールが床面に対して垂直に飾られる。乗客を演じる役者達は、カーテンを閉める「ふり」をするときに「しゃっ、しゃっ」と声を出す。すべてがまるでリアルとはかけ離れている。

フランケンズは「それがこの大人ままごとのルールです」と言うだろう。ままごとにはままごとのルールがある。砂場にひいた一本の線を踏み外せば「谷底に落ちて死んでしまう」し、「しゃっ、しゃっ」と口に出さなければカーテンを引いたとはみなされない。文字通りのリアルである必要は無い。これはお約束だ。でも、オードブルの詳細にはこだわろう。「しょっぱくて冷たくて名前のよく分からないもの」だったことにしよう。いかにもリアルないい間違い。この会話はリアルですか? いやいや。これも充分に大人ままごとのルールの範囲内。所詮作り物ですよ。そうしてフランケンズは「これは所詮作り物である」ということを、わざわざ懇切丁寧に、観客に示しながら芝居を進行させる。これではとても劇空間や物語に感情移入できやしない。僕達観客は、その苛立ちを抱えながら客席に座っている。

が、ここで一人、観客と同じ苛立ちを共有する(あるいは共有しているように見える)人物が登場する。斎藤淳子が演じる「狂女」である。医師とボーイが彼女のコンパートメントに誤って入ってきた直後、彼女は言う。「今の人たち私のこと見えてました?」観客はそこで彼女に対して深い同情を禁じえない。というのも「その場にいるのにもかかわらず、いないように取り扱われる」境遇は、劇場内の観客も同様だからである。「見えてるならどうして助けてくれないんです?」と狂女。「見えてるのにどうして助けてあげられないんです?」と観客。

狂女はこの「大人ままごと」のみそっかすである。1人だけとしかさの子供たちの中に紛れ込んだみそっかすちゃんは、みんなと一緒にキャーキャー言いながら鬼ごっこの鬼から逃げ回るけれど、つかまっても鬼になることはない。ままごとの中でお約束を破る行為に及んでも構わない。線から足を踏み外しても地獄に落ちないし、「おうち」の中で訳の分からないことを言っていても咎められることはない。それと同様にこの「大人ままごと」の中で、彼女の台詞はたわごとであり、彼女の挙動は物語の進行に貢献しなくとも構わない約束となっているのである。

一方われわれ観客も、同じ劇空間にいる事を約束させられているのにもかかわらず何のアクションも許されないことを、ひそかに不当だと感じている。そしてそれは通常わたしたちが芝居を観るとき、暗黙のお約束として押し殺している不快感でもある。斎藤淳子が登場し、その不快感を共有してくれる(ように見える)ことをきっかけにして、わたしたちはやっと劇世界に感情移入することができる。ただし、狂女にではなく、物語の「観るだけでアクションを許されない役」を割り振られた自分たちに。

この直後の、素に戻った役者達のシーン、学芸会風の車外風景のシーンはもちろん「この出し物は大人ままごとであること」「従って、創り手も観客も舞台上で行われる名付けと役割分担のルールに従うべきこと」の再確認のプロセスである。だからこそ、演技が「再開」されるとき、それは、その約束の被害を蒙っている斎藤淳子からやり直されなければならない。「見えてました?」「いえ、見えてません。そういうお約束です」。

しかし「その場にいるのに、いないように取り扱われる」不利益は、逆に「その場にない(あるいはない約束になっている)ものが見える(あるいは見えてもよい約束になっている)」特権へと反転しうる。それはちょうど、鬼ごっこでもみそっかすは鬼にならない特権があるのと同様である。狂女には、本来死者にしか見えないはずの天使を見ることが許される。観客にも天使を見ることが許される。舞台奥からの彼女の視界は、客席からのわたしたちの視界とぴったり重なる。天使が振り向く。「見えてません。…いえ、見てました」。あ、そうか。わたしたちも、見てました。初めから、見えていました。ずっとここにいました。

ここでやっとわたしたちは、創り手達は最初からわたしたちを無視していたわけではなかったのだと気がつく。わたしたちは、ここにいる。だから、その列車は「君のいるところ」号と名付けられている。創り手達は、わたしたち観客を「観ているだけの役」に押し込んでいるかのように思わせながら、わたしたちのことが見えていないように見せかけながら、わたしたちの手をそっと引いてくれていたのだ。少しだけじらしながら。あからさまにみそっかすちゃんを甘やかさないようにしながら。そうやって彼らは、劇場を訪れたわたしたちに最大限のおもてなしを差し出してくれていたのだ。

ラストシーン、ボーイと女性をつなぐ「運命の赤い糸」は、狂女にだけは見えるようだ。当人達にもわたしたちにも見えない。いや、わたしたちには「見えている」お約束で良いのかもしれない。糸は切れたのか、結ばれたのか、ボーイは女性と結ばれたのか、それはボーイの妄想なのか、女性の妄想なのか、狂女の妄想なのか、それとも幸福な大団円を願う観客の妄想なのか。結末はここで初めて一切の約束を離れ、わたしたちの想像力に委ねられる。

* * *

「今日は何をして遊んできたの? 」
「お芝居。」
「あら。どんなおはなし?」
「寝台特急で、夜、おヨメさんが死んで、天国に行く話。」
「…あなたは何の役だったの?」
「観てるだけの役。」
「え?」
「観てるだけ。頭がヘンな人だから。」
「あらあら、それはつまらなかったでしょう。」

わたしがどれほど楽しい時を過ごしてきたか、その場でいかに自分が大切にされていたか(あるいは少なくとも自分がそう感じていたか)を上手に説明することはとても難しい。なぜならそれは、自ら劇場に足を運んで初めて味わえる楽しみ、「観るだけの役」を(たとえ手を引かれながらであろうと)立派に務めてこその特権的な快楽なのだから。だから、わたしが口に出すことの出来る精一杯は、せいぜいこれぐらいなのだ:
「こんどは一緒に行こうよ。お芝居、とっても楽しいんだヨ!」

劇評を書くセミナーこまばアゴラ劇場コース課題作。初出:マガジン・ワンダーランド第198号、2010年7月7日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
小畑克典(おばた・かつのり)
1967年東京都生まれ。会社員。ブログ「小劇場中毒」。

【上演記録】
中野成樹+フランケンズ「寝台特急”君のいるところ”号」(Wi! Wi! Wilder2010 参加)
こまばアゴラ劇場(2010年5月20日-30日)

作: ソーントン・ワイルダー『寝台特急ハヤワサ号』より
誤意訳・演出:中 野成樹
キャスト:
フランケンズ
└村上聡一、福田毅、洪雄大、 竹田英司、田中佑弥、野島真理、石橋志保、斎藤淳子
ゲスト
└小泉真希

スタッフ:
舞台監督:井関景太(有限会社 るうと工房)
照明:高橋英哉
音楽:竹下亮
美術:細川浩伸(急な坂アトリ エ)
制作:加藤弓奈

料金:全席自由前売り2800円、当日3000円、高校生 以下1800円(前売り・当日とも)

提携:(有)アゴラ企画・こま ばアゴラ劇場
主催:中野成樹+フランケンズ


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