中野成樹+フランケンズ「寝台特急”君のいるところ”号」

◎ホンモノを構成する重要なソーントン・ワイルダーのニセモノに東京で出会う
髙橋英之

寝台特急ホンモノに出会う旅は、必ずニセモノから始まってしまう。それは、ホンモノであるがゆえに、数多のニセモノが登場してしまうためだが、そのニセモノの中には時として単なる偽物として切って捨てることができない存在になってしまうものがある。『寝台特急“君のいるところ”号』がそうしたニセモノのひとつであるかどうかは、こまばアゴラの席に着いた時は知る由もなかった。不幸にして、中野成樹+フランケンズという名前も、ソーントン・ワイルダーという名前も、全く知らなかったのだから。

作品は、いきなり女性(野島真理)が餃子の作り方を語るところから始まる。その昔に別役実が自作『白瀬中尉の南極探検』について、「この題名で白瀬中尉が本当に南極を探検する話だったら、それこそ驚きでしょう」というようなことを語っていたが、この作品はその意味ありげな冒頭が決して不条理劇の開幕を告げていたわけではなく、とても素直に寝台特急を舞台にしているようだった。そして、どうやらニューヨークからシカゴに向かうものであることが明らかにされたあたりから、ぼんやりとした違和感が積み上がり始める。なんだか、違う。ありえないのではないか。そんな感じが目の前の演技やセリフに集中できなくさせてしまう。乗客の一人である医者(洪雄大)が、肝硬変の放射線治療や温熱療法について口にする。どうやら講演を行うようだ。名声を求め、野心を隠さない。途中で、この医者が役を降りるシーンがある。本来であれば、おそらくはそうした部分こそがこの作品の工夫に違いなく、作者が観客になにかを伝えようとしている見せ場なのだろうとは感じるのだが、そんな工夫をはるかにしのぐ違和感がどうしてもぬぐえない。なぜ、医者が、よりによって寝台列車なんかに乗っているのか。

以前、ニューヨークより北にある都市ボストンからシカゴまでアムトラックの寝台特急に乗ったことがある。出発地は異なるが、オハイオ州を通り、インディアナ州を抜けて、シカゴに向かう道程は途中からは全く同じだったはずだ。しかし、アムトラックでの長距離移動は言ってしまえば貧乏旅行であり、百歩譲って旅情を楽しむ酔狂な旅程でしかない。寝台列車といっても、半分くらいの席はやや広めの座席に毛布を持ち込んだだけ。そこで実際に遭遇したのは、ディスカバーカードを持ち歩いているであろう家族連れや、バックパックをかついだ若者たち。確かに、眺望のよい個室にはアメックスのゴールドカードを持っている人たちが乗っていたかもしれないが、間違ってもシカゴの学会で講演をして名声を高めようなどという野望をもつような医者が20時間近くもかけて列車に乗っていることはありそうにない。ニューヨークからなら、なおのことだ。ニューヨーク・ラガーディア空港からシカゴ・オヘヤ空港に向かう路線はアメリカンやユナイテッドはじめ多くのシャトル便が飛び、ディスカウント・チケットの選択肢も多い。何よりも、3時間以内で到着するのだ。それを避けて、あえて寝台列車に乗っている医者とはどういう人物なのか。

寝台特急
【写真は「寝台特急"君のいるところ”号」公演から。撮影=鈴木 竜一朗 提供=中野成樹+フランケンズ 禁無断転載】

そうこうしている間に、舞台にはやや唐突にドイツ語らしきものを話す人物(竹田英司)が現れてくる。前後のシーンで、オハイオ州やインディアナ州という名前も強調されている。そうだ、イギリス系やフランス系に比べて、やや遅れてやってきたドイツ系移民はこのオハイオ州やインディアナ州のルートをたどって、シカゴを北上しウィスコンシン州のようなところに大きな集団をつくったのだった。そういうことなのか。ドイツ移民が苦しんだ時代。とすると、この作品の時代背景は現代ではないのかもしれない。であれば、当然アムトラックではないのだろう、これは。いまフィラデルフィアの郊外の鉄道博物館にその豪華な車両が保存されている世界に冠たるペンシルバニア鉄道もしくはニューヨークセントラル鉄道。その黄金時代ということであれば、医者が寝台列車に乗っていても不思議はない。いや、きっとそうに違いない。冥王星がどうのこうのというエピソードは、中野成樹の現代版アレンジであって、そういう細部に“誤意訳”ということの意味があるのだな。そう理解したのは、場面もかなり後半になってからだった。

そのように納得し始めると、夫との旅の途中で心臓病の発作を起こしたハリエット(小泉真希)が天使たちのささやきに導かれて梯子を登っていくシーンは、とても美しく、きっとここがこの作品のクライマックスなのだろうと、ようやく舞台の波長と観客席にいる自分の波長がシンクロし始めたことに安堵を覚える。シカゴの治療施設に連れて行かれようとしている狂女(斎藤淳子)が自分もその梯子を上ろうとして発する「こうして待ってるだけで、なにかの役にたつのかしら?」という台詞にドキリとして、思わず反芻して味わう余裕も出てきた。この作者がきっと敬虔なアメリカ人に違いないというような分析的な視点も作動し始める。ようやく、自分はこの作品の観客になれた。

ところが、そう思ったのもつかの間、最後のシーンに至って再び混乱させられてしまう。シカゴの駅に到着した若い女性(石橋志保)が、コーヒーを誘われた若い男(田中佑弥)を追いかけそうになるのだけれども、実はボーイ(福田毅)と結ばれる。ご丁寧に、美術を駆使して赤い糸を描いてみせてのハッピー大団円。これは一体なんなのか。なんだか突然別のものが最後の付け加えられたような違和感。もちろん、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のカデンツァがおなじみのクライスラーのものではなく、不協和音も交えてのシュニトケのものになっている演奏を初めて聞いたときにもたしかに違和感はあったのだ。ただ、今回の観劇時の違和感が、そういう類のものであるのかどうかは観客席にいる間分からなかった。初めてシュニトケ版に出会ったときに、どうしたのだったか。それは、調べたのだった。原典たるベートーヴェンの作品に、シュニトケがカデンツァとして様々な他の名曲を紛れ込ませているというような秘密や、それを好んで弾くクレーメルのような演奏者がいるということなどを。

原作とされている『寝台特急列車ハヤワサ号』を図書館で借りて読んでみた。やはりそうだった、この作品は1930年という極めてハッキリとした時代設定がなされていた。そもそも、ワイルダーは1929年の世界恐慌から1933年のシカゴ万博の端境期にこの作品を発表していたのだった。ついでに、英語の原著を読んでみた。日本語訳がいくつか誤っていることに気がついた。ボーイ(英語ではporter)の英語が、少し教養を欠く訛りをわざと強調していることも分かった(例:I don’t know, sir.をI dono suh.としている)もちろん、こういった作業は、単なる自己満足に過ぎない。中野成樹は、世界恐慌直後の米国を舞台としているこの作品を、リーマンショック冷めやらぬ現代になぞらえてしまうような凡庸な“誤意訳”など採用していなかったのだ。そして、もっと自分自身の作品を凝視して欲しいと言うに違いない。せっかくのブレンド感を、そんな無粋な分析的な視点で見られても迷惑千万だと。

しかし、これは「ワイワイワイルダー2010」と称するイベントの先頭バッターとして、「ソーントン・ワイルダー『寝台特急ハヤワサ号』より」という看板を掲げた作品としては宿命的なものであるに違いない。そして、実のところ『寝台特急“君のいるところ”号』は、その役割を見事に果たしたのだ。これが、ワイルダーへの入口であると。中野成樹は自分の作品をニセモノだというが、それはホンモノを構成する重要なニセモノ。
原典ただひとつだけでホンモノの世界が構成できるものなど、きっと小さすぎる存在なのだ。大きなホンモノには、数多くのニセモノがある。そして、そのニセモノたちが実はホンモノの世界を補完していく。いまとなっては、『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』を欠いた『ハムレット』はもはや存在しないだろう。つかこうへいの『松ヶ浦ゴドー戒』と別役実の『ポンコツ車と五人の紳士』を知り、第三舞台の『朝日のような夕日をつれて』を観て、いとうせいこうの『ゴドーは待たれながら』に出会うに至っては、もはや原典たるベケットの『ゴドーを待ちながら』を観ることなくそのホンモノを知った気分にすらなっていて、原典をアイルランドのゲーツシアターが上演したものを観たのは、『松ヶ浦ゴドー戒』との出会いから10年以上もたった後であった。おそらくそれでよいのだ。ホンモノには、数多のニセモノを経る迂遠な回路を通じてしか近づけないし、その迂遠な回路までを含んでホンモノの世界は構成されていくのだ。

それで、もう一度観てみることにした。初日とは違う、下手寄りの席で。何が原典にあったシーンで、どの部分が中野成樹オリジナルであるかが、ほぼ完全に頭に入った状態で。するとどうだろう、不思議なことに、ハリエットが梯子を昇るシーンでは、眼がうるんできてしまった。さらには、あれほど違和感を感じた最後のハッピー大団円のシーンが、それこそ中野成樹の言葉の受け売りではないのだけれども、なんだかとてもうまくブレンドされている感じがした。最初から最後まで、進行役にはならなかった下段1号の女とボーイが、この寝台列車の一夜で、天使による昇天やら、狂女による箴言をまといながら、まるでその最後のシーンに向けて突き進むかのように溶け合っていくブレンド感。それは、まるでベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のシュニトケ版カデンツァのような溶け込み方だったかもしれない。そして、この作品もまたシュニトケ版のようにホンモノの一部として定着していく予感がする。
(観劇日時:2010年5月20日19:30+2010年5月28日19:30)

劇評を書くセミナーこまばアゴラ劇場コース課題作。初出:マガジン・ワンダーランド第198号、2010年7月7日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
髙橋 英之(たかはし・ひでゆき)
1963年生れ。京都府出身。マサチューセッツ工科大学修士。現在、ビジネスパーソン。

【上演記録】
中野成樹+フランケンズ「寝台特急”君のいるところ”号」(Wi! Wi! Wilder2010 参加)
こまばアゴラ劇場(2010年5月20日-30日)

作: ソーントン・ワイルダー『寝台特急ハヤワサ号』より
誤意訳・演出:中 野成樹
キャスト:
フランケンズ
└村上聡一、福田毅、洪雄大、 竹田英司、田中佑弥、野島真理、石橋志保、斎藤淳子
ゲスト
└小泉真希

スタッフ:
舞台監督:井関景太(有限会社 るうと工房)
照明:高橋英哉
音楽:竹下亮
美術:細川浩伸(急な坂アトリ エ)
制作:加藤弓奈

料金:全席自由前売り2800円、当日3000円、高校生 以下1800円(前売り・当日とも)

提携:(有)アゴラ企画・こま ばアゴラ劇場
主催:中野成樹+フランケンズ

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