◎それでも「そっと前進」する
關智子
(‘This is a tragedy of a man, who could not make up his mind.’)
ローレンス・オリヴィエが監督・主演を務めた映画『ハムレット』はこの言葉から始まる。叔父クローディアスに殺された父王の仇をとろうとしながら、主人公ハムレットはその決定的証拠がないためになかなか目的を果たせずにいる。ハムレットを決断できない男として見る見方は現在では広く受け入れられており、あらゆる上演でこの解釈が取り入れられている。中野成樹+フランケンズ(以下「ナカフラ」)『ゆめみたい(2LP)』も部分的にはその流れを汲んでいると言えるだろう。決断できない男ハムレットを描いた他の上演作品やオリヴィエの『ハムレット』とこの作品が異なっている点は、前者は作品を提示するにあたってなんらかの解釈を採択すると「決断」しているのに対し、後者は作品の提示の仕方そのものも全面的には「決断」しない。
劇評を書くにあたって、シェイクスピア(William Shakespeare)の『ハムレット』(Hamlet, 1600-01)のあらすじを説明することは必要だろうか? と一瞬ためらうほどに、この作品は上演されることが多い。しかもテクストにおける解釈の余地が多く残されており、単純にあらすじを説明することはほとんど不可能だろう。したがってここでは改めてテクストの内容を説明することは省略する(内容をご存じない読者の方は劇評の最後に付した筆者によるあらすじをご参照いただきたい。だが、上記の理由からこのあらすじは不完全で偏った視点によるものであることをあらかじめ注記しておく)。この解釈の余地の幅広さは、シェイクスピア文学研究が膨大な年月をかけてなされており、かつ現在も新しい解釈を求めて研究が行われていることを考えれば分かるだろう。そしてそれらの解釈は常に上演に刺激を与え、取り込まれてきた。
それは翻訳においても同じである。シェイクスピア作品は翻訳という手順を踏まなければ、日本で上演することはまだまだ難しい。この翻訳という行為は既に翻訳者の解釈を含むものであり、テクストをより豊かにすることも貧しくすることも可能である。これまで『ハムレット』は他に例がないほど多く翻訳されてきた。つまりそれだけ異なる解釈が提示されてきたということである。とりわけ難解なわけではないにも関らず、これだけ解釈が多い作品もそうそうないだろう。それゆえに現在改めて『ハムレット』を取り上げることはハードルが高く、困難だと考えられる。
という文脈があることを踏まえて、長々とお待たせしたが、ようやく『ゆめみたい』の話に入ろうと思う。が、実はこれほどまでに前置きが長くなったのは拙評だけではない。そもそもナカフラがこの『ゆめみたい』上演に至るまでのプロセスが約2年という長いものだったのである。この長い作品(実際に全部上演すれば4時間以上かかると言われる)を90分にまとめるという劇場側からの面白いが難しい条件をクリアするべくナカフラが取り組んだ、いわば「仕込み」のような過程は観客たちと共有され得るものとなっていた。長島確は翻訳を随時ネット上で公開し、『ハムレット』の勉強会のような『ハムレット講座』も行われた。それらは単なる宣伝ではなく純粋に楽しめるものであり、かつ観客の教育や作品の質の向上などにもなっていたという点で評価できる。今回の上演にはドラマトゥルク(熊谷保宏)が参加しており、その役割がちゃんと機能していたと考えられる。
この作品において観客に最も衝撃を与えたのは、恐らく壁の存在だろう。舞台上と客席の前半分は巨大な壁によって左右に仕切られており、前の方に座ると舞台の半分しか見えないことになる。筆者は両方見える位置に座り、理由は後で述べるが、観劇後そのことを激しく後悔した。壁には2箇所通り抜けができる部分があり、俳優たちはそこを通って左右の舞台を行き来する。「昼だか夜だか、これは不思議にへんだ」「時間のジョイントが外れちゃったんだ」という台詞があるように、左は夜のように暗く、右は明るい昼のようである。昼だか夜だか分からないというだけではなく、壁が中央と舞台奥に立てられていることで、外と内の区別もつかなくなってくる。右側舞台奥の壁には窓が開けられており、時折そこからトロンボーンの奏者が見えることから、舞台奥が城内、手前が城外とも考えられるが、中央の壁がそのような単純な区別を否定する。舞台の左右も特にどちらが城内/外という区別が付けられず、両方外の場合もあれば両方内とも考えられる。このような昼/夜、内/外の境界が曖昧な様は正に「ゆめみたい」であり、そのことは演出である中野成樹本人が当日パンフレットの中で次のように語っている。
作品のキャッチコピーが「違う 違わない それはどうでも良い」となっていることからも、ここでは相対する概念を並列しその境界を自在に行き来することで、二項対立的思考を捨てざるを得ない状況に観客を誘っているのである。一方を選択することで他方を捨てるという行為を止め、どちらでもあり得るという新たな可能性を開く。これが、『ゆめみたい』という作品の根底を貫いている考え方であるように思われた。
だが、これは筆者が左右両方の舞台を見たからこその考察である。実際に両方見えると分かることは、この壁は必ずしもドラマの展開に必要なわけではないということである。多くのシーンで登場人物たちは両方の舞台を行き来しながら話を進めるし、左でハムレットとホレーショたちが、右でオフィーリアとレアチーズがそれぞれ話しているというようなシーンもあるのだが、壁がなくても観客は演劇的なお約束によって、左右それぞれが別の場であるということを認識できただろう。したがって、この壁は何か意味を持たされているわけではない。では、何なのか? それは、一部の観客に「見えない何かがある」と思わせるための装置だと考えられる。
ここからは推測しかないのだが、片方の舞台しか見えないという状況に置かれた観客は否が応でも「反対側では何が行われているのか?」と考えることを強いられるのではないだろうか。声や音は聞こえるが、台詞のない人物がいるのかもしれないし何か話の展開において重要な行為をしながら言葉を話しているのかもしれない。次第に観客は見えないものに囚われ、見えないものを想像の中で見るようになる。これはハムレットが置かれた状態と同じである。ハムレットは幽霊に、自分の知らない真実(王が先王=ハムレット・シニアを殺し、王座を奪った)を聞かされ、さらにその幽霊の語ったことが本当に真実であるかも定かではなく、とりあえず何か自分の知らないことが現実の裏で起きているらしいという、五里霧中の状態に投げ出されるのである。そしてこのことが、『ハムレット』という作品をスペンスに富んだミステリー劇たらしめている。『ゆめみたい』では、壁によってこのハムレットが感じている懐疑や焦燥を観客にも感じさせているという意味で、前方に座った方がよりハムレットに対して共感しやすい作りになっているのである。つまり、中央の壁は一風変わった舞台装置としてそこにあるだけではなく、むしろ『ハムレット』という作品の内容やハムレットの心情に沿うための装置だと考えられる。
前方に座った観客の方が全体が見える観客よりも、よりスリリングに、また劇的に感じられ楽しめ、それに対して後方に座った観客の方が『ゆめみたい』という作品の描き方をより俯瞰的に見ることができたのではないだろうか。どちらも体験するには2回以上見るしかなく、恐らくこのことに不満を覚える人もいるだろう。筆者も1回しか見られないと思ったから全体が見える位置を選んだ。だが、観劇とはそもそも1回で全てを見ることができないところにその醍醐味の一つがある。筆者は後方に座ったためにこの作品を俯瞰できる立場にいた。そしてこの俯瞰的な視線は作品自体が持っていたものでもある。
これまでの作品においてもそうなので恐らくスタイルのようなものなのだろうが、ナカフラの作品の演出は「ゆるい」。おもちゃのような衣装、小道具や長島訳による言葉遣いもあって、ダラダラふわふわとした現代的な世界観になっており、主人公ハムレットのいくつかある独白も重く思い悩んだ言葉というよりは自棄になり軽く投げ出されたかのようである。だがこのような現代人風の演出ももはや珍しくはなく、むしろ手垢のついたものになりつつある。…と思って見ていると、突然暗転し、登場人物以外の誰かのコメント(上演台本では「MC」と呼ばれている)が入る。それは「あ、ふーん、こういう入り方なわけねー」という内容の、劇世界の外部からの声であり、その妙に気の抜けたような斜に構えたトーンに客席からは笑いが漏れた。筆者も思わず笑ったが、それは愉快さからではなくどちらかと言うと、こちらの心を読まれたかのような気まずさを誤魔化すための笑い、してやられたというような時に漏れるものであった。作品は、ナカフラ流に『ハムレット』を上演しながらそれを外側から見ており、さらにはそれを見ている観客が抱くだろう考えすらも作品に取り込んでしまっている。「2LP」というネーミングからもレコードのダブルアルバムを意識して作られていることは読み取れ、当日パンフレットの中で音楽との関連が細かく述べられていることから、MCが途中に入るのも分かるが、ここではこのMCによって劇世界に浸りきることなく俯瞰しているような観客の立場を危うくするのである。つまり、俯瞰的な視線を持つ観客の心を代弁することで、そのような考えがあることも分かっている上で敢えてこのような演出にしており、目指しているのは別の次元であるということを表しているのではないだろうか。ゆるい態度と途中に入るMCは、『ハムレット』と『ゆめみたい』という作品両方に対する自己批判的な視線を感じさせる。そしてこの批判的な視線は、冒頭に述べたようにこれまで数多の上演があった作品を今改めて上演することの意味を自らと観客に問いかけるものである。
かくして話は最初に戻ってくる。これほどに上演回数が多い作品、ほとんどの解釈が出し尽くされておりできることは全てやられてしまっているのではないかと思われる作品は、観客の意識のこともあって、今新たに作って上演することが非常に困難である。『ゆめみたい』はむしろそのような状況を踏まえ、解釈の決定による危険性を危険性のまま、可能性を可能性のまま提示するということを行った。それはある種のメタシアトリカルな手法である。元々『ハムレット』という作品自体、劇中劇が行われ、ハムレットは演技論をぶったりすることからメタシアトリカルであると指摘されることが多い作品である。『ゆめみたい』は段ボールで作られたようなちゃちな王冠や、演出の中野が亡霊や役者として登場することからも、まるで『ゆめみたい』という作品の中で『ハムレット』がお芝居として演じられているかのようである。上演台本に面白いト書きがある。左側ではローゼンクランツとギルデンスターンが到着し、ハムレットに尋問されしどろもどろになっている所で、右側では「亡霊(?)が寝そべる。「もう限界だな」」ということが行われる、というト書きである。「もう限界だな」という台詞は上演では聞こえなかったが、この亡霊は中野である。この作品の演出(=中野)は最初に舞台上に現れてハムレットに物語の動機付けを行い、ここでももう一度現れ「もう限界だな」と言うのである。ローゼンクランツとギルデンスターンの苦しい言い逃れが限界だという意味とも取れるが、演出家としての言葉であるようにも思われる。その後彼は「役者(王)」として舞台上におり、劇中劇のシーンで劇中王かつ先王=亡霊=ハムレット・シニアとしてハムレットにもう一度復讐を促す、つまり物語の動機付けを行うのである。このような何重ものメタシアトリカルな描き方は、観客に複数の視点を与え、そして視点が増えることによって解釈の幅や可能性をも増やすと考えられる。
このような手法はもちろん危うさも持っている。もっとも危ういのは、『ハムレット』を知らない観客に対するアプローチの仕方である。『ゆめみたい』は『ハムレット』の内容やどのような文脈から見ることができるかを知っている観客にとっては興味深い上演だと考えられる。筆者も詳しくはないが、それでも『ハムレット』の内容は知っているし、他の上演もいくつか見ている。だが、初めて『ハムレット』に触れる観客にはどのように見えるのだろうか。それを筆者が知ることはできない。これまで述べてきたような楽しみ方とはまったく異なる楽しみ方があるに違いない。だが、このような解釈、楽しみ方を行った筆者にとっては、この上演が必ずしも『ハムレット』を知らない人にとって受容し易い作品だったとは考え難い。だが同時に、そもそも「分かる」必要があるのだろうか? 「分かる」とは何を指すのか? 私は「分かっている」のだろうか? という疑問が次々に生じる。分かる必要などないのかもしれない。疑問符が頭に渦巻いた状態で構わないのかもしれない。なぜなら、ハムレット自身が作中のほとんどをそのような状態でいるのだし、どうせ半分は「見えない」作品なのだから、と考えたりもするのである。
「そっと前進」というフォーティンブラスの言葉で『ゆめみたい』は始まり、終わる。中野は当日パンフレットの中で、「僕は『ハムレット』をやりたいと思いつつ、中野成樹の想いを表現しつつ、さらにはナカフラもやりたいのです。ナカフラって何? ルール、価値観の想像/創造です。まあ、そっと前進してゆきましょう」と述べている。『ハムレット』という作品は新たに上演するにはあまりに障害が多すぎる。言葉や上演回数の多さやそれに伴って生じる人々の先入観などが、ことごとく邪魔になりがちである。ナカフラはそれでも「そっと前進」している。賛否両論が分かれる作品だろう。だが、弊害が多いからと言って怖気づくことも、いっそ好き勝手にやろうとするような姿勢も彼らには見られない。少しでも可能性を開き、解釈の幅を広げようという真摯な思いがそこにはあり、そしてそれこそが今『ハムレット』を上演する意味なのではないだろうか。その歩みは「そっと」かもしれないが、だが確実に「前進」なのである。
(2011年12月23日の回観劇)
【『ハムレット』 物語概要】
(※あくまで拙稿をお読みいただく際の参考のためだけであり、かなりの省略が入っていることをご承知いただきたい。もし可能であれば誰のものでも構わないので翻訳をお読みいただくことをお勧めする)
デンマークのエルシノア城。先王が死んで2ヶ月経った後、真夜中になると先王の幽霊が現れるという怪異が起きていた。先王の弟クローディアスは先王の妻、つまり義姉のガートルードを娶って王位につき、先王とガートルードの息子である王子ハムレットは鬱々とした日々を送っている。そんな時、彼は友人のホレーショから幽霊の怪異を聞き、幽霊に会う。その先王、つまり父の姿をした幽霊はハムレットに、自分がクローディアスに謀殺されたことを告げ、仇を討つように言う。ハムレットは事が上手く運ぶように気が狂ったフリをする。
そんな彼の奇妙な行動を不審に思ったクローディアス、ガートルード、忠臣ポローニアスは、ハムレットの同級生であるローゼンクランツとギルデンスターンを偵察にやるが、まったく成果はない。ついにはポローニアスの娘でありハムレットの想い人であるオフィーリアを差し向けて真意を探ろうとする。が、ハムレットは途中でその計画に気づき、オフィーリアに「尼寺へ行け」(ナカフラでは「出家などしろ」)と暴言を吐く。
ハムレットは城を訪ねてきた劇団に、弟による先王殺害の芝居を打たせ、クローディアスの反応を見て真実を知ろうとする。芝居の途中で耐えられなくなって退出するクローディアスを見て、ハムレットは幽霊の言葉が真実であったと知る。ガートルードはハムレットを呼び出して叱責しようとする。その様子を陰から窺っていたポローニアスは、逆上したハムレットによってクローディアスと間違われて殺されてしまう。そこへ亡霊が再び現れ、ガートルードには手を出さないようにハムレットに言う。その言葉に従いおとなしくなったハムレットは、クローディアスによってイングランドへ送られようする。クローディアスは私書にハムレットを殺すようこっそり書いたが、この手紙は届く前にハムレット自身によって書き換えられ、代わりに同行するローゼンクランツとギルデンスターンが殺される。
父親であるポローニアスが殺されたことにより、オフィーリアは発狂し水死してしまい、ポローニアスの息子、オフィーリアの兄であるレアチーズはその元凶をハムレットであるとクローディアスに吹き込まれ、復讐を誓う。
ハムレットは紆余曲折を経てイングランドへは行かずデンマークへ戻ってくる。そのことを知ったレアチーズはクローディアスと策略を練り、ハムレットとの剣の勝負で剣先に毒を塗り、さらにクローディアスはハムレットの飲み物に毒を仕込む。
かくして試合は始まるが、あらゆる行き違いが生じてハムレットの飲み物をガートルードが飲み、毒の剣はレアチーズとハムレットの2人を傷つける。全てがクローディアスの策略であることを知ったハムレットは、彼に毒を飲ませて殺す。ハムレットが死のうとしたその時、城の門が隣国の若い王子フォーティンブラスによって破られ、ハムレットはデンマークの王位を彼に譲ると言い残して死ぬ。一連の出来事を語り継ぐように言われたホレーショは、フォーティンブラスにハムレットを丁重に葬った後に全てを話すと言い、フォーティンブラスはそれを受諾する。
【筆者略歴】
關智子(せき・ともこ)
大学院演劇学西洋演劇専攻。現代英演劇が主ですが基本的に雑食です。テクストと上演の関係が気になるので、暇さえあればテクストを読んでいます。ドラマトゥルクとか文芸部員とかいう存在にとても心惹かれています。
【上演記録】
中野成樹+フランケンズ『ゆめみたい(2LP)』
川崎市アートセンター(2011年12月23日-27日)
誤意訳・演出:中野成樹
翻訳:長島確
出演:村上聡一、福田毅、竹田英司、田中佑弥、洪雄大、野島真理、石橋志保、斎藤淳子、小泉真希、北川麗
トロンボーン:後藤篤
ドラマトゥルク:熊谷保宏
美術:青木拓也
照明:富山貴之
音響:サウンドウィーズ
衣装:今村あずさ
舞台監督:小林英雄
宣伝美術:青木正(Thomas Alex)
人形製作:NINGENDAYO.荻原綾
制作:加藤弓奈(中野成樹+フランケンズ)
小島寛大(川崎市アートセンター)、河合千佳(川崎市アートセンター)
主催:中野成樹+フランケンズ/川崎市アートセンター
助成:財団法人地域創造/公益財団法人セゾン文化財団
チケット料金(全席自由・日時指定・税込)
一般:3,500円
ユース:3,000円
高校生以下:2,000円
「中野成樹+フランケンズ「ゆめみたい(2LP)」」への5件のフィードバック