アトリエセンティオの8年

◎消費文化のサイクルから離れて(インタビュー)
 山田裕幸(ユニークポイント)+鳴海康平(第七劇場)

 東京・北池袋にあるアトリエセンティオが、8年間の活動を経て3月いっぱいで閉鎖になりました。ユニークポイントと第七劇場という二つの有力劇団の活動拠点であり、毎年開くSENTIVAL!という演劇フェスティバルの会場でもありました。アーティスト本位の運営、地方劇団の招聘、公演終了後に毎回開くトークが観客に好評でした。拠点の開設から閉鎖まで、活動のようすを両劇団の主宰者である山田裕幸さん(ユニークポイント)と鳴海康平さん(第七劇場)に伺いました。(編集部)

二人で先行契約

−まずアトリエを持ったそもそもの始まりから話していただけますか。

yamada01山田 私はそれまで、鳴海さんとはすれ違ったくらいで、よく存じ上げていなかった(笑)。あるところでたまたま会ったときに「拠点」の話をして、その数日後にインターネットの掲示板にそういう物件情報が出て「ちょっと見に行かないかい」って聞いたのが2006年3月です。私たちはセンティオのすぐそばで芝居(ユニークポイント「しるし」公演の稽古をしていて、それを中断してみんなでぞろぞろと歩いて見に行ったんです。

−劇団員のみなさんの反応は。

山田 団体で持つとなるといろんな段取りがあって、ややこしいじゃないですか。もしやるなら鳴海君と私が個人として持って、劇団が借りる体裁にするのがいいなと、最初に直感しました。それは当たりだった。劇団が直接運営することになったら、いろいろ面倒だったと思います。

鳴海 そうですね、そうだと思います。

−面倒とはどういう点でしょうか。

山田 いい物件だったのですぐにスタートさせたかった。だからまず個人でスタートさせて、劇団には後から言おうと考えていました。あとお金の面もありました。劇団で持ってしまって、毎月の収支を劇団員とシェアしようとすれば、またそこでいろいろな問題が生じます。それで間接的に劇団のサポートは受けたとはいえ、基本的には個人でやり始めようと。

narumi01鳴海 2004年のBeSeTo演劇祭を東京・早稲田周辺で開催したとき、山田さん、東京オレンジの横山(仁一)さん、Ort-d.dの倉迫(康史)さん、三条会の関(美能留)さん、(当時ジンジャントロプスボイセイの)中島(諒人)さんたちが実行委員会に集まりました。横山さんが私に声をかけてくださって、当時まだ早稲田の学生だった私が委員会に加わり、チームとして初めて山田さんと仕事をしました。それ以来ときどき山田さんと会って、私も拠点を探していると何度か話をしていました。2006年に山田さんから物件情報が出たという一報をもらい一緒に見に行きましたが、それまでカンパニー同士で、深い付き合いをしていたわけではありません。お互いの作品を見たりしていたぐらいの付き合いです。
 そのころ、利賀村での合宿などの経験から、アーティストが場所を持つことの有益性、メリットを強く感じはじめていて、山田さんと物件を見に行く前にも不動産を何軒か見ていました。今ではすっかり有名になった東京R不動産で物件を探し回っていました。でも、実際に劇団員と一緒に物件を見に行って話し合っても水場や交通費や防音のことなど、いろいろ問題があってうまく進みませんでした。山田さんに声をかけてもらってアトリエを見に行って、私も直感したんですね。劇団員と、最初の段階からある種のコンセンサスを取って運営していくのはなかなか難しい。劇団員も、私も、何が起きるか、どういう問題があるか、どんな利益と不利益があるかが肌で分かる状態ではありませんでしたから。それなら二人の直感を足してまずは二人で走らせてみよう。ゆくゆくはカンパニーメンバーにも実感がわくかもしれない。新たな問題が出てくるかもしれないけれど、まずはトップが責任を引き受けてやってみようというのが、あのスピードスタートにつながりました。

山田 2006年の4月1日からですね。ちょうど2006年3月の作品「しるし」のときに、昼の公演の後ミーティングを劇場でやって、みんなに「やることにしたから」と話したのをよく覚えています。下北沢のOFFOFFシアターでした。

鳴海 みんなびっくりしたでしょう。

山田 びっくりしてたね(笑)。確かに、私たちは利賀の経験があって、「演劇集団と場所」というものに何となくイメージがあったけど、劇団員にとってはよくわからないのが正直なところだったと思います。

−当時は稽古場を借りてあちこち転々としていたのですか。

山田 そうです。稽古のたびに、区民センターを渡り歩いていました。

鳴海 2006年まで私は早稲田大学の学生証がありました(笑)。それで学生会館などで稽古をしていました。

山田 ちょっと話が戻りますが、2005年に韓国公演をやったんですが、そのときにすでに行き詰まりがあったんですね。このままどうやって、何を目標にしていけばいいのかっていう。そんなときに2005年に運良く韓国に行って2006年にアトリエに出会った。その出会いがなかったら演劇人生が全然違ったものになっていたのはもう明らかです。アトリエを始めるきっかけっていうのは、もちろん拠点っていうイメージはあったんですけど、それよりも、このままやってたらダメだなっていう危機感があったんでしょうね。

− 韓国公演っていうのは、影響は大きかったですか。

山田 初めての海外でしたからね。本当に大変でした。2週間韓国にいて、2都市で公演して、日本に帰って来たときは、もう二度とするもんか、と思ったくらいです。たぶん、集団のキャパを少しだけ超えていたんでしょうね。そういう経験は、集団が強くなる反面、傷つく部分も出てきます。だけれど今の仕事の1/3は、韓国絡みのものだと思うと、本当にやってよかったと思っていますよ。それまでは一人の知り合いもいなかったわけですから。

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