KYOTO EXPERIMENT2013「使えるプログラム」

◎「劇は使える」という限定解除 ―『2013使えるプログラム記録集』から
 柳沢望

【表紙写真=©Satoshi Nishizawa 提供=使えるプログラム】
【表紙写真=©Satoshi Nishizawa 提供=使えるプログラム】

 国内でフェスティバル/トーキョーに次ぐ規模とも言われている京都国際舞台芸術祭(KYOTO EXPERIMENT)だが、そのフリンジ企画として、昨年に引き続き、「使えるプログラム」が今年も実施される(注1)。
 そのプログラムディレクターは「けのび」と名乗るグループの活動を積み重ねて来た実績はあるものの、まだ作家として評価が定まっていたとは言えない羽鳥嘉郎だ。むしろ、この20代の若手作家の評価は、KYOTO EXPERIMENTによる起用によって方向付けられたと言うべきかもしれない。その判断には、舞台芸術の未来に向けて舞台をめぐる状況を更新し続けるべきだという認識があっただろう。

(注1)「表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉20」の江口 正登「『使えるプログラム』のこと―『インストラクション』としての上演」参照。

 「使えるプログラム」は、上演系、ワークショップ系、支援系、記録集の刊行という四つの柱から構成された一連の企画である。2013年には、「ぷよぷよ」を生み出したゲーム作家、米光一成の作品『思考ツールとしてのタロット』が上演されたほか、文学や美術を横断するようなオルタナティブなカルチャーシーンで注目を集める作家、ni_kaを招き、iPhoneアプリのセカイカメラ(現在はサービス停止)を活用した拡張現実(AR)作品『キャラクターズ・リブ』が制作されるなど、既存の舞台芸術の文脈に収まらないキュレーションが行われた。批評講座やワークショップにおいても、見る、見せる、という関係の根底を問い直すような講義や試行が繰り広げられた。その詳細はこの春公刊された記録集に詳しい。

 2014年の企画概要も公式サイトで告知が始まっているが、舞踊批評家の武藤大祐によるダンス講座の成果発表会のほか、現代美術の文脈からはキュレーターの遠藤水城と作家の橋本聡を招き、科学館を舞台としたインストラクションによる作品の上演が予定されている。また、庭園史の研究家山内朋樹によって、庭園を劇空間として読み解くワークショップという企画もある。昨年度の成果とそこから生まれた問いを踏まえて、さらに一歩踏み込み、舞台芸術を拡張する試みが予定されているようだ(注2)。

 このように、劇場を中心とした舞台芸術の枠を広げて、他のアートの文脈を交叉させる発想は「劇は使える」というコンセプトによって貫かれている。一連の企画のなりたちには、ディレクターである羽鳥がその実践と思考を通じて基盤を設定した劇の概念の展開があるだろう。舞台芸術の未来を考える上で、その試みに注目すべき理由はどこにあるのか、少し考えてみたい。

(注2)公式サイトを参照。

 2013年の使えるプログラムには岡田利規が足を運んでいる。プログラムの参画者たちと対話して、記録集にもその発言が再録されているが、公式なゲストではなく、客席から発言していたらしい(注3)。
 このプログラムについて岡田利規は、自分は違う進み方を選んでいると表明した。それは、『ブルーシート』が受賞した第58回岸田戯曲賞の選評において、あくまで戯曲は上演のドキュメントとは違うはずだと保留していたことに通じるだろう。単純に言えば、劇場における上演という制度の中にこそ演劇の前衛があって、そこで戦ってこそ、制度に飼い馴らされない創造が可能だと言うかのような作家的こだわりが、この二つの機会に表明されていたと思われる。
 いずれにしても、「使えるプログラム」には、岡田が自分の姿勢を改めて根拠付けるよう促す類の挑発性があったと認めて良いだろう。では、「使えるプログラム」の演劇という制度に対するスタンスは、どのようなものだっただろうか。

(注3)記録集は公式サイトに無料でダウンロードできるPDFファイルが公開されている。岡田発言の抄録は記録集p.22から。以下、括弧内に示した頁数は、同記録集への参照である。

 「使えるプログラム」では、「劇の技術」が明確化されることで「劇が日常生活に役に立つ」事になるのだという(p.48)。ここで、演劇ではなく、劇と呼ばれているのが重要なところだ。演劇が特殊事例となるような、より一般的なものとして「劇」が想定されている。その射程は広く、2013年に行われた試みも多岐にわたる。そのなかでもわかりやすい一例として、記録集の表紙にも取り上げられているけのびの『おかず石』を見てみよう(p.40)。
 河原の石をひろって煮沸消毒し口に含む。同じ石を他の人も口に入れてみて、その感触を共に楽しむ。ワークショップとして実施された『おかず石』の企図は明白で、咀嚼して飲み込むという食事に関する慣習から外れて、口という身体器官の可能性を限定解除しようとしている。そこで、身体に生起する劇が見出される。石を口に入れること、互いに感触を交換すること、そこで起きる何かを劇と呼んでみるなら、劇場で行われる演劇という枠組みは狭いものに見えてくるだろう。
 もちろん、ここでは、「おかず」という食にまつわる慣習が活用されてもいる。身体を既存の慣習という限定から解除して、そこで劇を生起させるにしても、単にあらゆる慣習を退けることは実際不可能であり、慣習をどのように活用するのかもまた問題となるということが、ここにあらかじめ示されている。

【写真は「おかず石」から。撮影=©Satoshi Nishizawa 提供=使えるプログラム 禁無断転載】

 ともかくも、このような仕方で、劇は、より規定されない一般性の観点からとらえなおそうとされている。記録集をしめくくる総評において、プログラムに参画した江口正登は、演劇から劇へと「非規定性を押し広げ」るところに、演劇をジャンルとして枠付ける制度や慣習に取り込まれて劇が飼い馴らされてしまうことを避けようとするこのプログラムの姿勢を指摘している(p.48)。

 たとえば、エスリンの『不条理の演劇』において、演劇の既存の慣習(Convention)への対抗がキーワードであったように、既存の慣習からの逸脱は、20世紀を通じて「前衛」的な演劇の「実験」が絶えず試みたことだったと考えるなら、実験を意味する言葉を掲げる芸術祭でそのような試みが継続されるのは当然だと考えることもできる。しかし、そのように慣習の枠を外すことが、どうして、劇の技術の明確化になるのだろうか? そして、なぜ、劇が日常生活で「使える」ことになるのだろうか。
 総評において、江口も、より一般化することと、明確化することの間には、一見すると矛盾するように思われる両義的な関連がある事に注意を促している。そして、「明確化のためには曖昧さの確保が必要」であり、そこに矛盾は無いと主張しているが、その理路は明瞭とは言いがたい(p.48)。そして、この不分明さは、プログラム全体のわかりにくさにも通じている。
 ただ、この一見したところのわかりにくさは、単に熟慮が欠けた結果ではなく、周到に選ばれたものだと評価すべきだろう。それは、通念を慎重に回避した結果だとも言えるのだ。

 江口は、使えるプログラムという「企画の核」を「形式化と有用性を結びつける」ことに見出している。まさにこの形式化というキーワードこそ、このプログラムにおいて、限定を外す一般化と焦点を定めるような明確化、そして実人生に「使える」という切り口が一致するポイントだろう。ここで「形式化」と名指されるのは、直接には、岸井大輔の演劇実践に由来するものと思われる(注4)。系譜を遡れば、柄谷行人の『探求』に発想の源があるだろう。この系譜関係を、プログラムを駆動している理路の細部に照らして評価するにはより慎重な検証が必要となるだろうが、ここに現代芸術をめぐる課題の中枢にある避けがたい問題が貫かれているはずだ。
 その理路を単純に要約するなら、身体とはこういうもの、演劇とはこういうもの、という既存の慣習に囚われたイメージが、身体や演劇の可能性を制限しているのであり、既存のイメージの拘束を解除するためには、イメージによらない認識や思考法が必要となる、ということになる。ここで形式化とは、イメージできないものを漏らさずに扱えるようにする方法に他ならない。

(注4)羽鳥によるステートメントで「形式化」が目標として明示されているわけではなく、これは江口による総評において評価に用いられた語である。ただ、羽鳥の活動を、岸井大輔と活動を共にしたこと抜きに評価することはできないだろう。

 演劇のイメージから劇を解放する形式化の手続きは、他の芸術の文脈の中に、それぞれの慣習が醸し出すジャンルのイメージに縛られずに劇的な何かを見出すことも可能にするだろう。
 使えるプログラムのジャンル横断的な外見は、劇という概念を演劇のイメージから解き放つ試行の現れに他ならない。

 慣習という拘束から身体の使用を限定解除すること。そのために「使えるプログラム」で具体的に徹底されたのは、インストラクションの提示という手法であり、江口によれば「劇の実質を言語によって記述=形式化するよう要求すること」だった(p.50)。それはいわば、文学的な慣習に則った「戯曲」という様式や、戯曲の解釈による演出といった慣例による限定を解除して、出来事が生起する場の可能性やその成り立ちを示そうとする試みに他ならない。そのようにして、慣習や制度によって見えなくさせられてしまった劇が成り立つ条件をむき出しにできるなら、劇の技術を成立させる基底がより明らかになると期待しても良いかもしれない。
 「使えるプログラム」は、そのステートメントに「劇の素材は、わかられていません」(p.5)という言葉を掲げているが、形式化とは、劇の素材と呼べるようなマテリアルな基底を覆い隠すイメージを取り払う手続きだと言っても良い。

 そうはいっても、批評講座とワークショップ、そして上演という系列を並べながら、公募を介した一種の助成(支援系)によって、より深い参加を促すというこのプログラムの構成は、劇場=演劇を賦活し促進する芸術祭の周縁的な企画として見れば、制度や慣習に慎ましく従属しているように見えはしないか。
 だが、たとえば支援系参加者の募り方を見てみると、一見したところの制度への従属は、周到に限定を解除する仕方でなされたものであることがわかる。他の芸術祭であれば、インターンやボランティアに該当するだろう「支援系」だが、そのような既存の用語を用いないことで既存のイメージを排している。それだけでなく、命名の用語法において参加者の支援が目的であるとコンセプトを明示することは、無規定な概念の潜勢力を制限しないように試みるこのプログラムの姿勢を表してもいる。支援系参加者に、プログラム参加の言語化による早急な結論を求めないようにしている配慮もまた、可能性をなるべく限定しないようにする姿勢のひとつだと思われる(p.44)。何をするかを決めるのは各参加者であることをことさらに明示する仕方は、可能性を限定しないとは言っても、何をしたらいいのかと垣間見た者を当惑させるに十分なものだ。このようにプログラムが展開された形態は、羽鳥が主宰する「けのび」の活動のあり方につながるものとして評価すべきなのだろう。
 記録集を締めくくる総評の示す論理を踏まえて、ディレクターである羽鳥はプログラム全体もまたインストラクションによって展開させたと見なすべきであるとすれば、ステートメントや告知の文言、募集の文言など、プログラムを進めるために示された様々な言葉のあり方と、けのびの上演で示されたインストラクションのあり方を照らし合わせてみるべきだろう。
 記録集から、けのび『ウィルキンソンと石』の上演を導いたインストラクションを、任意に抜粋してみる(p37)。

「ビールが否応なく配給されていた。ビンが、ペットボトルが揃っていき、濃さが差になる。いわく、並んだ隔たる」

「いわく3.並んだ隔たる
 ステップ1.圏が身に及んだら全てはらう」

 ここで、簡潔なようでいて、即座に通り過ぎてしまうことを演じる者にも見るものにも許さない、絶えず何かを保留させ待機させるような文体のあり方に目を向けてみてほしい。単純な解釈による限定を周到にはぐらかす、このような言語定着のスタイルは、使えるプログラムに見られる、様々な可能性を限定しないようにする姿勢にも一貫するものとしてあるのだろう。

【写真は「ウィルキンソンと石」から。撮影=©Satoshi Nishizawa 提供=使えるプログラム 禁無断転載】
【写真は「ウィルキンソンと石」から。撮影=©Satoshi Nishizawa 提供=使えるプログラム 禁無断転載】

 さて、上であげたけのびのような文体が、どのような意味で、使える、のか。ここでは、限定しないことに期待される効用についてのみ触れる事にしたい。

 『劇の希望』において、太田省吾は、ドラマチックなイメージと密着するような演劇の手法が劇的なものを期待させることで、逆に人生の様々な側面が退屈なものとして見過ごされてしまうことに注意を促した。劇的なもののイメージが、ささいな人生の日々に隠された劇を見えなくしてしまう。そのために、特定の劇のイメージが人生をつまらなく拘束してしまいかねない。「使えるプログラム」の記録集は同書の引用からはじまるが、そこには太田省吾の仕事を先に進めようとするスタンスが伺える。
 劇による人生の拘束を回避する。その課題に、使えるプログラムは、劇の作法そのものを限定解除するような仕方で取り組むらしい。舞台も、日常の場も、目立たない劇で満たされている。人生も、劇場における演劇も、そのような目立たない劇を基底にして成立している。そして、人生も、演劇も、拘束から逃れるためには、その基底を限定する枠を徹底して退けなければならない。
 表現の様式と生活の様式はそれぞれ既存のイメージを共有したところで相互依存的に成り立っているとするなら、表現の拘束は生活の拘束と直結しているだろう。だとすれば、表現を拡張する手法が、生活のあり方を根底から捉え直すことにつながっているのは当然の話であり、表現を無制限に拡張しようとすることが、即、人生の捉え直しに「使える」ことを帰結する。ただ、どう使うかは、その人次第であり、そこで、既存のイメージから逸脱したものがよくわからないものとして退けられたとしても、むしろ当然のことである。それは、日常の安寧を脅かすものでもあるのだから。

 ここで、記録集の冒頭に置かれるステートメントと題された文を見てみよう(p.5)。

「劇の技術を思い浮かべることで、どうすれば良いのか悩むことができる。

これまで受けて来た教育、誰かの宗教、誰かの哲学、それだけに演出されずにいられる。」

 表現様式を生活様式もろともに解放しようと試みることは、前衛的であろうとする芸術実践が繰り返し試みた事だろう。その事自体に目新しさは無い。ただ、そのような試みの可能性は潰えたというイメージに覆い尽くされたかのような現状において、その可能性を再び見出すための方法が徹底される仕方にこそ、使えるプログラムのオリジナリティがある。それは、見た目がいくら地味であろうが構わない程の徹底である。

 ここで劇を限定する枠のようなものの指標としてこのプログラムで名指されているのが、「主体」であり、「人間」であった。羽鳥は、たとえ頭脳が人間的に働かなくなっても使えるものとして、劇を成り立たせようとしていると言う(p.23)。そして、限定解除は、企画する側と、参加する側という区別の解消/再考にまで及ぼされようとする(p.5、p.15)。
 たとえば、無生物に向けた劇の可能性をも検討する(p.24)。そもそも、劇という概念に、人の間のものという制限を課さなければいけない理由は、無かったのではないか? そのように衒いなく、常識的思考の制約を外れて、概念を徹底して展開してみせる所に、使えるプログラムのユニークさがある。
 人間性にとらわれない劇、人間性にとらわれない生、能動と受動の区別にとらわれない活動。このような遠大な企図のラディカルさに比べて、結果として初年度の「使えるプログラム」で示されたものは茫洋とした印象を残したと言えるかもしれない。だが、そう見える理由も、可能性を限定しない仕方に関わっている。

 可能性を限定しないと言っても、あらゆる限定を一挙に取り払うことはできない。人間性にとらわれないと言っても、さしあたって日本語など、既存の言語を手掛かりにするほか無い。そこには、様々な慣習や制度が絡みついている。
 そこで、使えるプログラムにおいて為されたのはどんなことなのか。それは、とりあえず限定しないよう限定しないよう極力繊細に注意するというところから始めて、制度の編み目が緩む瞬間に励起する劇があり得ることに賭けるというようなことだったかもしれない。

 とはいえ、可能性を限定しないだけで十分ではないのは、言うまでもない。どのような慣習にどのように抗い、どんな慣習をいかに活用するのか、という具体的な規定ないし限定のあり方が必ず問われることになるだろう。
 記録集をみる限り、限定を退けようとする配慮に伴うべき何らかの限定の選択は、プログラム全体のレベルでは、偶然に委ねられた部分、あるいは、ディレクターの作家的センスに委ねられた部分が大きいようにも見える。
 ただ、それもまた、ラディカルな企図を手放さないまま試行を重ねるためにとりあえず求められた手順だったと言えるかもしれない。あるいはむしろ、偶然にゆだねる余地を開き続けるためにこそ、劇という概念の限り無い限定解除が要請されていると言うべきかもしれない。そのようにして、困惑させるような無規定を潜りぬけた先に、日常においても、舞台においても、何気ない事の生起が見過ごせない特異さにおいて浮かび上がる場が拓かれる。
 しかし、劇という語を選ぶこともまた、ひとつの限定であろう。その点で、劇という語を成り立たせる慣習や制度を、どのように選び取るのか、という問いが避けられないものとなる。そこでは、劇という概念に隣接するはずの、出来事という概念や芸術という概念、コミュニティやコミュニケーションの概念など、他の概念とのつながりもまた試される事になるだろう。
 そう考えた時、岡田が示した、既存の演劇の文脈に徹底して内在する道の方が、選ばれるべき限定の在り方に鋭い試練を課し、既存の制度を一点突破する可能性を亢進させると評価できるのかもしれない。
 使えるプログラムが模索する、ジャンルの枠を外して行く道が、歴史を負ったジャンルの成り立ちに内在する行き方の対極にあるのなら、それだからこそ、舞台芸術のフリンジとして、このプログラムは、舞台をその外とより強く共振させる回路であり得るかもしれない。見た目の茫洋とした様子は、むしろ、正しく縁としての在り方が徹底されている事の証であると評価してみることもできるだろう。

 劇を根底から考える端緒をほぐし出す。それは、その場その場の試行としてなされるほかない。すると、試行の余地を絶えず獲得するためにこそ、限定を解除しようと努めながら、その場で何らかの限定を選び続けるほか無いという事だろうか。
 使えるプログラムは、理論的問いかけの徹底が現場の試行に還元されるように構成されており、昨年度の課題は今年度の試みへと展開されている。今ここに、まだ誰も果たしていない課題を幾らでも見出せる。一見いかに瑣細であれ、それらを見出して実演する可能性を救い出すためにこそ、どこまでも無規定に劇の概念を駆動させる理論的営みが求められている。
 いずれにせよ、ここに、制度化によって退屈なことを繰り返してしまうような落とし穴を回避する仕方が問われている。

【筆者略歴】
柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
 1972年生まれ長野県飯田市出身。法政大学大学院博士課程(哲学)単位取得退学。現在は介護職員としてグループホームに勤務。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yanagisawa-nozomi/

【記録】
KYOTO EXPERIMENT2013フリンジ企画「使えるプログラム」
会期:2014年9月27日-10月19日
会期後に記録集を作成

「使えるプログラム2013」記録集
記録写真:西澤諭志(p9,12,14,42,44,53を除く)
翻訳:中保佐和子
編集:羽鳥嘉郎
編集・DTP:印牧雅子
編集補佐:ササキユーイチ
デザイン:ゴロゥ
印刷:イニュニック
発行日:2014年3月25日
発行:KYOTO EXPERIMENT京都国際舞台芸術祭2013フリンジ企画 使えるプログラム


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