Port B「雲。家。」

◎他者、他者、どっちを向いても-現代日本へ、Port Bのメメント・モリ
村井華代(西洋演劇理論研究)

Port B「雲。家。」公演チラシ日本にも、このような舞台をつくる人々が現れたのか。
1969年生まれ、90年代後半ドイツで演出を学んだ高山明の率いるPort B は2002年旗揚げされた。今回初見である。東京国際演劇祭参加作品『雲。家。』は、エルフリーデ・イェリネクの1988年の戯曲Wolken. Heim.の日本初演。ノーベル文学賞受賞者イェリネクについては、ここで詳述する必要はないだろう。演劇作品からも現在まで3作が邦訳されているので、劇作家イェリネクについてもそちらを参照して頂きたい(末尾にリンクあり)。そもそも、Port B の今回の公演は、イェリネクに基づきながらもこれを意識的に逸脱しているので、イェリネク本人に拘泥している余裕がない。むしろPort-B が書き上げた、自分たちの、現代日本の新たな上演テクスト、その見事な演劇的「展開」こそ評されるべきだろう。

▽“翻訳上演不能”

イェリネクの原テクストは、ドイツの政治的言説からの引用文で構成されている。人物や対話はない。ヘルダーリンの詩、ヘーゲル『歴史哲学講義』、フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』、クライストの戯曲『公子ホンブルク』等々、19世紀前半のナショナリズム勃興を支えた言説あり、さらに1933年、ナチスに入党したばかりのハイデガーの講演「ドイツ大学の自己主張」あり、加えてドイツ赤軍派の書簡や現代詩人レオンハルト・シュマイザーといった20世紀後半の言説あり。ナポレオン戦争以来、ベルリンの壁崩壊まで彷徨い続けたドイツの国家的アイデンティティをめぐるテクストのモンタージュである。ただしイェリネクの国オーストリアは、この過程を通じてドイツの統一国家建設への情熱と衝突し、自国の運命をも翻弄されてきた側であるから、これらのドイツ的テクストは元来全て〈他者〉の言説として羅列されていることになる。つまりこの戯曲の言説の中で「Wir(わたしたち)」と語られるとき、同時にその外部にいて「わたしたち」を侵そうとする敵と設定された〈他者〉、即ちこちら側の「わたしたち」が暗示されるのである。

確かに、ドイツ国家統一の話などドイツ人以外聞きたがるはずもないと思えば、こうした戯曲はパンフレットの説明通り「外国での上演は不可能」だろう。しかし、暴力的神話化によって「わたしたち」の世界が構築され、他者が排除される普遍的過程とこれを捉え直せば、むしろ様々な文脈での上演可能性が広がる。
事実、Port Bの上演の大きな意義はその“翻訳”にある。例えば、「Wir」の語感と比べ、「わたしたち」という日本語はとんでもなくうるさいので、一般的な戯曲翻訳では必要なければ省く。ところがPort Bはそれを敢えて省かず、「ワタシタチ」だらけの不自然な日本語テクストを作ることで、原作に充満する「わたしたち」の暴力を浮き立たせる。拝借した台本から一部転写しよう。

「わたしたちはこの地に根付く。わたしたちの目標はわたしたちだ!そしてわたしたちはここにいる。わたしたちは辿り着いた。[中略]わたしたちに属すものがある。ただ待てばよい!目がとらえる全てはわたしたちに属す。故郷はわたしたちに属す!わたしたち!」

一見、よくある未熟な翻訳に似ている。が、この硬げなテクストが舞台では別の新たなテクストを描き、意外な威力を発揮することになる。

▽Port Bの「展開」

舞台背面は薄い幕をはった格子状のイントレ。前面には、五着の簡素なドレスが吊られている。それと同じ服を着た暁子猫が、今回唯一実身体を現前するパフォーマーである。彼女はイントレの最上段からゆっくりと下に下りてくる。床には、テクストの一部を草書で記したシートが全面敷かれており、暁子猫はその中ほどに静止する(その配置は、彼女を日本とし、ドレスを五大陸とした世界地図のようだ)。

Port B「雲。家。」公演
【写真は、Port B公演「雲。家。」から。 撮影=松嶋浩平© 提供=東京国際芸術祭(TIF)】

暁子猫の立居・歩みは、一貫して亡霊のそれだ。台詞は感情を全く入れない呟きで語られる。肉声、拡声器、録音と、質感は多様ながら、基本的に抑揚なく続く語りが、先に述べたぎこちないテクストを信号のようなものに変える。「ワタシタチ」は、その不思議な信号の主要音として執拗に響く。暁子猫は、歩く・いる・信号を発する、それだけのミニマムな身体であることを強制されているのだが、彼女は能役者を思わせるテンションでこれを実現している。

降りてきた暁子猫は客席に背を向け、舞台奥スクリーンのモノクロ映像を長い間見ている。映像は、日本のかつての占領地であるアジア各国からの留学生による会話(各自が母国語を話し、日本語が字幕に出る)や、当の劇場の客席で教科書を音読するように件の「ワタシタチ」テクストを発話する若者たち等々。それが池袋サンシャイン60ビル近辺での街頭インタビュー映像になるとカラーに切り替わる。「昔、ここに何があったか知っていますか?」大概の若者が、イマドキの態度で否と答える。中には「知ってるー、ギロチン処刑場」と薄笑いする若者、「サンシャインには何も入ってないフロアが一つだけあって、そこに幽霊がいるって」と都市伝説を語る若い女性も。いずれにせよ巣鴨プリズンとは答えない若者たちの映像の後に、墓地の映像が現れる。林立する卒塔婆の彼方の青空に、ぬっと突き出すサンシャイン60。それは東京の空にそびえる巨大な墓石だ。映像を見終わった暁子猫は、客席側に向き直り、また「ワタシタチ」言説を語り始め-ラストまで語り続ける。

Port B「雲。家。」公演

Port B「雲。家。」公演
【写真は、Port B公演「雲。家。」から。 撮影=松嶋浩平© 提供=東京国際芸術祭(TIF)】

▽「わたしたち」から引き剥がされた「わたしたち」

タイトルの「雲」と「家」は、原作の引用元においては〈神の徴・裁き〉と〈大地・故郷〉のイメージに相当する。頭上に覆いかぶさり、過ぎ去ってゆく無時間の雲と、死者の安らぐ過去であると同時にいつか帰るべき未来の場である故郷=大地。両者を関連づけるのが、現在の場としての「わたしたち」(=ドイツ人)だ。イェリネクは、そのように神の名の下に他者を排斥する同属集合の言説を劇場で再現し逆に批判にさらすのであるが、キリスト教的時空間感覚を持たない日本でその作品を上演するとなれば、いきおい構造は複雑化する。そしてPort Bが踏んだ手順は非常に周到であった。

まず、舞台上で発話される信号「ワタシタチ」は、ドイツ人の「わたしたち」を指すものではない。かといって、日本に今生きている「わたしたち」でもない。今回の舞台では、これは誰の身体にも引き受けられない〈他者〉の人称になる。

19世紀のドイツ人が拳を振り上げ「わたしたちはわたしたちに属す」と怒号を飛ばすとき、その語は彼らの煮えたぎる身体と不可分である。が、少なくとも現代の日本では、彼らのように“抑圧なく”血肉によって到来を確信される統一国家的身体を語ることもできなければ、また過去の特定の時代に国家的アイデンティティを支える共通の基盤を“迷わず”求めることもできない。生きた国家的身体である人称「わたしたち」を、日本ではそのまま自分の生きた身体に引き受けることができない。かくしてPort Bの舞台で示されるのは、原文の力強い「わたしたち」言説が、日本人の身体を〈場〉とすることで、虚空に浮いた「ワタシタチ」言説へと変質した姿だ。日本の国家的身体「ワタシタチ」は無意味な死んだ信号として発せられ、ゆえにこの舞台では誰も生きた人間として「わたしたち」とは語らない。

代わりに〈他者〉が、舞台で「ワタシタチ」と反復し続ける。既に機能は死んだとしても、信号は死んだ意味を思い出させる権利を持っている。他者を排除・掃討して成る日本の国家的身体の主張は、過去になかったわけでも、今後なくなるわけでもない。大多数の若者が知らないと答えても、サンシャインは都心のどこからも見える国家的記憶の記念碑であり、死の「徴」であることに変わりはないのだ。

「わたしたちは死者のもとに何を探し求めるか。生だ!」-原作の引用元においては、死の中に生の根拠があり、生の中に死が生きることが確信されるが、Port Bの上演ではその相互作用が無効になった姿だけがさらけ出される。大体において、現代日本の「ワタシタチ」は、顔も知らぬ同胞の死の記憶を生の糧にしているわけではないし、そうする必要も欲望も感じない。子供たちにそれを強制する気もない。それが幸せと思いもするが、ないない尽くしで埋まった「ワタシタチ」の衛生的な生のどこかに、まるでサンシャインの1フロア伝説のように、行き場のない亡霊のための空洞がしつらえられていて、真っ暗のまま放置されているのではないかとも感じる。日常的な生に対する違和感への起爆剤が、冷静な手付きで仕込まれた舞台だ。

舞台終盤の暁子猫は、かすかな苛立ちを含みながら、自らの根源を、故郷を求めて信号を発し続けるように見える。亡霊が自分の生きた肉体を探すように。結局、実身体なき日本の「ワタシタチ」は、厄介な「生」となって漂い始める。

*       *       *

独立したアーティストの集団だけに、美術、照明、音響、映像、パフォーマー、演出と、どこをとっても完成度が高い作品だった。アフタートークによれば、今回の上演に当たり、ドラマトゥルク林立騎は引用元を引用部だけでなく全文翻訳し直し、一年をかけて膨大な日本語資料を準備したという。そうした長い準備がなければ、イェリネクの戯曲を腹に落とすことも、現代日本の新たな上演テクストをゼロから編むことも、とても困難だっただろう。少なくとも今回のPort Bと高山の方法は、一貫して“合目的的”であり、自らが狙う点を違わず射落としたと思える。1982年生まれという若い林に大仕事を任せた高山も、それに十分応えた林も、大いに評価されてよい。

ただし、日本の国家的身体というカオスを、きれいに亡霊の中におさめてしまった感がある。完成の仕方が映像作品のようであることもやや気になる。まるでこの舞台の日本人像全体が作り手にとって〈他者〉のようで、作り手の「わたし」は、どこにいて、どうしたいのか、と問いたい思いが残る。現代世界(作り手も含む)を批判する舞台においては、必ずどこかに矛盾や袋小路がある。それが単にボロを出すような形で出ては論外だが、整いすぎた構造もまた警戒すべきではないか。

次はどのような手を打ってくるのか。基礎力量ゆえに飛ぶべきハードルも高くなるだろう。が、作り手の与えた枠をぶち壊す何か、支配しきれぬ何かが、表現の皮を破って突き出てくるような作品を期待する。(3月1日観劇)
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第34号、2007年3月21日発行。購読は登録ページから)

【参考リンク】
エルフリーデ・イェリネク公式HP(ドイツ語。ヨッシ・ヴィーラー演出『雲。家。』含め、舞台写真多数)

ドイツ演劇プロジェクトHP(「作家・作品紹介」イェリネクの邦訳戯曲一覧)
・東京国際芸術祭(TIF)2007 プレス資料(PDF)
TIFポケットブック(高山明さんのエッセイ、『雲。家。』全公演アフタートーク&劇評掲載)
Port Bダイジェスト版作品集(YouTube)

【筆者紹介】
村井華代(むらい・はなよ)
1969年生まれ。西洋演劇理論研究。国別によらず「演劇とは何か」の思想を縦横無尽に扱う。現在、日本女子大学、共立女子大学非常勤講師。『現代ドイツのパフォーミングアーツ』(共著、三元社、2006)など。
・wonderland 寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/murai-hanayo/

【上演記録】
Port B 『雲。家。』(Wolken. Heim.)
にしすがも創造舎特設劇場(3月1日-4日)
東京国際芸術祭(TIF)2007参加作品

作:エルフリーデ・イェリネク
構成・演出:高山明
翻訳:林立騎
照明:江連亜花里
映像:宇賀神雅裕 三行英登
音響:内藤正典
舞台監督: 清水義幸
技術監督:井上達夫
宣伝美術:三行英登
ドラマトゥルク:林立騎

出演:暁子猫

・各日とも終演後ポスト・パフォーマンス・トーク
・一般:3,000円/学生:2,000円(当日要学生証提示)/豊島区民割引:2,000円
平成18年度文化庁芸術創造活動重点支援事業

主催:/ Port B
特別協賛:アサヒビール(株)
協賛:(株)資生堂/トヨタ自動車(株)/松下電器産業(株)
助成:(財)アサヒビール芸術文化財団
協力:東京ドイツ文化センター

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