◎人間存在の表裏を可視的にする鮮やかな手法
藤原央登(「現在形の批評 」主宰)
我々が自明のごとく見聞きしたり用いる言説は多く、こと舞台芸術に関してはパフォーマンスがその一つに挙げることができるが、改めて吟味すると何とも曖昧模糊としている。演じ手が居てそれを見る者が同席することで共に生成するその時、その場の唯一無二の親和的宇宙を開示する見せ物が演劇の原初的な在り処である。ならばパフォーマンスもそういった演劇の枠内に収まるものであるはずであるがそうならずに別の印象を自動的に誘発されてしまう。すなわち身体言語を上位概念と捕えてなされる演劇の解体であり、そこから容易く前衛的なるものの匂いを嗅ぎ取ってしまうのだ。今作が所見のdots『MONU/MENT(s) for Living』もパフォーマンス・グループと自らを位置付けているようにしっかりパフォーマンスを展開していた。
身体言語を強調することが演劇の解体に繋がるとはすなわちテクストの解体と同義である。上意下達式に演じ手をも飲み込むんで手渡される文字言語を介して喚起された意味内容=作家性の失効に眼目を据えている点で、文学的啓蒙でないのはもちろんのこと、迸る汗と生血でもってダイレクトな交流を目論む「肉体論」に傾斜するのでもない。身体とテクスト、音楽・映像といったあらゆる極が同一のパワーバランスの下に同位のものとして平面に措定することが目論まれる。
『MONU/MENT(s) for Living』の始まりは舞台中央、六本の突起物を覆う白幕に送風機のようなもので風が送られることで全体が繭のように一つになる様を目撃するところから始まる。その幕に黒い点の映像が投射される。点はいつしかひも状のものが入った丸形のものへと変化、その数を増やしてやがて白幕を全て多い尽くすあたりでそれが受精卵であることが了解されてくる。受精卵が夥しい数に細胞分裂を繰り返して全体を今度は真っ黒く覆ってしまうや否や勢いよく幕が跳ね上げられる。そこには花の帽子のようなものを被った六人の人間が登場する。ここまでの一連の流れが生命の誕生を意図されているのは明らかだろう。白幕は母なる大地=母胎であり、命を柔らかく包み込み、安全圏へと運び根づかせる自然の力=風がそこに吹き込む。一点の黒いシミが暴力的なまでに叩きつけられるのは精子と卵子の奇跡的な出会いの謂いを強く印象付ける。映像のスピード感が相まることで記憶にない記憶を自分の身体感覚があたかも知っているかのような既視感を抱かせる。ここまでのシーンは例えて言うならばジェットコースターに乗って時間旅行をしてゆくかのような記憶の遊泳体験を促してやまない。
この胎内幕に複数の人間が内包されていることに注目していい。風が送られる前から既に六人の屹立した身体がそこに在ることが突起の状況から推察可能だが、生命の胎動が開始する遥か以前から在り得べき可能体としての生ける身体が既に準備されていることを示していると考えられる。そこから『MONU/MENT(s)』=記念碑というタイトルに繋ってくるものがある。記念碑は人/事件が確かに存在した/起こったという確固たる事実をこの世に記し、それを後世の人々へ伝播させ広めるためのものである。記念碑そのものは原因と結果の関係性によって全て事後的に建立されるが、その伝播力によって何かを突き動かせ得る可能性をも秘めている。すなわち記念碑は単に文字を石や木に書き付けた物質それだけとしてでなく魂を持つ有機体であると言えまいか。生命を獲得していると言えるのではないか。歴史の定点が記録されることにより円環運動的に影響力を付与する力が顕現するからである。「『monu』(思い出させる)+『ment』(手段)」(当日パンフレット)と分解された理由もそういった意味からであろう。
幕内の人間も同様である。これらは硬直する未分化な単なる物体であったとしてもそこには巡り巡る前世の記憶が刻み付けられた生命前状態である。だから「記憶にない記憶を」知覚させたのである。六という数字にさしたる意味は見出せないが、複数人であるのは個人に特権化し神格化することから起こる感情同化を廃す、あくまでも観客個々の個人史にヴィヴィッドに対応させるための仕掛けとなる。6人のmonument(s)が同一平面に並置することでその延長線上に無数のmonument(s)=観客の想像力が極めて自由に介在可能な余地のある空間構成が企まれているのだ。
最も瞠目すべきシーンは舞台中ほどにある。空間にたたずむ女性パフォーマーをビデオカメラで横側から徐々に前面へ回り込んで撮影する男性パフォーマー。その映像は舞台奥のスクリーンに写しだされるが、回り込んだ瞬間一人だったはずの女性が二人になったのだ! この時私はギュッと身が縮むくらい胸を鷲掴みにされるような驚きと同時に恐怖のようなものをはっきり感じた。それは咀嚼し飲下してから吟味するなどという悠長で情緒的な味わいを楽しむといったものでなく、直截的な身体への侵犯を不意に体感したことへの新鮮な感覚である。普段肉眼では見ることのできない人間存在の表の顔と裏の顔を可視的にする鮮やかな手法が、二つの鏡像が解離していくほんの一瞬間にある。前述したパフォーマンスのエッセンスを凝縮した形で表現された、文学的物語ではなかなか体験できない表現の模索として記憶しておきたい。
他に印象的なのは真っ暗闇の中に横一列に立ったパフォーマーの顔を写し、舞台前面に置かれた四台のテレビモニターに映すシーン。どこからか聞こえるテクストと共に唯一光を放つテレビモニターを通して顔の様々な部位をアップで映し出す。四台の内、上手のモニターは消えていて映らない。ここに観客個々の顔を能動的に自己投影して参加することが目論まれているのだろうが、上記のシーンの強烈さと比べると見劣りした。
テクストの使用法についてはもう少し吟味してもらいたいところだ。加古里子『地球-その中をさぐろう-』は地球と生命の誕生を述べ、作品のプロローグとして使用されるが、説明的で親切すぎる。太田省吾の『element』は様々な箇所で引用されていたのかもしれないが一つも印象に残らない。凝った映像とそれを用いたテクノロジーの妙が勝ちすぎるのは仕方のないことかもしれないが、そこにテクスト・身体を拮抗させ対等な位置に据え続けられるのか、両者の「間(あいだ)」に生成するエネルギーも感じたいと思う。
パフォーマンス=performanceは「実行・遂行」という意味の名詞である。また、肉体を用いた表現形態や街頭劇の意味もある。この二つの劇形態は日本の現代演劇の運動派の2大巨頭のスタイルでもある。すなわち生の肉体を暴露して果てしなく劇的想像力を広げる唐十郎と、現実と虚構を多次元空間が如くぐにゃりと捻じ曲げて混交させたものを日常生活に解き放った寺山修司である。ここからも分かるように、異形で危険なもの、訳の分からないものを形容するものとしてパフォーマンスという語は以前から存在してきたのである。
現在の秀麗なレトリックを施したパフォーマンスを用意したのは、ここ数十年の間のテクノロジーの急激な発達と芸術の先細りによる脱ジャンル化の影響が色濃く反映されたものだろう。脱ジャンル化とはすなわちコラボレーションである。舞台を形成する一要素が突飛であればあるほど一時的な話題性を獲得こそすれ早晩、制度や慣例といったものへ回収されてしまう。前衛とは独り善がりな<本当に>意味不明な愚物と表裏を成す一本綱である。そのためにパフォーマンスによる表現は全極が等しい力関係の基にそこを慎重に峻拒しつつ、その場に立ち会った者の想像力を限りなく拓いていかねばならない。
パフォーマンス(performance)には〈劇を〉上演する、〈役を〉演じるという他動詞である「perform」の語が含まれている。それ自体で充足することなく、他者への働きかけを必然とする演劇の本質がここには込められている。『MONU/MENT(s) for Living』は強烈な一シーンによってそれに値する水準と心意気のある作品に仕上がっていた。
(2月24日 AI・HAll マチネ)
【著者紹介】
藤原央登 (ふじわら・ひさと) 1983年大阪府生まれ。近畿大学演劇・芸能
専攻卒業。劇評ブログ「現在形の批評 」主宰。Wonderland 執筆メンバー。
・Wonderland掲載の劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujiwara-hisato/
【上演記録】
dots 『MONU/MENT(s) for Living』
AI HALL(兵庫県伊丹市、2007年2月24日-25日)
構想・演出=桑折現
振付=宮北裕美
構成=桑折現 / 伊藤友哉
【出演】
牛尾千聖
高木貴久恵
藤井雅信(0九)
宮本統史
柳原良平
山口春美
【スタッフ】
構想・演出=桑折現
振付=宮北裕美
構成=桑折現 / 伊藤友哉
舞台監督:大鹿展明
舞台美術:規矩泉美
映像:本郷崇士・片岡孝広
音楽:ORGAN
音響:加藤陽一郎
照明:三浦あさ子
衣装:石田朋子
宣伝美術:イトウユウヤ
宣伝写真:飯川雄大
制作:清水翼
京都芸術センター制作支援事業
平成18年度文化庁芸術拠点形成事業
助成=財団法人地域創造
主催=伊丹市・財団法人伊丹市文化振興財団
「四台の内、上手のモニターは消えていて映らない。ここに観客個々の顔を能動的に自己投影して参加することが目論まれているのだろうが、上記のシーンの強烈さと比べると見劣りした。
」の部分に関して。
後日劇団側から機材の故障によるもので故意ではなかったという指摘があった。