ク・ナウカ「奥州安達原」

◎ &ltシニフィアン=音&gt としての言葉で表す物語の根源
田中綾乃(東京女子大非常勤講師)

「奥州安達原」公演チラシク・ナウカはやはり面白い!! 2007年2月27日、『奥州安達原』の千秋楽。ク・ナウカ俳優たちの漲る身体を前に、私は喝采の拍手を送りながら、そう確信していた。千秋楽ということもあって、4回のカーテンコール。舞台も客席も一体となって祝福の拍手に包まれた。
では一体、ク・ナウカのどこが面白いのか・・・? それは、月並みだが、ク・ナウカという集団が最後まで<演劇なるもの>の可能性を極限まで追求した、ということに尽きるだろう。


この4月から、ク・ナウカの主宰宮城聰が、(財)静岡県舞台芸術センター(SPAC)の芸術総監督に就任するために、実質的には今回の公演をもって活動休止に入ったク・ナウカ。誰もが今回の公演は、いままでのク・ナウカの集大成が観られると思って公演に足を運んだことだろう。しかし、その観客の期待をク・ナウカはまんまと裏切る。もちろん、集大成といえば集大成なのだが、しかし、それは新たな表現法の模索でもあり、宮城の「遊び心」が散りばめられた作品となった。決して<終わり>を感じさせず、むしろク・ナウカの<これから>の可能性を示唆した作品であった。

会場は、新宿にある「文化学園体育館」。思い返せば、品川の倉庫での『エレクトラ』、芝の増上寺やお台場の都立潮風公園での『天守物語』、目黒の庭園美術館西洋庭園での『オイディプス王』、目白の旧細川邸(和敬塾)での『熱帯樹』、日比谷公園での『サロメ』、東京国立博物館での『マハーバーラタ』や『王女メディア』、『ク・ナウカで夢幻能な「オセロー」』、『トリスタンとイゾルデ』などなどなど・・・。まだまだ書ききれないが、ク・ナウカの作品を観るために、いつも劇場ではない場所へ足を運んでいた。もちろん、青山円形劇場やザ・スズナリなど定番の劇場での公演も意外に多い。だが、ク・ナウカ作品の面白さの一つとして、劇場とは異なる空間での公演、ということを指摘できるだろう。
そして、想い出すのは、夏の暑さや冬の寒さの中、駅から遠い会場まで地図を片手にてくてく歩いたこと、座り心地の悪いイスで窮屈な思いをしながら観たこと、なぜか野外劇場では、いつもどしゃぶりの雨に見舞われ、カッパを被り震えながら観たこと、などである。だが、どのような場所であれ、ひとたびク・ナウカの手にかかると、たちまちそこにはク・ナウカワールドが立ち現れる。野外であれ、歴史的建物であれ、あたかもこれまでもそこに舞台があったかのように空間と融合するのである。

さて、今回は、無機質な体育館を、従来になくシンプルでアーティスティックな空間へと変容させる。そして、そのアーティスティックな空間の中で演じられた作品は、文楽(人形浄瑠璃)でも有名な『奥州安達原』。現代的な空間に江戸時代の物語が交叉する。
何と言ってもク・ナウカ作品の一番の特徴は、明らかに伝統的な人形浄瑠璃の形式を模している、ということにある。つまり、一つの役を「語る」スピーカーと「動く」ムーバーによる「二人一役」の手法である。今回、近松半二らの『奥州安達原』という人形浄瑠璃の作品を選択したことで、ク・ナウカの俳優たちは、まさに自らの様式世界の原点に立ち返ることになった。

物語は、『奥州安達原』の四段目「一つ家の段」と「谷底の段」。もともと近松半二が描く世界は非常に入りくんでいる。そのため、この「一つ家の段」も人物関係がわかりにくい。それをク・ナウカでは、前説で影絵を用いて、スピーカー(野原有未)が明るく楽しく解説する。はきはきと解説しながらも、次第、次第に「安達原」の物語の世界へ誘い込む導入は、なかなか心地がよい。
しかし、その心地よさも、パーカッションの演奏者たちの登場で途切れる。突然、舞台中央の奈落から不気味にも演奏者たちの手だけが浮かび上がる。その光景は、大地に埋まった者たちが苦しみの声をあげているようで、ハッとさせられる。そうか、ここは安達原。大和朝廷と東北蝦夷との長い長い戦いの中で、安達原でも数え切れない人々が大地に埋もれていったのだ。
今回、演奏者たちは、単なる演奏のみならず、長い歴史の中でいくたびも繰り返されてきた戦いの中、無念にも大地に埋もれていった人々(亡霊)の「声」の役割も担う。それゆえ、舞台の奈落から登場した演奏者たちは、客席には背中をむけ、舞台の真下に座り、観客同様、舞台を見上げる。そして、舞台の上で起こる「出来事」をじっとみつめる。
これまでも演奏者によるパーカッションは、ムーバー、スピーカーと共に、ク・ナウカ作品には欠かせない存在であった。しかし、今回、パーカッションや演奏者たちの「音」は、物語の精髄を担っている。少なくとも私にはそのように感じられた。大地の下から奏でられる音は、時には力強く、時にはやさしい。それは、たとえば木々のざわめきであったり、登場人物の微細な心理であったり、大地の嘆きや悲しみ、喜びであったりする。いまやパーカッションは、物語に奥行きをもたらす根源的な力なのである。演奏や音だけで、ここまで物語を「語れる」ようになったク・ナウカの演奏技術のレベルの高さをまざまざとみせつけられた思いがする。

「奥州安達原」公演1
「奥州安達原」公演2

「奥州安達原」公演3
【写真は「奥州安達原」公演。左から美加理、大高浩一、寺内亜矢子(上) 美加理、寺内亜矢子(中、下) 撮影=内田琢麻 提供=ク・ナウカ 転載不可】

さらに、今回、宮城はスピーカーの「音」にもこだわる。導入の解説で我々の耳にはっきりと聞こえていた現代語は、「安達原」のストーリーが進むにつれ、人形浄瑠璃の「底本」にならい古語へと変わっていく。それと同時に、ムーバー岩手(美加里)が登場すると、岩手のスピーカー(鈴木陽代)の台詞が聞きづらくなる。それまで気持ちよく聞こえていた語りが突然意味のわからない「音」に変容する。よくよく聞いてみると、それは蝦夷の言葉(方言)であるようだ。いや、正確にはデフォルメされているのだろう。おそらく、大和朝廷の人々(標準語の我々)が聞くとこのように聞こえる、とでも言いたげに擬音語が意識的に取り入れられているように思えた。
そして、この蝦夷の方言の取り入れは、中心と周縁の対立を明確にする。都人の恋絹(寺内亜矢子 / 桜内結う)や生駒之助(大高浩一 / 本多麻紀)の語りがほぼ「底本」通りであるのに対して、蝦夷に住む人々には、この方言が用いられる。宮城は、征服と被征服の物語を「音」によって象徴的に表そうとしているのだ。
考えてみれば、ク・ナウカの「二人一役」という手法は、主体をムーバーとスピーカーに分割する、という点で、きわめて現代演劇に反する手法だが、今回は、それに加えて、スピーカーの語りから「意味」までも削いでしまう。言葉の“シニフィエ=意味”ではなく、“シニフィアン=音”としての言葉を用いることで、その物語に潜む根源的な事態を表現しようとしているのだ。
こうして「安達原」の世界は、現代語、古語、蝦夷特有の方言、そしてパーカッションや演奏者の「音」が入り交じりながら物語が進む。しばし我々の耳は混乱し、意味がわからないままストーリーが展開していくことになる。ただし、その混乱は長くは続かない。というのも、ストーリーは、スピーカーのみならず、ムーバーの身体、そして演奏者たちによっても語られるからである。それはたとえば、-いまさら言うまでもないが-、美加里の超越した身体表現からも明らかだ。岩手が舞台にそっと登場した時点から、舞台の景色が変わる。方言や擬音語のためほとんど意味は聞き取れなくても、美加里は身一つで狂気、妖艶、怒り、悲しみ、絶望を表すのだ。
そして、何と言っても我々にはそれらを紡ぎあわせて物語を構成していく「想像力」が存する。スピーカー、ムーバー、音楽、それぞればらばらだった表象が、ある瞬間、ふっと一つに収斂する。そうなると、途端に我々も「安達原」の世界、ク・ナウカワールドに引き込まれるのだ。この体験は、ク・ナウカならではの醍醐味である。

このように『奥州安達原』の「一つ家の段」は、意表を突いた方法で進んでいく。それは、言葉の「意味」だけに頼るのではなく、言葉を含む様々な「音」をクローズアップさせる表現法である。そして、これはク・ナウカ演劇だからこそ到達した新たな手法とも言える。
だが、我々がその手法に慣れ、岩手の悲劇、絶望に同化している次の瞬間、宮城はまたもや我々を裏切る。それは「谷底の段」の場面である。岩手が自らの娘恋絹を殺め、さらには朝廷の裏切りという悲劇に絶望し、身を投げた谷底。そこには、岩手の息子安部貞任(牧野隆二 / 吉植荘一郎)が宝剣と称して地球儀の風船を手にしている。貞任の異様な出立ちとまるでチャップリンの『独裁者』を想像させるような風船の遊び心。そして、そこでは、「一つ家の段」の静けさ、不気味さ、戦慄さとは打って変わり、突然から騒ぎが始まる。
貞任は、岩手の首を切り、それを供え、唐突に「英霊」と書かれた紙を貼る。この過剰な意味合いをもちえた「英霊」という言葉の突然の登場、そして、舞台奥のスクリーンに映し出された貞任の蝦夷言葉は、再び言葉の<シニフィアンの浮遊>によって状況を攪乱する。しかもそれは、意図的なカオス化である。
舞台下のパーカッションは盛り上がり、舞台上では、敵も味方も共に唄い、踊っている。祝祭的な盛り上がりの中、大団円でラストを迎える。それは、まるでその前の「一つ家の段」の悲劇、もっといえば、「一つ家の段」で試みたク・ナウカの新たな手法を打ち消すようなパワーである。
だが、これこそがク・ナウカ演劇の面白さである。ク・ナウカ演劇は、一方では極限まで洗練された様式美をそなえ、他方ではそれを破壊するようなマグマももちあわせている。ク・ナウカは、常にこの様式美とマグマのせめぎ合いの中で演劇的な表現の可能性を模索していたのである。だからこそ、ク・ナウカの手法は、伝統的でもあり革新的でもありえた。
祝祭的なムードは、ク・ナウカ17年の締めくくりでもあると同時に、果敢にも新たな表現法への模索のはじまりも予感させる。しばらくは集団よりもソロ活動がメインとなるが、またいつの日かク・ナウカ俳優陣によるあの鮮烈なる劇的空間に出逢えるだろう。そのような楽しみと期待を抱かせるラストであった。

【筆者紹介】
田中綾乃(たなか・あやの)
愛知県名古屋市生まれ。東京女子大学文理学部哲学科卒業、同大学院修士課程修了。現在、同大学院博士課程在籍、同大学非常勤講師。専門はカント哲学、現代演劇論。哲学研究と観劇という二足の草鞋を続行中。
・wonderland 掲載劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/tanaka-ayano/

【上演記録】
ク・ナウカ 『奥州安達原』

作=近松半二、竹田和泉、北窓後一、竹本三郎兵衛
台本・演出=宮城聰
文化学園体育館 特設舞台(2007年2月18日=学生限定プレビュー公演、19日-27日)
上演時間約90分(途中休憩なし)

CAST       speaker    mover
語り手———–野原有未
岩手————鈴木陽代   美加里
志賀崎生駒之助英-多麻紀    大高浩一
恋絹————桜内結う    寺内亜矢子
安倍貞任——–吉植荘一郎  牧野隆二
鎌倉権五郎影政–石川正義   大内米治
匣の内侍——–本城典子   池田真紀子
環宮————————–野原有未
旅人————加藤幸夫   大道無門勇也

コーラス=萩原ほたか  赤松直美  高澤理恵
演奏=片岡佐知子  星村美絵子 奥島敦子 山本智美   塩谷典義

台本・演出=宮城聰
照明=大迫浩二
空間=木津潤平
衣裳=高橋佳代
音響=AZTEC(水村良・千田友美恵)
ヘアメイク=梶田京子
演出助手=大西彩香
小道具=中里有
舞台スタッフ=司田由幸、山縣昌雄、森山冬子
舞台監督=岩崎健一郎
テクニカルスーパーバイザー=堀内真人
宣伝美術=野口美奈子
WEBデザイン=井上竜介
制作=大石多佳子
主催: 特定非営利活動法人ク・ナウカ シアターカンパニー
特別協力: 学校法人文化学園
平成18年度文化庁芸術創造活動重点支援事業

チケット料金
一般(全席指定)6000円、ユース席(25歳以下)2500円、(25歳以下・劇団予
約のみ)▽ステューデント・ナイト(学生限定プレビュー公演)(18日)
(2500円・年齢不問)▽各種割引:ファイヤーマンズ割(20日)/フィッシャー
マンズ 割(21日)/ティーチャーズ割(22日)
※ 2DISKつき(稽古風景DVD+朗読CD*)
*朗読CDには、阿部一徳『高瀬舟』・本多麻紀『月下の一群』・鈴木陽代『よ
だかの星』を収録


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