#5 前田司郎(五反田団)

生と死、研ぎ澄ますカンの精度

前田司郎さん――戯曲の話となるとやはり『ニセS高原から』(注3)についても聞いておきたいんですが。同じ戯曲を違う演出家が演出することで、優れた舞台はどこまでが戯曲の力で、どこまでが演出や俳優の力で成立するのか見極めたいとおっしゃってましたよね。

前田 ずっと普遍性について考えてたんです、戯曲の。たとえば僕たちは岸田國士の芝居をもうみることはできない、寺山修司の芝居もみることはできない。でも戯曲は残ってる。その残された戯曲だけでどれだけ普遍性があるのかってことに興味があったんです。厳密な意味では、10年、20年、いやもっと長いスパンで見ないと戯曲の普遍性ってのはわからない。だけどなんとかしてそれを同時代にある程度見れる方法はないかと。じゃあ同じ戯曲で、演出家を変えて、キャストも変えてみたらいいんじゃないかってことだったんです。

――やってみた結果、どうでした?

前田 うーん、けっきょく関さん以外は3人とも戯曲を書きかえちゃいましたからね。でも自分以外の3人(関美能留・島林愛・三浦大輔)の『ニセS』をみてぼんやりと見えてくるものもありました。企画としてはあの3人が「やってもいいよ」って言った時点で成功でしたから。

――平田オリザ作品を何人かの演出家で競作するっていう構想自体はかなり昔から言及してましたよね。

前田 それについてはちょっと特殊なところもあって、オリザさんの作品っていまはある程度評価が定まってしまっていて、新たな客層があまり生まれないようなことになってるんじゃないかと思うんです。でも青年団ってもっともっと若い人たちにみられてしかるべきなんじゃないかと。なので何人かの尊敬できる作家の中からオリザさんを選びました。まあ普段、平田オリザチルドレンみたいに言われている三浦さんや僕にとっての挑戦のような意味合いもあったんですけど。

――数ある平田作品の中で、どうして『S高原から』だったんですか。

前田 いちばん最初にみて、衝撃を受けた作品だったんです。同時期に『カガクするココロ』もみたんですけど、自分の中には『S高原から』がすごく残っていて。それとプロデューサー的な視点で、役者はオーディションで選ぼうってのが最初から頭にあったんで、ある程度キャストは多い方がいいだろうと。そのふたつですね。

――『S高原から』はとくにどのへんが残ってたんですか。

前田 やっぱその、死について。ま、死について考えると同時に生についても考えなきゃいけないんですけど。その両方っつうか、それがひとつのことだってことをすごく考えていて。オリザさんの作品の中で一番ありありと死について語ってるのはやっぱり『S高原から』。他の作品にも死の匂いがするんですけど、でもまあ一番わかりやすい。言い方は悪いですけど、リトマス紙的なものとしてもいいんじゃないかと思って。

――なるほど。五反田団もここ最近の何作か、生と死の影がすごく濃厚に出てますよね。それも、生と死、その二つの境界をあえてぼかすというか、よくわからないものとして描こうとしているように見えます。まさに『ふたりいる景色』の後半がそうだし、『キャベツの類』では生と死が円環構造として表現されていました。生と死については昔から関心があったんですか。

前田 気づいたのは途中なんですけど、ずうっと前からだと思います。

――気づいたっていうのは、作品としては?

前田 どこで気づいたのかなあ。まあ何も考えずにずっと書いてて、で、あるとき本を読んだとかそういう別の刺激があったと思うんですけど、その刺激によっていままでずっとそういうことばっかり書いてきたことに気づかされたんです。で、気づいちゃうと今度はそれに縛られちゃうんですね。ただいまはしばらく縛られててもいいかなーと思っていて、ずっと生と死のことについて考えてるんですけど。

――最近、雑誌に載ってた前田さんのプロフィール欄に「影響を受けた人」っていう項目があって、そこに並んでた名前が横尾忠則、アラーキー、福島章――なるほど、と思って。あとそこにもうひとり蛭川立さんという方の名前があって、この方は僕は知らなかったんですけど……。

前田 あっ! そう、その人が……。

――はい。蛭川さんのことちょっとだけ調べたら「既存の学問領域にこだわらない幅広い視点に立ちつつ、一貫して性と死という現象を通じて、意識、自我という難題にアプローチしている」ってあって、失礼ですけど、それってまさにいま前田さんがやろうとしていることじゃないかと思って。

前田 そうなんです。ずっと生と死ってことを考えてて、本もそういうのばっか読んでたんです。で、たまたま蛭川さんの本――『性・死・快楽の起源』だったかな、最初何ページかがおもしろかったんで買って読んでみたら、もうまさに俺がいま考えてることじゃん!って。

――それはいつ頃のことですか。

前田 えー、いつだっけな。いやでも2年は経ってないんじゃないかな。それまでは精神分析とか犯罪心理学とか読んでたんですけど。

――福島章さんとかですね。

前田 そうです。あと夢分析とか。でも蛭川さんはすごくいろんなジャンルのことをやってる人なので、民俗学なんかもおもしろいなって気づかされて。たまにそういうすごく霧が晴れるっていうか、自分の中にあったもの――たぶん無意識にある非言語的なものが、それを読むことで言語化されていく、かたちになっていくっていう感覚を感じることがあって。それが、蛭川さんの本だったり福島さんの本だったり、最近では中沢新一さんの本もそうですね。

――ああ、そのへんの影響は作品にも顕著ですね。

前田 だからたぶん、みんな同じなんだと思います。みんな普遍的に持っていて、たとえば蛭川さんがいろんな経験から言語化したものに僕が共鳴したってことは、僕も「それ」を持っていて作品に投影されている。もちろんまったく同じ感覚ではないでしょうけど。

――野暮を承知で聞くんですが、「それ」っていうのは具体的にどんなものなんですか。

前田 僕が戯曲の中で無意識のまま出してることがあるんですね。芸術ってのは「それ」を無意識のままポンとテーブルに置くようなことで、すごく難しいですけど、そういうことをやろうとしている。たとえば『キャベツの類』のときに、「神」のこととかまったく考えてないのになんとなく「神」だろうなと思って無意識で出したんですけど、中沢新一さんの『カイエ・ソバージュ』を読んだときに、自分があそこで「神」を出したのは必然的なことだったとわかったんです。自分の作品についてあとから説明してもらってるみたいな感じ……。

――ちょっとすいません、『キャベツの類』での「神」ってのは中沢さんによるとどういうことになるんですか。

前田 あの、なんだろ、言葉ではうまく説明できないんですよね。ただ、僕の考え方でいくと全部カンで書いたり、カンでしゃべってるんですけど、そのカンの精度が上がるっていうのがあって。中沢さんや蛭川さんの本を読むと何かが言語化されて、ただそれを覚えていると今度はそれが枷になっちゃうんですぐに忘れるんですけど、その読んだ知識でカンの精度が上がっていくという感覚があるんです。たとえば「神」を出すか「犬」を出すかってなったときに「神」だろって思う。その2択ならたぶん「神」で合ってる。そういうふうにカンの精度がどんどん上がっていく感じ。

――興味深いのが、そうやってカンの精度を上げていったときに、やっぱりおしっこが出てくるじゃないですか。『ふたりいる景色』でも。おしっこっていうのはなんかあるんですか。

前田 それは自分でもなんでかなと思ってて。やっぱり誰かの本で、あっそういうことだったのかってわかったんです。自己と他者がありますよね。子どもがまず最初に興味を持つのは自分自身らしいんです。まず自分の手とか身体に興味を持つ。自体愛ですね。次に興味を持つのが排泄物。子どもっておしっことかうんこが好きじゃないですか。排泄物って自分と他者の中間にあるものなんですよ。さっきまで自分の中にあったのに、いったん外に出ると他者になっている。

――自己でもあり他者でもあるっていう。

前田 中間物ですよね。それはちょっと飛躍して考えると、たとえば母と子の関係もそう。おなかの中にいたのが外に出たとたん他者になりますよね。自己だったもの、自分と同じだったものが、外に出たとたんに他者になるっていう感覚。だから自他のことについてすごく考えてるときに、排泄物であるおしっこを想起してしまうのは自然なことなんです。それは性的なことともすごく関わっていて、性交で相手の中に入るとか交わることについて「溶けあう」って表現を使ったりしますよね。自分と相手の境界をなくすような。だから性交も自己と他者をひとつのものとしたり、自己に取り込もうとしてしまう感覚のメタファーであったりする。でも舞台上で(性交を)やるわけにはいかないですよね。ま、ポツドールはやってますけど(笑)。

――それを聞くと昔から食べ物がよく出てくるのもわかるような気がします。ゴマもそうだし、キャベツ、餃子……。

前田 やっぱり食べ物も性的なことだと思うんですよね。>>

注3ニセS高原から
平田オリザ作「S高原から」を、島林愛(蜻蛉玉)関美能留(三条会)前田司郎(五反田団)三浦大輔(ポツドール)の演出家4人が、それぞれオーディションで選んだメンバーで上演した連続企画。2005年8月から9月にかけて、東京・こまばアゴラ劇場で開かれた。