◎含羞について
川光俊哉
「ぼくは(と一人称で述べる)、演劇に対して、急速に興味を失いつつある」と、青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト「アンドロイド版『三人姉妹』」の劇評『カレー礼讃』に、ぼくは書いている。いまも、その思いはほとんど変わらない。舞台芸術は「いまここ」で起こるライブである以上、「急速に興味を失いつつある」「演劇」はもちろん「現在の演劇」を意味するのであって、たぶん過去には興味を持てる・おもしろい演劇があったにちがいないし、明日以降の未来の演劇は、ぜったいに現在のままではいけない。「実験的」「前衛的」と称し、実際には、もっとも「実験的」「前衛的」ならざるもの、「実験的」「前衛的」というジャンルをつくり、そこに安住している演劇人を、ぼくは嫌悪する。
テキストの解体、役者の肉体、こういった流行のキーワードをちりばめた「実験的」「前衛的」と称するものは、それだけでは腰が落ち着かないのか、多くの脚本家・演出家は、文学コンプレックスにとらわれた主題・テーマを欲しているらしい。はっきり言えば、つまらないことの言い訳として、重大で高尚そうな主題・テーマを設定し(しばしばとてもその意図が分かりやすい)、ぼくが「つまらない」と一蹴するのを予防している。つまらないが、しかし、深い、芸術的な、文学的な表現ではあるという逃げ道だ。
しかし、つまらないんだ、本当に。どこかのてきとうな劇団のホームページを見ると、たいてい劇団の理念が書かれているが、こんなに真剣な問題意識を持ちながら、どうして、つまらないと言わなければならないのかとかなしくなる。なにもないんだ。しょせん、あとづけのテーマなんだ。つまらないことの言い訳なんだ。サロン的な極小の身内で流行を焼き直して披露するという繰り返しには、安易で便利な方法だ。
最近読んだこの一文を思い出し、読み返したが、やはり全面的にぼくは賛成する。「まことしやか」を嫌悪・排斥・拒絶しようとしながら、「まこと」にはなりきれない中腰の状態が、実は「まことしやか」そのものでしかない。もちろん、ぼくは演劇に(も)ホンモノを求める。ホンモノがないのならば、純正無雑のニセモノでもいい。ナンセンスで、毒にも薬にもならず、くだらない、という事実にビビることなく、文学コンプレックスから自由なものを、ありのままに提出するという近ごろめずらしい勇気は、それだけでひとつの「まこと」の態度であり、上等な主題・テーマにすらなりえる。「河原乞食」に徹することもできず、魂を売る覚悟もなく、芸術家ヅラしてお茶をにごすやつには、しょせんニセモノの人間しか描けない。
AnKをぼくがひいきにしているのは、
などと「SUMMER PARADE」のパンフレットに書いてはいるが、こんなふうに堂々とテーマを発表してしまうこと、またこのようなテーマを演劇で表現するということの恥ずかしさに、作・演出の山内晶が無自覚ではないからで、彼女は優等生じみたホンモノを自称するのは照れくさいが、ニセモノにとどまることの不毛さをも知っているのだと思う。この態度が「「まこと」にたいする回避・傍観・圧殺」でも「世界現実にたいして「斜に構え」る」のでもないことを言うためには、「恥ずかしさ」について言わねばならない。引用のつづきをあげれば、
だが、世界現実にたいして「斜に構え」ることは、「含羞」ないし「廉恥」からずいぶん遠い精神であり、『中庸』の「学ヲ好ムハ知ニ近ク、力(ツトメ)ヲ行(オコナ)フハ仁ニ近ク、恥ヲ知ルハ勇ニ近シ。」における「恥ヲ知ル」とは裏腹の魂である。…
サマースクール(?)の一夜、テントで眠っているひとりの男の子と、サングラスの男。そこに、みつあみの文学少女がまぎれこみ、自分の書いた物語を男の子に聞かせる。この「SUMMER PARADE」のあらすじを書くぼくは、すでに恥ずかしい。さらに、男の子はロボットで(名前は『スター・ウォーズ』からとった「R2D2」)、サングラスの男はR2D2の世話をするバイトで、女の子のほうは真田那樹夢(なじゅむ)という「キラキラネーム」で、パンフレットによれば「イギリス、少女漫画、宇宙、キュンキュン、自意識、ソンブレロ、花びら、みじめ、王冠、キス我慢、絶望、空想、カバ、インディアン、家族、全部登場します。」記号の氾濫は、テーマを大声でさけぶことへの「含羞」である。それをしっかりと握りしめていながら、「こんなことを私が言っていいのかな」と、こちらの目をそらそうとし、なにも持っていないふりをする。すでに山内には、あとづけのテーマを捏造する必要がない。
那樹夢は、その物語を「ホログラフィ」によって(つまり「コヨーテ」、「ポリネシア」、「FRUITY」と役名にある三人の劇中劇によって)、R2D2に語っていく(「アメリカのサマースクールと、アラビアンナイトがすべてのはじまり!」とパンフレットにある。シャハラザードのイメージだ)が、そこで繰り広げられるおなじみの「少女漫画」のパロディなどは、山内の「含羞」を証明するものだろう。パロディの母体であるユーモアの精神は、もっとも透徹した知性と、世界現実にたいする真摯な視線、みずからの創作にたいする客観性の所産である。
そこらのくだらない小劇場演劇と決定的にちがうのは、山内が人間というものへの愛を持っているということだ。結局、ぼくがえらそうに述べきたったことは、精神論に落ち着いてしまうのだ。しかたがない。「感心してくれよ」とものほしげな芸術家の顔は、けっして見えてこない。自分のつくりあげた、どうしようもない人々の、そのどうしようもなさを、どうしようもないがゆえに愛し、にやにやと見守っている。
那樹夢と母親との行き違いが物語(劇中劇)に見え隠れし、R2D2はロボットである自分の孤独な境遇と重ねあわせてしまい、口論に発展する。那樹夢とR2D2が「クソ」「死ね」と言い合う。演劇に口語をつかうことはいまさらめずらしくもなんともないが、ここでは、それが無反省なスタイルではなくなっている。「クソ」「死ね」ではなにも言っていない、しかし、なにかを言おうとすると、そのことばにしかならない。「好きだ」という気持ちをこめて、「クソ」「死ね」と言わなければならないこともある。こんなことも一見空虚な記号のなかに隠そうとつとめ、だからどうしたと主張するわけでもなく、「むずかしいよね」と、しずかにぼくに同意を求めるような、やさしい「含羞」の顔がある。
「まことしやか」なこけおどしの芸術などに、気圧されたりしないことだ。那樹夢とR2D2の会話に、少しあやういものを感じた。文学少女とロボットだから、子供にしては奇妙に論理的でもってまわった言いかたも、背のびしたかわいらしさとして受け入れられたが、文学コンプレックスのくさみを感じたこともたしかだ。もっといいかげんにやればいいのだ。笑って「くだらない」と言われれば、AnKにとって最大のほめことばだろう。
【筆者略歴】
川光俊哉(かわみつ・としや)
島根県生まれ。劇作を川村毅に師事。人形創作を清水真理に師事。小説『夏の魔法と少年』が第二十四回太宰治賞で最終候補作に選ばれる。小説、劇作、作詞、俳優、音楽劇脚色など、幅広く活動中。ポストハードコアバンド hymhym の初音源『Imhymhym』を発売予定(Voice & Lyrics)。ブログ『川光俊哉日記』。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kawamitsu-toshiya/
【上演記録】
AnK「SUMMER PARADE」
大山SUBTERRANEAN(2013年9月18日-22日)
脚本・演出
山内 晶
出演
上野友之(劇団競泳水着)、関亜弓、富永瑞木、前原瑞樹、村上玲、矢沢洸平
スタッフ
照明 福谷こすも
照明操作 土屋玲奈
照明指導 板谷悠希子
音響 櫻内鐘海
美術・衣装監修 椙山K子
フライヤー・web 平舘宏大
演出助手 森田百合花
制作助手 菅谷希美
制作 幡野 萌
料金
前売/2000円
当日/2500円
金曜マチネ割/各500円引き
リピーター割/1000円