◎死者の権利と生者の自由―KYOTO EXPERIMENT 2013報告(第1回)
水牛健太郎
今年の3月末、2年住んだ京都を引き払い、東京に戻ってきた。しかし、KYOTO EXPERIMENT報告はせっかく2年やったので、今年も(できれば来年以降も)続ける。平日は東京で仕事、予算の都合もあり週末ごとに深夜バスで5回往復という強行軍になるが、それだけの価値はあるだろう。
半年ぶりの京都は全く変わっていなかった。いや、変わっているところもあるはずなのだが、バスを降りたその瞬間から何の違和感もなく、この町に住んでいるように感じては「あ、違った。今は東京だ」と思い出すことを何度か繰り返した。
これからひと月は私の怪しい京都弁も復活である。ひときわ美しい10月の京都を、演劇との出会いを求めて自転車で駆け回りたい。
◆「地面と床」
チェルフィッチュの「地面と床」はオープニング作品にして今年の目玉の一つ。力強く完成度の高い作品だった。(なおこの作品は12月に横浜での公演が予定されています。「ネタばれ」が鑑賞に支障をきたす性格の作品ではないと思いますが、それでも事前に内容を知りたくない方もいらっしゃると思います。その場合はこれ以上この原稿を読まれないことをお勧めします)
舞台は横長の板敷で、中央の奥に横の方が長い十文字の白い板がホワイトボードのように立ててある。表面を和紙を思わせる繊維の粗い材質が覆っている。上演が始まると分かるが、これは字幕のスクリーンで、日本語が縦に、英語と中国語が横に映る。英語と中国語は横軸を貫いて英語が上、中国語が下に映る時もあるし、日本語が縦軸に映る両側に、向かって右に中国語、左に英語が映ることもある(この字幕及び言語はこの作品に関する重要なポイントの一つであり、後で論じる)。
この作品は、近未来の日本で起きると想定される、本質的で相容れない対立を軸としている。一言で言うとそれは、死者の権利と生者の自由の対立だ。登場人物は5人おり、そのうちの男性2人は兄弟である。長男の由多加(矢沢誠)と次男の由紀夫(山縣太一)。この2人を挟んで、兄弟の母・美智子(安藤真理)と長男の妻・遙(青柳いづみ)が対立するが、美智子は既に亡くなっており、幽霊なのである(なおもう1人の登場人物さとみは後で触れるが、家族ではない)。舞台の右側に大きな円状のLEDライトらしいものがあって、それが美智子の墓を象徴している。さらにその右隣には大きな鏡がある。
美智子(たまたま?皇后と同じ名前である。ただしこの名前はパンフレットにはあるが、劇中には登場しない)は死者の「忘却に抗う権利」を主張し、遙に付きまとう。また、不器用でなかなか仕事に就けないが墓参りを欠かさない由紀夫を愛し、自分を忘れがちな長男夫婦を批判する。それは自分が眠っている日本の土地や、その上で暮らしていく民族の永続性を信じる気持ち、日本語という言語への愛ともつながってくる。美智子の意を受け継ぐ由紀夫は、三島由紀夫から取ったと思われるその名が示すように、日本の国と文化の守り手として振る舞い、隣国の侵略があれば立ち向かう決意を固める。
日本という土地と共同体へのコミットを求める2人に対し、遙は強く反発する。死者には権利などないと言い、自分のお腹の中にいる子を守るために、邪魔になるものとは戦おうとする。日本で子どもが幸せになる未来が見えないと言い、必要ならば由多加を捨て、子供と2人で日本を離れることもいとわない。
こうした対立は、セリフだけでなく、俳優の配置や身振りを伴って表現される。俳優の身体表現について言えば、かつてのチェルフィッチュの「無駄な動き」を伴う「だらしない身体」とは異なり、むしろ象徴性の高い、静止表現が使われている。特に青柳いづみ演じる遙がそうで、美智子と対峙する場面では両足で床をしっかりと踏みしめ、やや斜めに顔を傾けて、5メートルほど離れた美智子をじっとにらみながらセリフを言う。その間数分間、身じろぎもしない。この場面では美智子も両足をやや開いた静止ポーズで遙に向かい合う。そのため、舞台に張りつめた緊張感が漂う。
一方、山縣太一の由紀夫は墓参りの場面で手を大きく動かし、呪術的な雰囲気を醸し出すほか、床を四足で歩き回ったり、片足で身体を揺らしたりする。矢沢誠の由多加は弟との対峙など心が揺れる場面になると、サルのように背中を丸めたり、片足を軸に不安定な姿勢になったりする。結果としてこの4人の家族の中では、対立を恐れない女性の揺るぎない強さ、一方で男性の不安定さが強調されているように感じた。
あと一人の登場人物は佐々木幸子演じるさとみだ。さとみはかつて由多加と遙の友人だったが、引きこもるようになってしまった女性だ。さとみの存在は、作品の中心である家族ドラマと一歩離れた場所から、社会に取り残された声なき声を象徴する。セリフを異常な早口で口にしながら、時に身体をゆらゆらと揺り動かす。
由多加は弟の由紀夫にも、またさとみにも後ろめたさを感じ、自分たちに何かできるのではないかとの気持ちを捨てきれない。ところが遙は彼らを「生きているけど幽霊みたいな人」「私たちをこの場所にとどまらせようとするべっとりした力」と呼び、切り捨てる姿勢を鮮明にする。
遙はお腹の子を守るという明快な価値観のもとで周囲の全てを敵に回してでも道を切り開いていこうとする。「お腹の子は僕の子でもある」という由多加をも、「何を言っているの。顔を見たこともないくせに」とあざ笑う。
遙が持っているのは、草創期の武士が持っていたような単純さの力である。平安時代の貴族は、複雑で呪術的な世界観を持ち、神仏の力や死霊のたたりを恐れながら生きていた。そこに新しく登場した武士は、自分の命をいつでも捨てられるものとして軽く考えることで、圧倒的な行動の自由を獲得し、やがて時代の中心に躍り出ていった。
文化的な伝統やお互いへの配慮など、様々な見えない力による自縄自縛を、遙は「自分とつながる生命を守る」という一点で突破していこうとしている。大地を両足で踏みしめ、背筋を伸ばす姿勢は、その強い意思を象徴するものだ。そのたたずまいがかつての「チェルフィッチュ的な」だらしない身体の否定に見えるところが、極めて興味深いポイントとなっている。
こうした本質的な対立が、バンド「サンガツ」の無意識を刺激するような音楽の助けを借りつつ、夢幻の雰囲気を伴う忘れがたいイメージとして提示されていることが、「地面と床」という劇の最大の魅力であると感じた。
「地面と床」の言語について
この作品において字幕は、単に外国人のための便宜ではなくて、本質的な構成要素の一つになっている。だから舞台の真ん中に置かれているし、劇の時間を規定してもいる。会話の場合、俳優は相手のセリフの訳が字幕に映るのを待って自分のセリフを発する。結果として間の大きい会話になる。長いセリフの場合には、しばらくしゃべってから、字幕が訳し終わるのをじっと待って続きを口にすることもある。英語ないし中国語が分かる観客にとっては、セリフの意味を字幕が映し出される間に外国語で確認することが、セリフの印象を強めている。
こうした字幕の位置づけは、この劇の問題意識の一つ――日本語はローカルな少数派の言語にとどまり、やがて消えていくのではないか――の反映となっている。絶滅危惧言語であり、英語や中国語に従属する存在としての日本語。そのことは、直接観客に対して字幕の形で問いかけられもする。「あなたは思いますか 日本語が消えてなくなる 数千年後 数百年後」(意味深にも英語の語順が用いられている)。
私は生活の糧を日本語教師(外国人に日本語を教える)として得ている人間であり、しいて言えば「日本人」よりも「日本語」の方が好きなぐらいだ。が、この問いかけに答えるならば、日本語が将来消えてなくなる可能性は高いと考えている。もし残っていたとしても、今の日本語とは似ても似つかないぐらい変質したものになっていることは間違いない。現状の日本語は仲間内のコミュニケーションに特化しており、文化的・歴史的背景を異にする他者との対話に適していないこと、ひらがな、カタカナ、漢字と文字を3種類使う極めて複雑な表記法を採用していることがその理由だ。
日本語の特質は、「地面と床」で用いられている言葉でも明らかになっている。この作品のセリフは、以前「チェルフィッチュ語」と言われたようなうねうねした口語とは全く違うもので、しばしば翻訳調の、論理的で硬質な日本語が用いられている。それにもかかわらず、字幕の英語、中国語と比較すると、言語としての性質の違いは歴然としている。
たとえば、「そうだよ」というセリフに「That’s right」(それは正しい)という英語、「是的」(そうだ)という中国語があてられている。「そうだよ」という言葉には「です」という丁寧形でなく「だ」が用いられ、さらに「よ」という終助詞がついている。ここに、話し相手との対等で気安い関係が表現されている。たとえばまた、「わからないけど」には「I don’t know」(私は知らない)という英語、「我也不知道」(私も知らない)という中国語があてられている。「けど」に込められた疑念を込めた保留のニュアンスはなくなっている。
私は副業でときどき、ビジネス文書の英訳を請け負っているが、その際に不可欠なのは、日本語文書の中から論理を抽出し、それを前景化していく作業だ。日本語に論理がないわけでは、決してない。しかしその論理はしばしば、背後に退いていて見えにくくなっている。そのかわりに前面に出ているのが、相手との関係づけとその維持である。硬いビジネス文書ですらそうなのだ。
日本語使用者は、ニュアンスに富んだ語尾の他にも、「わたし、おれ、ぼく、あなた、お前」等々、多彩な人称代名詞の選択や、複雑な敬語のシステムなどで相手との距離を測りつつ徐々に確定していく。いったん関係ができると、相手との会話の内容は同意の取り付けと維持がその中心になる。関係づけとその維持のための言語的な努力はしばしば、意味や意思を伝えるという機能を度外視するほどのものになっている。
それに対し、英語は日本語よりも自分の意思や事実を相手に伝える機能が前面に出ている。そのために、表現に論理性が要求される割合が、日本語よりも高い。中国語(普通話)も(せいぜい中級レベルの学習経験者である私の知る限り、だが)、英語とは別の形ではあるが、やはり独自の論理性を備えている。
こうした日本語と英語・中国語の違いは、英語と中国語が文化や歴史を異にする人々どうしの間の意思伝達手段として発達したからである。英語の場合、小さなグレートブリテン島に多くの民族がひしめき合い、共通の言語を発達させていく中で、動詞の人称変化がなくなるなど、文法が単純化されていった。中国の歴史の複雑さ、行き交った民族の多様性は言うまでもない。そうした歴史を通じ、各王朝の皇帝が広大な中国の隅々にまで指示を行きわたらせるための道具として、言語が磨き上げられていった。文化・歴史を異にする他者の間では、関係の維持に配慮するよりも、誤解が生じないように明確に意思を伝えることの方がはるかに重要である。
日本語はそれとは全く異なる。たとえばこの作品では、次男の由紀夫は語尾に終助詞の「よ」を付けて話すことが非常に多い。「よ」という終助詞は相手との良好な関係の確認や相手の同意を求めるニュアンスがある。だから、同意が必ずしも想定できない場面では、同意を強要するようなニュアンスを伴う。それが由紀夫のどことなく甘えた、それでいて押しつけがましい感じを醸し出している。
一方、最も先鋭な日本語の使い手はさとみである。さとみは「~んですけど」「~じゃないですか」「~だからさ」「~だしね」等々、多彩でニュアンスに富んだ語尾を多用しつつ凄まじい早口で話す。しかし同時に、日本語の使い手が少なくなり、自分が言語的な孤立に追い込まれていることを知っており、字幕がニュアンスを正確に伝えず、表示に時間のかかることにいら立ちをぶつける。そこにさとみが追い込まれた閉塞がある。遙の夢に登場したさとみは、遙に、お腹の子供に日本語のような絶滅危惧言語を教えないように勧める。
由紀夫とさとみの日本語は、彼らが日本的なコミュニケーションへの依存度が高いことを示している。それは本来、責められるようなことではなく、事実さとみの日本語は、極めて豊かな表現力を備えている。しかしそれは、日本語話者以外には伝わりようがない。それがそのまま弱点に転じかねないのがこれからの時代なのである。
一方、遙のセリフは自分の意思や事実をストレートに伝えるものが多い。遙は女性性を表す終助詞の「わ」を多用するが、それ以外に言葉にニュアンスを付加することは少ない(遙と由多加は互いに「よ」を付けて話すことが多いが、夫婦という関係である以上、当然のことと言えるだろう)。遙の言葉遣いは日本語としてのニュアンスに乏しく、夫に対する場合を除いて、同意の取り付けや関係の維持にあまり関心がないことを端的に示している。それは、自分の子を守るために、由紀夫やさとみのような存在を切り捨て、必要とあらば日本を去ろうとする遙の考えと対応したものになっている。登場人物間の話し方の違いが、彼らの日本社会に対するスタンスの違いを明確に表している。
このようにこの作品では、日本語の問題はコミュニケーションの中核にかかわるものとしてとらえられており、日本語自体が、日本社会が現在陥っている隘路を象徴するものとして提示されている。
一方で、日本の永続性に賭ける美智子の話し方は意外や遙に近く、意味や意思が前面に出たものである。そもそも死者であるということもあるだろうが、身体的な表現でも言えるように、この対立する2人には、どこか似たところがある。
劇は美智子の独白で終わる。美智子は由紀夫が最初に言葉を覚えたときのことを思い起こす。由紀夫が最初に覚えた言葉は「ママ」であった、そして「はじめに覚えた言葉は日本語ではなかった」と言って舞台を去っていく。
この最後のセリフは唐突な感じがし、謎めいた印象を残す。日本語を称揚する美智子が、気に入りの息子である由紀夫について、どうしてこんな発言をするのか。
一つの解釈としては、本来外国語であったはずの「ママ」という単語をも融通無碍に取り入れる日本語の可塑性に、美智子は望みをつなげているのではないか。そうだとすれば、美智子は偏狭な伝統主義者ではない。むしろ、文化や伝統を大胆に改変しながらも日本人としてのアイデンティティを維持してこの地で永続していこうとする戦略を象徴しており、遙が象徴するドライで「グローバル」な生き方に対して、未来につながるもう一つの可能性を示しているとも言えるのである。
◆「突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる」
ブラジルのマルセロ・エヴェリンは2年前のKYOTO EXPERIMENT 2011で「マタドウロ(屠場)」という作品を発表した(この作品について、ワンダーランドに私と高嶋慈さんの劇評が掲載されている)。
「マタドウロ」は8人の素っ裸のパフォーマーが講堂を円状に50分も走り続けるというもの。単純ではあるが、力強い作品だった。今回の作品も、単純と言えば単純なアイディアを突き詰めたもの。しかし、私は強烈なインパクトを受けた。
今回の会場となった京都芸術センター講堂(ちなみに前回の「マタドウロ」は元・立誠小学校の講堂だった)には、今回の作品のために、1辺7~8メートルの正方形のリングのようなものが作られた。1メートルぐらいの高さにアルミパイプを吊るし、その内側に長さ1メートル余りの蛍光灯を、1辺につき5本ずつ括り付けた。リング内の床には黒いゴムのシートが敷き詰められている。
観客が講堂の中に案内されると、蛍光灯は暗く灯っており、人の顔もはっきり見えないぐらい。観客は最初リングの中に入るよう求められる(パフォーマンスの進行とともに外に出るのは自由)。リングの中には素っ裸の全身を黒く染めた5人のパフォーマーが互いに腕を組み「ダッダッダッダッ」とリズミカルに足音をそろえてジョグしている。じっと見ていると、女性2人、男性3人であることが分かる。
やがて5人は背中に手を回し合い、輪になってリングの中を歩き出す。観客は塗料が服に着くのを恐れる気持ちもあって、5人を避けて動く。楽しそうな歓声が響いた。そのうちに5人の凝集度が高まり、5人で抱き合うような形になった。5人は身体の大きさも力も違うので、まるで多くの指が乗ったこっくりさんのように、動きが不規則的になった。速度も上がり、勢い余って倒れることもある。その瞬間、蛍光灯が明るくなり、床に転がる5人の姿が浮かび上がった。
その度に5人は起き上がったが、何度か起き上がるうち、やがて倒れても起き上がらなくなった。息も荒い。そうして一体性を保ったまま、転がり始めた。手や足が交差し、誰かの身体が別の誰かの身体の上や下になり、アメーバのようにじわじわと一方向に動く。薄暗い中でこれを見ていると、私の中で無意識が活発化し、忘れていた記憶を思い出しそうな不気味な感覚が広がっていった。人間の外枠が崩れていきそうな怖さが5分くらい続いた。
それから5人は再びお互いを支えながら立ち上がろうとするが、1人がバッタリ倒れ、それを合図に5人はリングのあちこちへ広がっていった。幽霊のように、その場その場で出会う観客に近づいたり、顔を覗き込んで目を合わせたりしながら、触れることはなく歩いていく。
それから5人は再び1か所に集まり、激しく動き始めた。洗濯漕の中の洗濯物のように、互いにぶつかり合いながら回転し、全体としても大きな輪を描くように動いていく。まともに衝突するとけがをしかねない勢いで、観客は遠巻きに見守るばかりだった。これが数分続いたのち、また5人が固く抱き合って歩き始めた時、突然どこからか新たに全身を黒く染めた男性パフォーマーが1人現れ、5人にぶつかった。まるで原子と分子の衝突のように、新たな1人が加わると同時に女性パフォーマーが1人はじき出された。彼女は全身をけいれんさせるかのようにもだえ、悲しがっているようだった。
やがて彼女がグループに復帰し、6人のグループとなると、6人はお互いに身体を愛撫し、男女問わずキスをし合い、ため息と声を漏らし始めた。それまで、性器を露出した男女が身体を密着させているにもかかわらず、性的な雰囲気は全くなかったのだが、ここで一気に爆発したかのように、お互いの身体をむさぼり始めたのだった。このころ蛍光灯も明るくなり、その様子を観客に見せつけるかのようだった。
それからまた6人はばらばらになり、静かにゆっくりと歩き、リングの中をさまよい、やがて講堂の外へと出て行った。
このパフォーマンスは、見る者の心をいささか乱暴なまでにかき乱し、多くのことを感じさせた。そこには現代社会につながる寓意もあろうし、様々な分析も可能だと思うが、それは他の書き手(いればだが)に任せたい。
見終わって感じたのは、これはパフォーマーにとっても極めて過酷なパフォーマンスだったに違いないということだ。よほど精神をしっかり保たないと、混迷に陥りかねない危うさを感じた。6人のパフォーマーに深い敬意を表したい。
【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
ワンダーランド編集長。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro/
【上演記録】
KYOTO EXPERIMENT 2013
チェルフィッチュ「地面と床」
京都府立府民ホール アルティ(2013年9月28日‐29日)
作・演出/岡田利規
出演/山縣太一、矢沢誠、佐々木幸子、安藤真理、青柳いづみ
音楽/サンガツ
美術/二村周作
ドラマトゥルク/セバスチャン・ブロイ
衣装/池田木綿子(Luna Luz)
解剖学レクチャー/楠美奈生
舞台監督/鈴木康郎、中原和彦
照明/大平智己
音響/牛川紀政、大久保歩
映像/山田晋平
英語翻訳/アヤ・オガワ
中国語翻訳/小山ひとみ
製作/クンステンフェスティバルデザール、チェルフィッチュ
企画制作/プリコグ
共同製作/KYOTO EXPERIMENT、フェスティバル・ドートンヌ(パリ)、
Les Spectacles vivants – Centre Pompidou(パリ)、HAU Hebbel am Ufer(ベルリン)、
ラ・バティーフェスティバル・ド・ジュネーヴ、KAAT 神奈川芸術劇場、
De Internationale Keuze van de Rotterdamse Schouwburg(ロッテルダム)、
ダブリン・シアター・フェスティバル、テアトル・ガロン(トゥールーズ)、
オナシス・カルチュラル・センター(アテネ)
レジデンシーサポート/KYOTO EXPERIMENT、KAAT 神奈川芸術劇場
協力/急な坂スタジオ
京都公演広報協力/演劇のしおり
共催/京都府立府民ホール アルティ
主催/KYOTO EXPERIMENT
チケット料金
一般 前売 ¥3,500/当日 ¥4,000
ユース・学生 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
シニア 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
高校生以下 前売 ¥1,000/当日 ¥1,000
マルセロ・エヴェリン/デモリッション Inc. 「突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる」
京都芸術センター講堂(2013年9月28日‐10月1日)
クリエーションメンバー/アンドレ=リーン・ジッゼ、ダニエル・バラ、エリエルソン・パチェコ、長洲仁美、ジェル・カローネ、ルス=ファン=デル・プリット、マルセロ・エヴェリン、マルシオ・ノナト、レジーナ・ヴェロソ、ロサンジェラ・スリダーデ、セルジオ・カッダー、瀧口翔、タマール・ブロム、ヴィルフレッド・ロープストラ
製作/デモリション Inc.
共同製作/KYOTO EXPERIMENT、クンステンフェスティバルデザール、パノラマ・フェスティバル
助成/公益財団法人セゾン文化財団
主催/KYOTO EXPERIMENT
チケット料金
一般 前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
ユース・学生 前売 ¥2,500/当日 ¥3,000
シニア 前売 ¥2,500/当日 ¥3,000
高校生以下 前売 ¥1,000/当日 ¥1,000