青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト「アンドロイド版『三人姉妹』」

◎カレー礼讃
 川光俊哉

「アンドロイド版『三人姉妹』」公演チラシ
アンドロイド版「三人姉妹」公演チラシ
 チェーホフの『三人姉妹』は、『かもめ』や『桜の園』に比べても、読みにくい戯曲のように思う。私がそう感じるだけかもしれないが。
 いったい何が書いてあるのか、よく分からない。いや、大ざっぱには分かるのだけれど、一人ひとりの発話が、大きなテーマと結びついているのかいないのか、よく分からない。はっきりしない。ただ、巨大な寂しさだけが、そこに残る。十九世紀末、あるいは、二十世紀初頭のロシア帝国の地方都市という、とてつもなく特殊な背景を題材としているのに、この作品が大きな普遍性を獲得しているのは、たぶん、この曖昧さにある。たとえば聖書に書かれたこと、あるいはイエスの発言自体が、いかようにも解釈できるために、のちに、いくつもの偽書が生まれてきたように。
 アンドロイドを使った本格的な演劇を作るにあたって、すぐに思いついたのは『三人姉妹』の翻案だった。
 アンドロイド、あるいはロボットが根源的に持つ寂しさを描きたいと思った。いや、厳密に言えば、ロボットは寂しがらないので、寂しく感じるのは私たち人間なのだが…。

 『アンドロイド版 三人姉妹』の当日パンフレットで、作・演出の平田オリザはこのように書いているが、平田の翻案に対して、よくも悪くも、「分からない」という印象(全体的な、腑に落ちないという感じ)はない。

 「よくも悪くも」―「よくも」のほうを言えば、「十九世紀末、あるいは、二十世紀初頭のロシア帝国の地方都市という、とてつもなく特殊な背景」を、「二十世紀末、あるいは二十一世紀初頭(?)の日本の地方都市という、きわめて一般的な背景」に置き換えることに成功していた、ということで、「悪くも」のほうも、実は同じ点にあり、まったく類型的な・凡庸なホームドラマ(家庭劇にあらず)を、わざわざチェーホフの翻案でつくってしまったことにある。「特殊な背景」が「非普遍性」を暗示するにしても、その特殊さのために演劇的(いやなことばだが)であり、その特殊さを追求・刎抉しきったところにも普遍性に通じる道があるはずだが、「曖昧さ」という、それこそ曖昧なひと言で『三人姉妹』の普遍性を言いきり、しかも、その曖昧さを排除するような翻案によって、普遍性ならざる大衆への迎合に、この『三人姉妹』は堕したようである。

 アンドロイド・ロボットをつかった演劇と聞いて、ある期待を持って劇場(吉祥寺シアター)へむかった。ぼくは(と一人称で述べる)、演劇に対して、急速に興味を失いつつある。

 いわゆる「正当な」「伝統的な」演劇(いまやそれを「新劇」とは言わない)のつまらなさは、テキストを役者が覚え、テキスト上の登場人物になりきる(客観的に、テキストに書かれた登場人物を舞台上に現前せしめる)作業に、膨大な時間を消費し(主として後者のために)、これを省略・効率化することが罪悪だと考えるところにあり、その結果として、演劇における(という言いかたが、観客をふくめた公演自体ではなく、主体を創作者とした、演劇人における、となるような)価値観は、公演までの過程が重要であるかのような錯覚にかたよる。

 この非効率性こそが、アート・芸術・エンターテインメントならざる「お芸術」としての「演劇」を支えており、「理論武装」によって、その演劇の純粋な・単純なおもしろさならざる「芸術的意味・芸術的価値」、つまり「お芸術」の存在意義を正当化する。殺人術としての「剣術」(いかに合理的・効率的に人を殺すか)が、幕府の政治的操作によって「剣道」(いかに道徳的・倫理的に人を生きるか)へと姿を変え、その実質的な内容(合理的な殺人術)は骨抜きにされた。

 同じような過程は着々と「芸術」(ここでは演劇)において進んでおり、あるいはすでに手遅れの情況を呈しており、「道」となって生命を失った「芸術」は、作法をただしくなぞる過程そのものに似て、お吸いもののダシに凝ることのみがかろうじて個性の表現たりえる。が、それは、お吸いものであり、ひたすら手間ひまをかけたお吸いもの以外のなにものでもないのであって、「ダシがちがいますね」「分かりますか」などという褒め合いには、ぼくは、与しない。

 演劇の要素は「言語」と「身体」である、というテーゼ(「正当な」「伝統的な」演劇の根拠であったもの)を、小気味よいまでに否定し、あらたな演劇観がそこから生まれるのではないか、というのが、ぼくの「ある期待」の正体であり、結果から言えば、それは、まったく裏切られ、停滞であるどころか、後退しているような印象さえ受けた。あいかわらずの「言語」と「身体」による演劇が繰り広げられていたにすぎず、アンドロイド・ロボットは、単なる無機的な役者として舞台に乗せられていた。

 ロボット演劇に期待していたことを、もう少し具体的に言えば、まったく稽古のいらない、すこぶる合理的・効率的な舞台公演の可能性だった(経済的でもあるだろう)。「術」としての演劇にまだ希望を持つなら、その徹底した合理化・効率化でなければならず、アンドロイド・ロボットの導入によってそれが実現するならば(生身の「身体」以上の芸術的効果を得られるのならば)、演劇はやっと「道」にあまんじていた現状に目が覚めるはずで、あたえられた役の履歴書をつくってみるところからはじめなければ気がすまない人間の役者などを起用する必要がなくなる。
 そうして、アンドロイド・ロボットのみの演劇が登場すれば、かならず「そんなものは演劇ではない」という異論が出るはずで、しかし、それこそぼくの期待なのであって、ぜったいにこれ(アンドロイド・ロボットのみの演劇)を演劇と呼ぶことに躊躇してはならない。ようやく演劇の常識が根底からくつがえされるチャンスなのだから。

 平田は、「一人ひとりの発話が、大きなテーマと結びついているのかいないのか、よく分からない」と書く。これは『アンドロイド版 三人姉妹』でもそのとおりなのかもしれず、さまざまな話題・小波乱が錯綜し、話の筋を追うような観劇のしかたは通用しない。が、全体を支配するホームドラマ的雰囲気が、舞台をその色に塗りつぶしており、それが一貫性をうまく保障しているようで、「分からない」ことが、直接、観劇のストレスになることはない(「分からない」という印象はない)。

 ここで、ふたたび、「よくも悪くも」と言いたくなるが(「よくも」はその雰囲気の一貫性)、ぼくがこの公演を通じて、もっとも「悪くも」と思うのはこの点で、なぜ、数十年前のホームドラマのごとき舞台にアンドロイド・ロボットを登場させようとしたのか、「分からない」(もちろんぼくは、「理論武装」による説明を求めているわけではない)。

アンドロイド版『三人姉妹』
アンドロイド版『三人姉妹』2
【写真は、「アンドロイド版『三人姉妹』」公演から。撮影=青木司 提供=青年団 禁無断転載】

 深沢家のリビングルームに登場する人々に、「他者」としての性格を持つものはいない。理彩子、真理恵、育美の「三人姉妹」、弟・明はもとより、真理恵の夫・俊夫、若手研究者・中野、明の友人・成美、研究者・丸山、丸山の妻・峰子、と一見さまざまな人物が深沢家を出入りするが、このリビングルームに訪れるや、深沢家というファミリー(血縁的家族とは関係がない)の一部となり、おなじ「ことば」を口にしだす。

 家庭内に、誰もが集まるこのような「場」を想定しているのが、まずぼくには異様に思える。用事もないのに、家のなかをうろうろして、引き寄せられるように、リビングルームにしつこくやってくるアンドロイド「ジェミノイドF」をはじめ、とにかく、よく人が出入りする。現代、それが完全に崩壊している、とまでは言わないが、少なくとも、この「場」を維持できているかぎりにおいて、めずらしい、うらやましい家庭であると言える、ぼくはこれを「古きよき」と言いたいし、感じるのは近未来への不安や希望などではなく、ノスタルジーだった。

 ドタバタのあったあと、しんみりさせ、という単純な繰り返しで、小波乱はいちいち、誰かの箴言風のひと言で解決されるが、実はそれが解決でもなんでもない、一歩しりぞいたところからの相対化による問題の棚上げで、収拾していくその求心性は魔術的な日本の家族の包容力(「場」の力)にたよりきっている。三女・育美の「引きこもり」は現代的な(?)問題として取り上げられたのだろうか、しかし、着地する地点はやはり数十年前のホームドラマだ。

 死んだ育美の身代わりとされていた「ジェミノイドF」であったが、まさか、引きこもりを理由に死んだことにしていたとは、思わなかった。本当に死んでいたほうがどれだけドラマチックか分からない、しかし、よほどのことがないかぎり、生きている人間が自分を死んだことにしたりはしない。

 ドラマチック、といって、むやみにはでなストーリーを求めているわけではない、育美の死という叙情的展開へ流れなかったのはいい、それでは、育美の引きこもりの内実(「よほどのこと」)が明らかになるかと思っていると、肩すかしをくらう。同じ空気を共有するものたちの結託によって小波乱を大波乱らしく見せようとするにもかかわらず、このような大波乱は、なぜか小波乱として収拾していく。

 家の外からやってくる人物も、家のなかのアンドロイド・ロボットも、この深沢家にとって「他者」ではない。弟・明の、大学院をやめて、明の友人・成美と結婚し、働くことにする、という宣言、「ジェミノイドF」が秘密を暴露していくくだりなど、『岸辺のアルバム』そのままだ。仮にもプロポーズがあったあとで、そのプロポーズが棚上げされ、明と成美がなにげなく食卓へむかおうと去っていくのは、とても奇妙に見えた。

 「ジェミノイドF」の発言(秘密の暴露)に腹を立てて帰っていく丸山も、次の日になったら「なにげなく」この家にあらわれそうな気がしてしまうのはなぜか。丸山は理彩子との話し合いの結果、今日のところは帰ったほうがいいと理性的に判断したのであって、激怒してちゃぶ台をひっくり返す「父親」でさえない。ただの話の分かる人間に用はない。

 家族の包容力の描かれかたはもはや奇形的なまでであり、構成は、この包容力を前提としたものであるため、いくら盛り上げてみても、むなしい。
 基本的なコミュニケーションのありかたが「話せば分かる」であり、分からなければ、うやむやにしてほったらかす(うやむやにすることができる関係性が存在する)のであって、いわゆるコンフリクト(対立・衝突)ではない。これをドタバタと呼ぶ。
 引きこもっていても、大学に行かなくとも、ひとまず健全なコミュニケーションは成立しているという環境のなか、ひとむかし前のホームドラマ以上の事件が起こるはずがなく、したがってこの近未来の家庭に、なにか(あらたな人間性・精神・魂への視角)を発見することはできない。

 積極的な評価の可能性として、実にありきたりな構造をあえて辞せず、アンドロイド・ロボットによって、調和した世界に、一種の不協和音を響かせようとしたのだとは考えられる。そして、ぼくも、人なみには風味・食感を感じ分けられる「味覚」を持っているので、たしかに、そのような感想を持つことは可能なのだ。一瞬でも、アンドロイド・ロボットに感情移入し、人間より人間らしいと感じてしまったならば、それは、この『アンドロイド版 三人姉妹』の成功だということも分かっている。

 が、それは、お吸いものを口にしながら「いい器ですね」「ちょうどいい熱さですね」「ダシがちがいますね」などと、いうことばをつかって褒めるのに似て、お吸いものを飲んだ(飲まされた)ということ、それがお吸いものの味しかしない、お吸いものそのものであることは、まず、言わなければならない。同じお吸いものなら、カレー味のお吸いものをつくっておどろかせてほしい。が、こけおどしのお吸いものだったら、ぼくは、カレーを食べる。

【著者略歴】
 川光俊哉(かわみつ・としや)
 島根県生まれ。劇作を川村毅に師事。人形創作を清水真理に師事。小説『夏の魔法と少年』が第二十四回太宰治賞で最終候補作に選ばれる。小説、劇作、作詞、俳優、音楽劇脚色など、幅広く活動中。ポストハードコアバンド hymhym の初音源『Imhymhym』を発売予定(Voice & Lyrics)。ブログ『川光俊哉日記』。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kawamitsu-toshiya/

【上演記録】
青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト「アンドロイド版『三人姉妹』」
吉祥寺シアター(2012年10月20日-11月4日)

原作:アントン・チェーホフ
作・演出:平田オリザ
テクニカルアドバイザー:石黒 浩(大阪大学&ATR石黒浩特別研究室)

出演
アンドロイド「ジェミノイドF」、ロボビーR3、山内健司、松田弘子、大塚洋、能島瑞穂、石橋亜希子、井上三奈子、大竹直、河村竜也、堀夏子
アンドロイドの動き・声:井上三奈子

スタッフ
舞台美術:杉山至
照明:三嶋聖子
衣裳:正金彩
舞台監督:中西隆雄
演出助手:マキタカズオミ
ロボット側ディレクター:力石武信(大阪大学石黒浩研究室/大阪大学コミュニケーションデザイン・センター)
宣伝美術:工藤規雄+村上和子、太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
制作:西山葉子、金澤 昭

料金
前売・予約・当日共 一般:4,000円、学生・シニア:3,000円、高校生以下:2,000円

音響協力:富士通テン(株)
音声合成技術:株式会社エーアイ
協力:(有)あるく (株)アレス ヤマハ発動機株式会社
撮影協力:長野県佐久穂町(八千穂高原)
製作:大阪大学、ATR社会メディア総合研究所、(有)アゴラ企画・青年団
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
共催:(公財)武蔵野文化事業団


「青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト「アンドロイド版『三人姉妹』」」への3件のフィードバック

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