『観る身体』身体×カメラワークショップ by 岩渕貞太

◎ダンスを観る、撮す、生まれる
 日夏ユタカ×廣澤梓

●踊らない、ダンスのワークショップ

 それはちょっと珍しいダンスのワークショップだった。参加者がまったく、踊らないのだ。いわゆる、ダンス的な動きを求められることもない。
 それでも舞台はあって、照明も灯り、録音された音楽が流れるなか、ダンサーの岩渕貞太がひとり、踊る。それは以前、おなじくSTスポットで上演された岩渕の作品である『living』のワンシーン。時間にすれば10分程度、それが3回繰り返された。

 ワークショップの約10名ほどの参加者は、1回目は、設えられた観客席にただ座って、岩渕が踊るのをみていた。2回目と3回目のダンスについては、持参したカメラでその様子を撮影する。
 ただし、『living』はその場で繰りだされる音を聞きながら即興的に踊る作品である。また、岩渕の作品は、本人曰く、「触媒によって変わるところがあるダンス」でもある。ワークショップではCDにパッケージ化されている音楽※を再生し、それ自体は変化しないものの、作品の特性上、写真を撮影する参加者が発する音や気配、動きにも影響されるため、3回とも、似てはいるけれども、まるでちがうダンスになる。

「身体×カメラワークショップ by 岩渕貞太」は、映像作家の尾角典子による「身体×映像ワークショップ」とともに『観る身体』と題されたワークショップシリーズのうちの1篇である。人間の身体を捉え表現するふたりによる、それぞれの方法での身体を「観る」実験の機会であった。
 そしてフライヤーには、「踊る岩渕貞太を被写体として自由に写真を撮影し、観る側の意識と観せる側の意識の差などを楽しみます。」との記載があった。もちろん参加するには、ダンス経験も不要。そして持ち物は「デジタルカメラ(ご用意できない方は、事前にご相談ください)」という気楽な感じで、撮影者の技術などは問われなさそうだった。

 ただ意外にも、当日、ワークショップ開始前に会場にはいると、一眼レフのカメラの所持率が高く、ちょっと撮影会的な雰囲気。写真を撮るぞ、という気合すらも漂う。それゆえ、コンパクトデジカメを持参した筆者は、ほんの少し、怖じ気づいたりもした。
 一体、どんなワークショップになるのだろう? なにか強い目的があってのことではなく単なる好奇心に誘われての参加だったが、じつは、このあと、思いもよらぬ体験が待ち受けていたのだった。大袈裟にいえば、奇跡的な体験が。

【ワークショップの様子 提供=岩渕貞太 身体地図 禁無断転載】
【ワークショップの様子 提供=岩渕貞太 身体地図 禁無断転載】

●もともとは、観客に伝えるための機会

 とはいえ、このワークショップ、当然ながら、そんな奇跡を生むために催されたわけではない。まずは、「観客に岩渕貞太がやっていることを伝えるための機会」という目的が最初にあったようだ。そもそも、ワークショップには表現者を相手にしたものから一般の観客を対象にしたものまでさまざまあるけれど、今回に関しては後者で、しかも、「お客さんが段々と増えているなか、自分のやっていることの面白さを共有したい、興味をもってもらいたい」という意図があったという。このたび、岩渕にこのワークショップについてのインタビューを行った。そこでの発言も交え、紹介していきたい。

「ワークショップはダンサー向けにはずっと開催していたが、2年前からダンス経験のない人を対象としたものもはじめた。今年からは、観る側に自分がやっていることを伝えるには? やっていることを共有するには? ということを身体地図(岩渕のクリエイションチーム)で考えるようになった。
 その延長として、写真を使ったワークショップが可能なのでは? と。自分がどうみられているのかダンサーはわからない。だから、カメラを使って視覚化することで共有できるのでは? と考えた。訪れた人は何をみたのか、何を撮るのかということで参加しているから、語りやすさが生まれる。」

 岩渕は自身の過去のダンスを「没入型」だったと語る。ときとして、観客を「なかったことにする/置いていく」ことで、中へ中へとひとりではいりこんでいったことも少なくなかったという。しかしそれが、2010年からはじまる3本の実験シリーズ『UNTITLED』『雑木林』『living』の経験を経て変化した。

 この3作品は、音楽家で批評家の大谷能生との共同作業で、「音と体の関係を探る」が常にテーマにあったという。その過程で、観客とダンサーが公演中におなじ条件で共有できるものは音楽だけなのではないか? と気づき、観客と地続きの状態で何ができるのかを考えはじめたのだった。

「ダンサーの意識は観客からはみえないし、パフォーマーは観客がみてるものはみえないけれど、音はおなじものを共有できる。出演者として、観客とおなじようにも、どちらにでもいける体になること。ここからお客さんがみえますよというところにいないと、いっしょにいけない。」
 ここで岩渕のいう観客と「いっしょにいく」という表現は、パフォーマンスの場を単に発表の機会としてではなく、観客とのコミュニケーションによって変化していく生成の場として捉えているということだろう。

 ワークショップのひと月前に行われた横浜美術館のエントランス部分での公演(岩渕貞太 in 横浜美術館『触媒』、2013年2月)など、岩渕は劇場外での機会も多くもっている。
「いろいろな場所でやることが楽しめているのも、関係性という発想による。ブラックボックスの劇場だと周囲からの情報を削ることができる。そのほうが自分は気にしなければいけない要素が減るし、観客もみやすくなるということもあるかもしれないけれど。でも、できるだけなかったことにしない、あるものはあるとすることで、自分もお客さんも楽になる。」

 それを前提としたうえで、モノとの関係へと発展させたのが『living』である。この作品には椅子やタッチ式の照明などが登場する。ずっと変化がおこらず「絶対に変わらない」ものがある状態で、体がどこまで変化していくかを探るというものだ。

 この試みの延長線上にあるのが、「身体×カメラワークショップ」だった。「もっとお客さんのことを理解したい、一緒に深く潜りたい」という方向性への意識が強まった結果。今回の、写真を撮影して、そのあとに観客とパフォーマーがそれを一緒に観ながら共有するワークショップが生まれたのだった。それは、「観客とパフォーマーが共有できるのは音だけではないか?」という問い掛けからはじまった作品群が、実際にどれだけ届いていたのか、を確認する作業だったともいえそうだ。

 そして、パフォーマー側から観客に求められたのは、「踊る人間のなにを写そうと思ったのか」という意識の記録。はたまた、「踊っている人間はなにを思って動いているのかを知る」こと。それによって、「身体表現の楽しみを自分なりにみつけてもらう実験」だったのである。

●変容する撮影者という名の観客

 実際のワークショップの光景にもどろう。1回目、通常の公演のようにダンスが現前で繰り広げられたが、なんとなく、落ち着かない雰囲気。いつもなら数十人の観客がはいるSTスポットの客席に、十数名しか観客がいなかったせいもあるだろう。あるいは、写真をどのように撮ろうか考えていて、舞台への集中度を欠いていた、という側面もあったのかもしれない。
 しかもじつは、そのうちの何人かは、ダンスの公演を観るのが生まれてはじめてだった、ということもその後に判明する。そういう意味では、パフォーマーも観客も様子を伺っていた、との説明がもっともしっくりくる時間であった。

 それから、撮影に関する簡単な注意事項の説明があってからの2回目。突如、積極的に動きまわって撮影する観客たちが出現する。パフォーマーの動きにあわせ、立ったり座ったり、最前列に移動したり、ひたすら動きながらだったり。右往左往しながら、慌ただしくシャッターも切られる。一番イメージが近いのが、芸能人の囲み取材の雰囲気だっただろうか。ときに、他の撮影者の前に立ちふさがったりもして、撮影という名の競争のようでもあった。

 そのとき、踊っていた岩渕はこんな風に感じていたという。
「シャッター音が大きく聞こえてきて、でも、それは自分の外のものでしかなくて。調律できていないな、と思った。」
“調律”とは岩渕がよく使う言葉で、「身体が作用することで、その場にある物の見え方が変わったり、観客との関係性を繋げていく」こと。簡単にいってしまえば、2回目は、パフォーマーと観客との間でうまく“共有”することができず、それぞれが一方的な時間を過ごしてしまった、ともいえるだろうか。

 その後に、撮影された画像すべてをパソコンに取り込んでから、プロジェクターで照射しながらの簡単な発表会が行われた。ただし、3回目があるので、あまり踏み込まず、ときおり手短な感想を岩渕が発するぐらいの内容だったが。

 そのとき一番興味深かったのが、カメラは趣味だが、ダンス初体験という若い男性2人組の反応。彼らの写真は比較的、岩渕を中心に据え、なにかポーズを決めた瞬間を切り取るようなものが多かったが、じつは、他の観客の写真は、岩渕の手元や足元にだけ焦点が当たったものも少なくなく、さらには、床や天井を映したものもあったのだ。
 これは、最初の説明で「どのようにダンスを観ているかを記録してほしい」というオーダーがあったからだが、この発表会を経ての3回目での彼らの写真の変わり様は、ちょっとした見物だった。本人たちはあとで「もっと好きに撮っていいんだ」と思ったと語っていたように、写真に自由度が増したのである。

【ワークショップ参加者による、実際に2回目のダンスを撮影した写真。撮影者は左上から時計回りに1枚目と3枚目が阿部一貴さん、2枚目と4枚目が山崎貴大さん。禁無断転載】
【ワークショップ参加者による、実際に2回目のダンスを撮影した写真。撮影者は左上から時計回りに1枚目と3枚目が阿部一貴さん、2枚目と4枚目が山崎貴大さん。禁無断転載】

 3回目は、すべての状況が一変した。
相変わらず岩渕は、CDの音を頼りに踊っている。観客も変わらず、カメラ片手に積極的だ。けれど、明らかに撮影することに馴染んでいた。移動の仕方、撮影者どうしの距離感など、あらゆることがスムーズにもなっていた。なにより、撮影者たちがダンスを熱心に観ている感じがして、心地よい空間が生まれていたのだ。
 当然ながら岩渕もまた、その変化を踊りながらしっかりと掴んでいた。
「2回目にくらべシャッター音が重なることが多くなり、反対に無音の時間も増えた。参加者の発するさまざまな音が邪魔にならない。ノイズだったものが、“音”になっていた。」
 これは、ダンスの一要素として共有できた、ということだろうか。それまで邪魔だと感じられていた音が、踊りの味方になっていく。

 そこには、筆者が演劇やダンスを観にいったときにもっとも求めている、最良の空間があった。観客の集中力が高まり、一点に集約していくような静かな昂揚感とともに。カメラが間にはいってしまうことで、ふつうは舞台との距離が生じてしまいそうなところだが、逆に、近づく。それはまるでチームのような、能動的な観客集団が誕生した瞬間でもあった。

【ワークショップ参加者による、実際に3回目のダンスを撮影した写真。撮影者は左上から時計回りに1枚目と3枚目が阿部一貴さん、2枚目と4枚目が山崎貴大さん。禁無断転載】
【ワークショップ参加者による、実際に3回目のダンスを撮影した写真。撮影者は左上から時計回りに1枚目と3枚目が阿部一貴さん、2枚目と4枚目が山崎貴大さん。禁無断転載】

 ワークショップの終了後、岩渕はふと、こんな言葉を洩らした。
「多田さんのしていることと、少し重なる部分があるかも」と。
 それはおそらく、東京デスロック主宰の多田淳之介が、『モラトリアム』や『東京ノート』といった作品で企てていた、舞台と観客との関係性の話だろう。今回のワークショップが実施されたSTスポットで2012年5月に行われた『モラトリアム』には、パフォーマーとして岩渕も参加していた。

 それらの作品では、上演中に動いていいですよ、自由にしていいですよという提案が差しだされる。もちろん、動かないという選択もありだし、動かなければならない、という演出はされていない。いわゆる客いじりでもなければ、観客を安全な場所から追いだすことは目的としていない。

 ただ、パフォーマーと観客がいることで、そこが地続きになることで、なにがみえてくるか。そうやって観客の楽しみを膨らます企みだと筆者は感じているが、それが、カメラをもたすことで、フットワークの軽い積極的な観客を作り、舞台との関係性を楽々と築かせてしまったのだ。ダンス初体験の観客をもふくめて。

「思ったより観客と共有できる部分のレンジが広いと気づいた。こういったことは、なかなか確信がもてず、傲慢になりがちであるが、写真を通すことで、やれば見える形にできるということがわかった。ダンスを共有するためにはどうしても実際にやってみようという発想にいきがちだし、その楽しみはあるとは思うが、今回はべつの共有の仕方ができていたな、と。」

 もちろん、今回の場合は、少人数だったり小空間だったりして、一体感が生まれやすい状況ではあっただろう。パフォーマーの吸引力の強さも影響したはずだ。それでも、やはりカメラひとつで、こんなにもいろいろと開かれていくのは驚きだ。さらには、カメラがなくても可能な方法がないかと考えるとワクワクもする。

●ワークショップから、いま

 3月に行われたワークショップ以降も、岩渕は関かおりとの共同振付作品でカナダと韓国でも公演するなど、精力的に活動している。

 岩渕がインタビューのときに語っていた、以下の言が印象に残っている。
「これは主に舞台のことなのかもしれないけれど、作る人たちはコミュニケーションのプロフェッショナルになっていくのだと思う。発信の仕方として、舞台上だけでなくワークショップといった方法もふくめ、コミュニケーションの面白さを発見したり提示したり、新しく生みだしていくようなことなのかな、と。」

 10月末に池袋のあうるすぽっとで行われた、フリージャズ・ピアニストのスガダイローによる五夜公演『瞬か』のオープニングナイトに3名のダンサーのひとりとして出演した岩渕は、スガの身体に染み付いた即興=バトルの精神をまとったダンスを披露した。スガの即興演奏に、ダンサーはひとりずつおなじく即興で相対する。20分の勝負を3ラウンド。当日は、「対戦」相手とは一切事前の打ち合わせをせず、リハーサルすら別々に行い、顔すらまともに合わせることすらなく本番に臨む、という徹底ぶりである。

ピアノは舞台中央に、スガが演奏時、下手の客席側に背をむけるような方向で設置されていた。中央への配置はピアノの音飛びをよくするためのようだが、これにより、演奏者の背後に死角が生じることになる。
岩渕はこの状況にどう挑んだのだろうか? まずは、積極的にスガの視界にはいり、床や壁といった周囲のモノと戯れ、床を叩いたりして自ら音を発し、積極的に主導権を奪いにいった。さらには、客席に乱入したり、最後にはシャツまで脱いで応戦するなど、ひたすら攻めの踊りをみせたのだ。
 それは3部作以降に培ってきた、自身のからだの外との関係の領域で展開されてきた技が次々に発揮された、といっていいだろう。とくに、ソロや関かおりとのダンスではみられない手足を長く使った躍動感のある動きは、極めて勝負にでた感のある(とくに岩渕の最近のダンスをみているものにとって)、即興対決の興趣を味わえるものとなったのだ。

 かつて岩渕のいうコミュニケーションは、外部からの要因(主に音)を受けていかに踊るか、ということだったのではなかったか。ここにスガが自らの基盤とするブラック・ミュージックに脈々と受け継がれるバトルという要素が付加されたとき、自ら仕掛けに行くことで、観客を味方にして巻きこんだコミュニケーションが岩渕のダンスに出現した。それはどこか、「身体×カメラワークショップ」の体験と相似するものでもあったか。
『living』が音を共有し、場も共有することを目的とした音とダンスの“対話”だったとするならば、ワークショップやその他の公演を経たのちの今回の“対決”では、目の前で生成されているパフォーマンスが、300席の会場の観客の気配をふくんだものとして強く感じられたのだ。

 観客が劇場で一方的に観賞する場ではなく、おなじ時間と空間を共有しているものたちから生みだされる“なにか”に立ち会うという現在形の体験。それは単純な一体感ではなく、ダンサーとミュージシャン、観客という異質のものが交わらずに共存する、豊潤な時間だ。つまりいま、岩渕貞太のダンスは、獲得したものをひとつひとつ積み上げながら、そんな風な方向に進化をみせているさなかのようにも思える。

※大谷能生「舞台のための音楽2」収録
(文中のインタビューは2013年5月に横浜にて行った)

【筆者略歴】
日夏ユタカ(ひなつ・ゆたか)
 日大芸術学部卒。フリーライター。80年代小劇場ブームを観客&劇団制作として体感。21世紀になってからふたたび演劇の魅力を再発見した、出戻り組。BricolaQ内の「マンスリーブリコメンド」で演劇のオススメも行っている。Twitter: @hinatsugurashi
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/hinatsu-yutaka/

廣澤梓(ひろさわ・あずさ)
 1985年生まれ。山口県下関市出身、神奈川県横浜市在住。2008年より百貨店勤務。2010年秋よりTwitter上で「イチゲキ」を始める。2012年秋には「Blog Camp in F/T」に参加。2013年1月よりワンダーランド編集部に参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/hirosawa-azusa/

【上演記録】
WS『観る身体』

身体×映像ワークショップ by 尾角典子
日時:2013年3月18日(月) 19:30 – 21:30

身体×カメラワークショップ by 岩渕貞太
日時:2013年3月25日(月) 19:30 – 21:30

料金:各回1000円
定員:各回10名
会場:STスポット

協力:NPO法人STスポット横浜
主催:岩渕貞太 身体地図
助成:公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団


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