悪魔のしるし「悪魔としるし/Fiend and Symptom」

◎「と」が示す距離
 柴田隆子

「悪魔としるし」公演チラシ
「悪魔としるし」公演チラシ

 パフォーマンス集団「悪魔のしるし」の新作タイトルは、集団名にある所有ないし所属を表す格助詞「の」を、並列接続詞「と」に置換えただけのタイトルである。だが、この「と」によって「悪魔」とその「しるし」は別々の存在となった。この「悪魔」を演出家、その「しるし」を演出作品と考えると興味深い。わずか一音節の違いではあるが、演出家である危口統之と作品との間に距離が生じる。本作では、この距離が作品の見え方を大きく変えたように思えたのだ。
 換言すれば、これまでの悪魔のしるし作品は、多かれ少なかれ演出家危口が舞台上に地縛霊のごとく張り付いた、「危口ワールド」的展開であったとも言える。作品の素材も世界観も「危口」ならば、舞台上にも「危口」が可視化されていた。もちろんそれは演出家の死と執着を示す記号としての人形であり「ゾンビ」なのだが、ともすると他者不在の自己充足的な世界観にも見えた。そしてそれを避けるためになされる「物語」や「意味」や「解釈」などの形象化を脱臼させる演出上の試みが、作品へのアプローチを困難にしていた。

 今回も物語の中心となる「娘」が「危口」を象徴していることは明白である。しかし、娘を演じる高山玲子は、演出家の用意した言葉を自分のものにした上で観客に手渡していた。俳優として当然の行為なのであるが、この差は大きい。
 演出家の世界観は、俳優の語る言葉の中にその現実感が生じる。演劇の手法としてはごく古典的なものだが、観客との了解事項が成立していない舞台でこれを実行するのは難しい。高山が演じる「娘」は、高山の身体性を媒介に、語られる世界と彼女のいる世界が別次元であることを示す。この俳優の媒介が見えたこと、それが演出家と作品との距離につながった。

【写真は「悪魔としるし」公演から。撮影=宮村ヤスヲ 提供=悪魔のしるし 禁無断転載】
【写真は「悪魔としるし」公演から。撮影=宮村ヤスヲ 提供=悪魔のしるし 禁無断転載】

 物語の進行は心霊写真家であった父をめぐる娘の記憶という形式をとる。娘の記憶の中にある過去の出来事が浮かび上がり、時に現在の彼女の時間と接触する。そうした時空間の次元の境界とそのあいまいさを視覚的に作り出していたのが、下手上空に据えられた映像を映し出す四角錐の木製の構築物である。
 照明の邪魔にならずに映像を投影するために考案されたという枠構造の物体は、上手床の台形の張出と形の上で対称をなす。角錐のもつ視覚誘導の遠近法効果で、舞台空間は実際よりも奥行が深く見え、かつ視覚的に分断される。舞台上に同時に存在する時空間を示す視覚的補助線にもなり、枠内部も含む空間内の移動が容易にできるという点で、素朴な作りながらも、霊界やメディアなど次元の異なる世界を象徴する重要なファクターとなっていた。

【写真は「悪魔としるし」公演から。撮影=宮村ヤスヲ 提供=悪魔のしるし 禁無断転載】
【写真は「悪魔としるし」公演から。撮影=宮村ヤスヲ 提供=悪魔のしるし 禁無断転載】

 靖国神社の心霊スポット前での回想に始まり、父の職業をめぐる学校での思い出、先生の対応、父の期待など、娘の記憶とも妄想ともつかない情景が舞台に展開する。戯画化された登場人物たちは、記憶の中の人物であると同時に、霊界の存在でもある。冒頭の九段下付近にいる革命家や皇室関係者は地縛霊の一種であろう。生まれた時は千手観音だった教師、紋切型の返答を繰り返す雑誌編集者は、その職業に憑いた守護霊あるいは背後霊なのかもしれない。彼らの存在は1960年代の学生運動や天皇の戦争責任、教育やメディアの無責任体質などを批判しているようにもみえる。が、本作ではあまり深入りはしない。娘=「危口」は彼らのために墓を建て、「ま、いっか」と割り切るのである。

 では、娘=「危口」の関心はどこにあるのだろう。ひとつはこの上演そのものである。1980年代にブームのピークを迎えた心霊写真と小劇場演劇はある意味パラレルであり、心霊写真の構造分析は今日の小劇場演劇の現状分析にも通じる仕掛けである。
 劇中で行われるレクチャーでは、「心霊写真」ブームの根底にあるのは、不確かなものを現実に位置付けようとする欲望であるとされる。素材を体系の中に位置付けることで普遍的な価値に還元し、個別化のエピソードと共に再命名することで事実性を付与する構図は、なにも心霊写真だけに当てはまるものではない。芸術作品と呼ばれるものは、「芸術」の体系に位置付けられることで「作品」となる。素材への加工を署名付きで評価するのが芸術作品であり、加工の存在が不可視化されたものが「心霊写真」などメディアに流布する「現実」であり、実はそれらは表裏一体のものなのかもしれない。

 こうした生真面目な類推は、その後の場面で脱臼させられる。ことはそう単純ではないというわけだ。解釈項としてのキャプションを付けることが1980年代の演出方法だとしたら、その後の心霊写真の展開は、写真そのものの事実性から掲載される媒体への信頼に担保されたアクシデント性に移行する。そこではキャプションはもはや不要である。大衆にとって心霊写真そのものよりも、そのことで起きた事故の方がよりリアルな興味を引くのである。
 演劇の関心もまたこのアクシデント性に移行している。「心霊写真」をレクチャーする場面では、宮崎晋太郎が演じている講師が心霊写真家の父親なのかどうかはあいまいである。ここでは誰を演じているのかではなく、何が起きているかが問題なのである。現に観客の笑いが起こるのは、心霊写真のお題にロックバンド「キッス」の写真を提示され、その無理矢理加減にあきれながらも、なんとか答えをひねり出して場をつなぐ八木光太郎や武本卓也の「素」の態度に対してである。舞台上の設定から逃れられない彼らの姿が笑いを誘うのであって、俳優として練り上げられた演技や発想にではない。
 この舞台では「心霊写真」を例に、観客の受容の質がずれてきたことを「再現」しているのである。井上知子が演じる巫女が続けざまに出される台詞へのダメ出しでその神性さを失う様を、取材陣の質問に答える明石達也のカメラ映りのよい顔と観客席に背を向けてぽつんと立つ後姿のギャップを、客席の観客は等身大のものとして楽しむ。俳優に演技をさせない仕掛けが笑いを生む。こうした観客の視線そのものも暗に批判されているのかもしれない。

 もちろんこうした世界観は入れ替わりうるものとしてある。舞台はそのことも最後に示す。登場人物たち全員で集合写真を撮影する最後の場面。スクリーンに投影された写真に映る「娘」の姿は、霊のようにぼやけている。撮影場所があの世だった、娘こそが霊的存在であった、娘などそもそもおらず父親が生み出した妄想の存在だった、解釈はいろいろできるだろう。
 劇中では娘のいる世界と他の登場人物たちがいる世界は、接点を持ちうる別次元として示されていた。そのことに立ち返るならば、現実と虚構や妄想は容易に入れ替わる世界なのかもしれない、少なくとも「芸術」というものが曲がりなりにも成立する世界においては。

 この劇評も、ある意味、キャプションをつけて固定化する作業である。個々の観客がそれぞれに舞台を感じ取ればそれでいいではないかという考え方もある。が、現実の素材を多大な労力を払って作品化することに何か意味があるのだとすれば、そうした作品の一側面を言語に固定化することにも何らかの意味があるだろう。
 そして本作『悪魔としるし』は、そんな欲望を強く刺激する作品だったのである。
(観劇日:9月22日14:05の回)

【筆者略歴】
柴田隆子(しばた・たかこ)
 東京生まれ。学習院大学大学院身体表象文化学専攻修了。オスカー・シュレンマーの舞台芸術理論で博士号(表象文化学)取得。非常勤講師。専門はドイツ語圏を中心とした20世紀初頭の舞台芸術・舞踊論。劇評に「演出家が死んだ後で」—悪魔のしるし『倒木図鑑』」(『シアターアーツ』53号)。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/shibata-takako/

【上演記録】
悪魔のしるし「悪魔としるし/Fiend and Symptom」
相鉄本多劇場(2013年9月20日-23日)

作・演出:危口統之
出演:高山玲子(コツブ桃山城)、宮崎晋太郎 、井上知子、武本拓也(Takuya Takemoto Works)、明石竜也、八木光太郎

スタッフ
舞台監督:佐藤恵
照明:中山奈美
映像:荒木悠
舞台美術:石川卓磨
宣伝美術:宮村ヤスヲ
怪異監修:山室毅聡
制作:田辺夕子、金森香、岡村滝尾 (assistant manager)

協力:中田博士、伊藤啓太、平本瑞季、神尾歩
助成:アーツコミッション・ヨコハマ、セゾン文化財団

料金:前売 ¥2,500、当日 ¥3,000、学生 ¥2,000(各回10席)

「悪魔のしるし「悪魔としるし/Fiend and Symptom」」への1件のフィードバック

  1. 教室のシーンで子供たちの夢を聞くシーンがあったし、アフタートークも(予定通り)建築家になった人とならなかった人(キグチさん)という組み合わせに意味があるようだったので、僕はこの作品を、将来の夢を追う人をめぐる物語だと感じました。
    本物の夢を見つければ、大変な努力をしてあらゆる困難を乗り越えて、本物の夢をかなえなければならない。でもニセモノの夢ならばココチヨイ距離感でいられる。心霊写真が熱狂的に支持される理由は「信頼できる本物」である事とともに「安心できるニセモノ」である事ではないでしょうか。
    将来戦車になりたいと答えた子供は夢をかなえて戦車になることが出来ましたが、それは幸福ではなかったようですね。本物の夢をかなえても幸福になるとは限らない。いかにもニセモノな夢を追いかけているのに、意外と楽しそうな人々がいる。本当の満足、本当の幸福を得るためには、夢や目標に対して、どんな態度をとることが正解なのか。その迷路、その見えないゴールに関しての物語だと、僕には思えました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください