悪魔のしるし「わが父、ジャコメッティ」

◎再現の美学
 柴田隆子

悪魔 チラシ画像 ジャコメッティの描く肖像画は不思議だ。遠くから見ている時はちゃんと「顔」に見えるのに、近くに寄るとぐにゃぐにゃと塗り重ねられた絵具の跡しか見えなくなってしまう。絵筆がキャンパスに届く距離では絵具の跡にしか見えないのに、画家はどうやって描いたのだろう。1つ1つの線には大した意味などないように見える。が、距離をとるとそれは確かな像を結ぶ。悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』もどこかジャコメッティの描く絵に似ている。個々のエピソードは笑いを誘うだけの意味などないものに見えるが、距離をとると舞台芸術における「演劇作品」の新しい像を結んでいるように思えるのだ。
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KYOTO EXPERIMENT 2014

◎観劇体験「KYOTO EXPERIMENT 2014」
 柴田隆子

 芸術の秋に加え、オリンピックの文化プログラムを意識してか、あちこちで芸術祭が賑々しい。京都国際芸術祭KYOTO EXPERIMENTと相前後して、東京ではダンストリエンナーレを引継いだ「Dance New Air ダンスの明日」や「フェスティバル/トーキョー14」が、地元横浜でも「ヨコハマトリエンナーレ」とは別に「神奈川国際芸術フェスティバル」が開催されている。芸術祭の名ではないものの、複合的なイベントは東京近郊ではたくさんあり、その気になれば毎日どこかで舞台を見ることができる。では、なぜ京都なのか。

 芸術祭は祭りだ。同じ祭りなら非日常がいい。日々の雑事を忘れ、舞台に集中したい。JR東海だって言っている、「そうだ、京都、行こう!」。去年観て気になったShe She Popの公演は今年も京都のみだし、週末なら3~4公演が見られる美味しい設定。会場毎の一律チケット料金制も値ごろ感があるし、ついでに京都観光だってできるかも。次々に発行されるニュースレターや作品についての紹介記事を読むと、気になるんだよね。
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悪魔のしるし「悪魔としるし/Fiend and Symptom」

◎「と」が示す距離
 柴田隆子

「悪魔としるし」公演チラシ
「悪魔としるし」公演チラシ

 パフォーマンス集団「悪魔のしるし」の新作タイトルは、集団名にある所有ないし所属を表す格助詞「の」を、並列接続詞「と」に置換えただけのタイトルである。だが、この「と」によって「悪魔」とその「しるし」は別々の存在となった。この「悪魔」を演出家、その「しるし」を演出作品と考えると興味深い。わずか一音節の違いではあるが、演出家である危口統之と作品との間に距離が生じる。本作では、この距離が作品の見え方を大きく変えたように思えたのだ。
 換言すれば、これまでの悪魔のしるし作品は、多かれ少なかれ演出家危口が舞台上に地縛霊のごとく張り付いた、「危口ワールド」的展開であったとも言える。作品の素材も世界観も「危口」ならば、舞台上にも「危口」が可視化されていた。もちろんそれは演出家の死と執着を示す記号としての人形であり「ゾンビ」なのだが、ともすると他者不在の自己充足的な世界観にも見えた。そしてそれを避けるためになされる「物語」や「意味」や「解釈」などの形象化を脱臼させる演出上の試みが、作品へのアプローチを困難にしていた。
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ふじのくに⇄せかい演劇祭2013「黄金の馬車」

◎演劇の祝祭性と政治性
 柴田隆子

ふじのくに⇄世界演劇祭2013公演チラシ
演劇祭チラシ © Ed TSUWAKI

 宮城聡演出の新作『黄金の馬車』は、静岡にある舞台芸術公園内の野外劇場「有度」で上演された。境界のない野外空間を有効に使った本作は、演劇祭の名にふさわしく祝祭性に富んでいた。

 舞台中央の白木で作られた簡素な社は、劇中劇を演じる舞台にも、「黄金の馬車」にもなる。登場人物を演じていた俳優は、コロスとして舞台を語り、楽団で演奏もする。演劇という虚構において、本当らしさは見せかけに過ぎず、確かなものは何もない。賑々しい音楽と共に劇場空間そのものも姿を変えていく。
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「レヒニッツ(皆殺しの天使)」「光のない。」「光のないⅡ」
重力/Note「雲。家。」

◎「ことば」の彼方には何があったのか F/Tイェリネクのテクストによる4作品
 柴田隆子

 舞台芸術の祭典「フェスティバル/トーキョー」(以下F/T)2012年のテーマは「ことばの彼方へ」であった。ラインナップされた作品では、舞台芸術とことばとの関係を様々な形で問い直す試みがなされた。中でも目を引いたのが、オーストリアの作家エルフリーデ・イェリネクのテクストを用いた作品が、4作品も上演されたことである。
 イェリネクの「演劇テクスト」は、多くの引用からなり難解なことで知られる。登場人物や筋はなく、演出の力を介して初めて舞台に活かされるテクストなのである。
 F/T主催プログラムではヨッシ・ヴィーラー演出『レヒニッツ(皆殺しの天使)』、地点の三浦基演出『光のない。』、Port Bの高山明演出『光のないⅡ』、公募プログラムでは重力/Noteの鹿島将介演出『雲。家。』があり、4人の演出家のアプローチはそれぞれに個性的であった。ここでは、各作品がイェリネクのテクストとどのように向かい合ったかをみて行きながら、舞台芸術における「ことば」について、その役割を考えてみたいと思う。
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ロドリゴ・ガルシア「ヴァーサス」

◎ポエティックという魔法
 柴田隆子

「ヴァーサス」公演チラシ 面白かった。劇評の書き出しとしてこれほど拙い書き出しはないと思うが、初めてロドリゴ・ガルシアの舞台に触れて湧き上がってきたのは、「面白い」という感覚だった。暴力的で非情な「現実」を描きながらも、「ポエティック」に一種コミカルにまとめられた「ガルシア・ワールド」の放つ独特の美しさは、描かれているものの猥雑さを隠蔽するだけでなく、その「美」を受け入れることを観客に課す。私は諾々とそれに従った。しかしわずかに残った微妙な違和感は、反芻するうちに膨らんでいき、しばらくたってから大きな衝撃に変わる、私はなんてものを「面白い」と感じてしまったのだろう。こうした一連の反応を観客から引き出すのが、「ガルシア・ワールド」と呼ばれる由縁なのだと思う。
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劇団山の手事情社「オイディプス王」「タイタス・アンドロニカス」

◎「暴力」と「言葉」
  柴田隆子

「オイディプス王」「タイタス・アンドロニカス」公演チラシ
「オイディプス王」「タイタス・アンドロニカス」公演チラシ

 シビウ国際演劇祭(ルーマニア)「凱旋二本立て公演」と銘打った劇団山の手事情社「オイディプス王」「タイタス・アンドロニカス」が9月、アサヒ・アートスクエアで上演された。それ以前のバージョンとして、1999年の「印象 タイタス・アンドロニカス」と2002年の「オイディプス@Tokyo」があるが、今回の舞台はより「暴力」を様式化し、構成においても「物語」と「日常」の対比を明確にしていた。韻文によって書かれた原作は、その文体のリズムや様式性が物語の出来事からの距離を生み出しているが、山の手事情社は独自の演技メソッドである「四畳半」を用いて同様の効果を舞台にもたらしている。アシンメトリーで非日常的な動きとポーズをとっての発話は、我々の日常的空間との差異を浮彫りにし、舞台の重層的な空間構成を観客の感覚に描き出すのである。
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