ふじのくに⇄せかい演劇祭2013「黄金の馬車」

◎演劇の祝祭性と政治性
 柴田隆子

ふじのくに⇄世界演劇祭2013公演チラシ
演劇祭チラシ © Ed TSUWAKI

 宮城聡演出の新作『黄金の馬車』は、静岡にある舞台芸術公園内の野外劇場「有度」で上演された。境界のない野外空間を有効に使った本作は、演劇祭の名にふさわしく祝祭性に富んでいた。

 舞台中央の白木で作られた簡素な社は、劇中劇を演じる舞台にも、「黄金の馬車」にもなる。登場人物を演じていた俳優は、コロスとして舞台を語り、楽団で演奏もする。演劇という虚構において、本当らしさは見せかけに過ぎず、確かなものは何もない。賑々しい音楽と共に劇場空間そのものも姿を変えていく。

 話者、演者、奏者一体となっての人物造形は、宮城独特の手法である。登場人物を演じる身体と、その声を受け持つ身体は必ずしも一致せず、多様な声や音楽に支えられて、登場人物の身体にはいくつもの層が重なる。

 物語構造を反映して多層的に展開する舞台は、演劇が虚構性と真実性、公共性と私的な娯楽性の両極でゆらぐ様を描く。物事の裏表が空間的に示され、既存の空間的枠組の不確かさを晒す。虚実が入り乱れる演劇は、理想と現実、夢幻と現(うつつ)が交差する場である。

物語構造とその多層的な展開

 物語の主筋は、田楽一座の女優と土佐の国司の身分違いの恋と政情への影響である。貴族たちとのやり取りは客席からは遠景となる階段舞台で演じられ、女優カミーラとの恋愛は舞台前面の社で進行する。
 国司と女優という身分の違い、政治と芸能という職能領域の違いが2人の世界を視覚的に分ける。唯一重なるのが、恋愛という非日常が許される私的領域である。
 といってもカミーラにとって恋愛は一座存続のための経済的基盤でもある。原作とは異なり、美加理の演じるカミーラは、求愛者たちの愛には心を動かされたように見えない。公私の別は国司の側であり、カミーラにとって2つの世界とは、舞台と現実世界である。

 男性と女性を、政を行う公的領域と私的領域に分ける仕組みは、劇中劇『古事記』にも表れている。

 最初の「国生み」ではほぼ対等であった男女神は、「黄泉路下り」で女神は化け物となり、「天岩戸」で姉神が統べる高天原を荒らすスサノオノミコトは、「八岐大蛇」では大蛇を退治してクシナダヒメを娶る英雄となる。
 劇中劇で描かれる創造神話では、男性神と共に政に関与し国や神を生み出す存在であった女性神たちはやがて背景に退く。国を統べるのは短慮で暴力的な存在であった男性神だけになり、それを私的に支える妻としてヒメたちが現れる。土佐の国司の行動は、この構図が定着した世界のものである。
 ただし、この神話の構造の真実性は演劇化によって減じている。天岩戸の前で踊る女神は乳の垂れ下がった老婆が演じて笑いをとり、女優カミーラは女性神だけでなく男性神も演じる。男性の求婚者たちもスセリ姫などの女神になり代わり同じ台詞で求婚する。男性支配の正当性は、老若男女が虚構として視覚化された舞台を通してみるとあいまいなものに見えてくる。

「黄金の馬車」から
「黄金の馬車」から2
【写真は「黄金の馬車」公演から。撮影=日置真光 提供=SPAC 禁無断転載】

舞台空間の伸縮とゆらぎ

 舞台空間の移り変わりは、舞台と観客との境界もあいまいにする。

 ひとつは二度上演される劇中劇「黄泉路下り」の最初の上演場面である。劇は土佐の守たちのいる舞台奥を正面に演じられ、観客は舞台の裏側からその仕掛けを見ることになる。舞台奥から見ることで、観客は貴族に対する田楽一座側の視点を体験する。

 もうひとつは、群衆騒動を描くクライマックスの場面である。前列の席には小旗が配られ、役者の合図で「馬車を出せ!」と連呼するよう協力が求められる。観客は、カミーラに黄金の馬車を渡す約束を履行しろとせまる群衆の一部となる。役者の丁寧な誘導と音楽によって、この観客参加の動きは徐々に後方に広がり、群衆たちの熱狂が広がっていく様が、客席空間に視覚的に再現される。
 もちろんこれは心情的な同調ではなく、俳優の合図に合わせた身振りを観客が行ったに過ぎない。嬉々として参加したものもいれば、そうした演出に対して批判的な視線を向けていたものもいただろう。しかし、その個々の観客の表情は後ろからは見ることができず、後ろにいる観客には次々とカミーラを支持する群衆が増えていく様として見える仕掛けなのである。
 この虚構の一体感の演出は、俳優の「ありがとうございます。旗は後で回収します」の発話で終了する。ここで示される祝祭性は、あくまで演劇的慣習の上に成立する私的な娯楽である。政治的な関心とは無関係に演出される一体感は、遊戯性ゆえの楽しさを兼ね備えている。

現実と虚構の相対化

 カミーラと黄金の馬車をめぐる物語の外枠には、演劇という存在そのものを扱うメタシアター的観点がある。劇中劇を見に来る農民は舞台と客席をつなぐ存在であり、メタ的な観客でもある。彼らは『古事記』を題材にした舞台を見ても、内容よりも女優の美貌や視覚的わかりやすさを喜ぶ。
 口伝神話を書字記録化した8世紀初頭から、舞台の時代である室町時代までは600年以上の年月がある。彼らにとって劇の台詞は難しく、そこに描かれている事柄は彼らの現状にそぐわないのである。
 同様の時間的隔たりは、カミーラの物語を見る我々観客にも当てはまる。劇中劇の言葉は発話よりも英語字幕の方がわかりやすく、物語の構図も今日の現状に照らし合わせると違和感がある。

 物語の終盤では、革命的な騒動を巻き起こしたカミーラは、より高位の権力である大僧正に馬車を寄進して事態を収拾させ、合わせて恋愛関係も終結させる。
 公的な政治でも私的な恋愛でも争ってばかりの男性たちに対し、女性であるカミーラの懐の深さと一縷の寂しさをのぞかせる結末である。これは、娼婦から聖母への転換というお定まりのパターン、既存秩序への還元といえる。
 この結末はあまりにあっけなく「不自然」であろう。観客代表としての農民を登場人物に配し、「不自然に詳しい」説明を加えてまで内容を伝えようとしたのは、祝祭性を盛り上げるためではなかったのか。公的・私的領域の境界のゆらぎを視覚的に描き、歴史的成立過程において現状の姿だけが唯一の基準でないことを暗示したのは、その転覆の可能性を示唆するためではなかったのか。結局、カミーラは現実をあきらめ、演劇という虚構にのみ真実を求めて生きていくのだろうか。

 この物語の結末に対する「不自然」な感覚は、祝祭性の演出に同調した体験から来ている。しかし祝祭性は群衆騒動で終わり、観客に対して協力への謝辞をした時点で演劇的虚構は暴露されているのである。それ以後の展開は歴史化といってもいい。あれが後に語り継がれた話であれば納得がいこう。空間領域の境界が明示されていることが好まれる世界では、女優は虚構の側にのみ生きることが正しい選択である。

 現実は虚構によって物語化される。宮城の演出が問題にしたのは、こうした現実と虚構の相対化であり、演劇の可能性であろう。
 祝祭性を生み出す演劇の慣習力は、演劇という枠組を解体しようとする動きに関わらず、いまだ健在である。物語化されたものを批判的に見る観点は、近代以降を生きる我々には欠かせないものではあるが、まずは虚構に騙され、その遊戯性を楽しむことが大切である。
 演劇空間は神聖な異次元というわけではない。カミーラが心を砕くように、演劇は客が理解し受けなければ見てももらえない儚い存在である。空間の多層性が見せる様々な読みの可能性は、観客を楽しませた後で、考える種をもたらしたと言える。こうした多義的な提示の仕方が、本来の政治性なのではないだろうか。

【筆者略歴】
柴田隆子(しばた・たかこ)
 東京生まれ。学習院大学大学院身体表象文化学専攻修了。博士(表象文化学)。非常勤講師。専門はドイツ語圏を中心とした20世紀初頭の舞台芸術・舞踊論。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/shibata-takako/

【上演記録】
ふじのくに⇄世界演劇祭2013「黄金の馬車」 Le Carrosse d’Or [The Golden Coach]
舞台芸術公園 野外劇場「有度」(2013年6月1日・8日・15日・22日)

演出:宮城聰
原案:プロスペル・メリメ、ジャン・ルノワール
台本:久保田梓美
音楽:棚川寛子
出演:阿部一徳、石井萠水、大内米治、加藤幸夫、木内琴子、小角まや、鈴木真理子、大道無門優也、武石守正、舘野百代、永井健二、中野真希、本多麻紀、牧山祐大、美加理、三島景太、森山冬子、山本実幸、吉見亮、米津知実、若菜大輔、若宮羊市、渡辺敬彦
空間デザイン:木津潤平
照明デザイン:大迫浩二
衣装デザイン:駒井友美子
音響プラン:水村良
美術:深沢襟
ヘアメイク:梶田キョウコ、古城雅美、高橋慶光
舞台監督:三津久
照明操作:松村彩香
音響・演奏:山﨑智美
演出助手:中野真希
演出部:山田貴大
美術制作:佐藤洋輔、服部千穂
衣裳制作:丹呉真樹子、岡村英子、清千草
字幕翻訳・操作:コーリー・ターピン
制作:大石多佳子、尾形麻悠子
支援:平成25年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業
製作:SPAC‐静岡県舞台芸術センター


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