城山羊の会「効率の優先」

◎はたしてこれは効率を優先した結果なのか?
 大岡淳

「効率の優先」公演チラシ
「効率の優先」公演チラシ

 この芝居のタイトルが『効率の優先』と銘打たれているのは、直接的には、2件の殺人が起きてのち、緊急時の対応を先送りし犯罪を隠蔽してまでも、なお仕事を継続させようとする精神を指しているのだろう。安全対策を先送りにして「安全神話」をふりまくことにばかり専心してきた東京電力に象徴される、日本企業の無責任体質が揶揄されていることは明白である。まずはこの点を評価したい。同じテーマを扱っていても、新国立劇場『効率学のススメ』なる愚作と比べれば、はるかにこちらの方が面白かった。

 ただ問題は、事が起きてからの「効率の優先」は描かれていても、事が起きるまでの「効率の優先」が描かれていないことである。確かに、震災後と比べるとこの会社が「活況を呈してる」(台本15頁)ことは示唆されているが、かといって、この会社の社員たちが、極端な過剰労働に追い込まれているようにはとても見えない。ブラック企業であるとも思えない。むしろ、アベノミクス的な小春日和を謳歌しているようにすら見える。
 このような小春日和が、遠からず崩壊することを作者は暗示しているのかもしれないが、それにしても、この社員たちの抱える、目に見えないストレスのありかを考える上では「効率の優先」というタイトルはミスリーディングではないか。
 
 ちなみに、高度成長の入り口で、メーカーを駆り立てる需要過剰が、正社員である工員たちのみならず、部品を回収する回り屋や、内職の主婦たちまでも圧迫する状況を描いた傑作に、八木柊一郎『コンベアーは止まらない』がある。私自身この戯曲を演出した経験から痛感することだが、労働の中身を緻密に取材したリアリズムには、やはり説得力がある。しかしこのようなリアリズムは、作者の目指すところではなかったようだ。

 ではこの社員たちは、明確な自覚もないままに、何に苦しんでいるのか。それは、互いが互いの仕事の進捗、部署の異動、能力や業績、はては恋愛関係や家族関係までも噂しあい、上司が部下に対して本音の不満を聞き出そうとすらする、彼らが形成する人間関係そのものではないかと思える。従って、この劇世界が描く職場環境は、戦後幾度も語られてきた「日本的共同体」や「日本的経営」の範疇に収まっている。
 確かに、原発事故によって暴露された「原子力ムラ」は、決して競争原理の賜物ではなく、むしろ国策的、国家社会主義的に形成されたものだ(山本義隆『福島の原発事故をめぐって』みすず書房)。日本企業の隠蔽体質を揶揄することがテーマなのだとしたら、このような設定の方が正解だということになる。

 日本人的な「優しさ」や「気遣い」が充満する空気の中で、互いが互いを緩やかに監視しながら業務を遂行する日常の論理(作者の言い方では「効率」)が抑圧するものは、非日常的なもの―性愛と暴力である。ささいなきっかけで、このふたつが職場内に噴出する。効率化の体現者と見られていた専務と部長が、性愛に溺れる終幕のアイロニーに、このテーマが集約されている。ロゴスの抑圧に対してパトスが叛乱する、とまとめてしまえば、この芝居は意外に古典的な図式(バタイユ的というか澁澤龍彦的というか山口昌男的というか)に則っていることが判明する。
 一見、平田オリザに倣った微温的な「現代口語演劇」に落ち着くかと見せかけて、性愛や暴力がダイレクトに描かれる点に、劇作上・演出上のオリジナリティがある、と言えば言える。

 そうは言っても、自閉し完結した世界にひたひたと危機が浸潤し、その世界の限界と破綻が描かれるというドラマツルギーは、やはり平田オリザを思わせる。この方法論のメリットは、演技論上の統一感が出しやすいことであり、その点でこの芝居は成功している。お洒落なオフィスで、小声でぼそぼそとやりとりする社員たちの居住まいには、確かにリアリティがあった。
 逆にこの方法論のデメリットは、皮肉交じりの日本的共同体論を超えにくい点にある。「日本人ってのはこうなんだよなあ」という嘲笑気味の日本人論は、きっと今日も新橋あたりでサラリーマンたちが、ビール片手に語ってくれているはずだ。そして朝が来れば、彼らは宮藤官九郎の『あまちゃん』を観て、日本的共同体にも多くの美点があることを再確認し、元気を出して職場に向かうことだろう。
 そこで問いたいが、現代演劇が、求められてもいないのに、わざわざこのサイクルに加担することに何か意味があるだろうか。これが私の根本的な疑問である。

 端的に言えば、「会社共同体の人々はこんなふうに生きている」ことを再確認できても、「会社共同体の人々はなぜこんなふうに生きているのか」という問いかけにまで至らないことが、私のこの芝居に対する不満であった。
 この点で鮮やかな対照をなすのは、クリスチャン・ムンギウ監督『汚れなき祈り』(2012)である。これは、ルーマニア正教会修道院の敬虔な信者たちが、精神を病んだ少女への対処として悪魔祓いを施すが、それにより意図せず少女を殺してしまうという物語である。実話に基づいているそうだ。閉鎖的な共同体が、その共同体固有の論理に従い犠牲者を生んでしまうという展開は、『効率の優先』と同一である。
 ただ異なるのは、この映画で犠牲になる少女が、ドイツでの出稼ぎから帰国し、行くあてを失い、孤児院時代の親友であった修道女を頼ってこの修道院に住みついた、外部の人間であるという点である。そして最後には、この修道院の人々は、殺人の容疑で警察官に逮捕され修道院の外へ出ることになる。外部の人間を殺した罪は外部の社会によって裁かれる。
 かくして信者たちは、久々に街に出て、外の空気に触れ、茫然自失のまま「なぜこんなことになってしまったのか」と心の中で叫ぶ―かのように思われた。このような問いかけが自然と観客の心にも沸き起こる、衝撃的で、印象深いラストであった。そして彼らを連行するパトカーには雪が投げつけられ、警察官たちももちろん無謬の存在ではなく、横暴な国家権力に過ぎないことが暗示される。
 
 つまり『汚れなき祈り』では、外在的な視点を媒介して、宗教共同体の相対化が試みられている。『効率の優先』にはそれがない。終始一貫、内在的な視点のみで、自分たち自身への嘲笑や揶揄(「自虐ネタ」や「あるあるネタ」と言いかえてもよい)を含めつつも、結局は「日本人ってのはこうなんだよなあ」という慨嘆が反復されるばかり、と感じられた。

 しかしよくよく考えてみれば、いまどき、性愛や暴力の噴出を封じ込め、社員の心身を飼いならす手段は、「コーチング」だの「ファシリテーション」だの「メンタルケア」だの、もっと巧妙化しているはずだ。そしてそのような、感情労働(A・R・ホックシールド)を促進させる方法論においては、しばしば演劇的スキルが活用されている。この意味での演劇を批判する演劇をこそ、私は観てみたい。
 あるいは、「活況を呈してる」この会社の下請け、孫請け、さらにはそこで働く非正規雇用の人々は、何を考えどう生きているか。そこを媒介とすれば、今の日本社会において「日本的共同体」はもはやローカルな現象に過ぎないことが明らかになるだろう。そのような2013年の現実を描く演劇をこそ、私は観てみたい。

【編注】
 この原稿は「劇評を書くセミナー 東京芸術劇場コースII」第2回(合評会)のために書かれました。受講者の執筆した劇評は、>> セミナーページをご覧ください。(編集部)

【筆者略歴】
大岡淳(おおおか・じゅん)
 1970年兵庫県生まれ。演出家・劇作家・批評家・パフォーマー。SPAC-静岡県舞台芸術センター文芸部スタッフ、ふじのくに芸術祭企画委員、はままつ演劇・人形劇フェスティバルコーディネーター、静岡文化芸術大学非常勤講師、河合塾COSMO東京校非常勤講師。最近の演出作品―江戸糸あやつり人形座「マダム・エトワルダ―君と俺との唯物論」(ザムザ阿佐谷)。ブログ「日本軽佻派 大岡淳と申しますっ」。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ooka-jun/

【上演記録】
城山羊の会「効率の優先」
東京芸術劇場シアターイースト(2013年6月7日-16日)

作・演出 山内ケンジ

出演
鈴木浩介 石橋けい 岡部たかし 岩谷健司 金子岳憲 松本まりか 白石直也 松澤匠 吉田彩乃

スタッフ
舞台監督:森下紀彦・神永結花
照明:佐藤啓
音響:藤平美保子
舞台美術:杉山至
衣裳:加藤和恵・平野里子
宣伝美術:螢光TOKYO+DESIGN BOY
イラスト:コーロキキョーコ
制作助手:平野里子・渡邉美保(E-Pin企画)
制作プロデューサー:城島和加乃(E-Pin企画)

提携:東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団)
製作:城山羊の会

チケット料金
前売:3,500円/当日:4,000円
高校生割引:高校生=1,000円

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