悪魔のしるし「わが父、ジャコメッティ」

◎再現の美学
 柴田隆子

悪魔 チラシ画像 ジャコメッティの描く肖像画は不思議だ。遠くから見ている時はちゃんと「顔」に見えるのに、近くに寄るとぐにゃぐにゃと塗り重ねられた絵具の跡しか見えなくなってしまう。絵筆がキャンパスに届く距離では絵具の跡にしか見えないのに、画家はどうやって描いたのだろう。1つ1つの線には大した意味などないように見える。が、距離をとるとそれは確かな像を結ぶ。悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』もどこかジャコメッティの描く絵に似ている。個々のエピソードは笑いを誘うだけの意味などないものに見えるが、距離をとると舞台芸術における「演劇作品」の新しい像を結んでいるように思えるのだ。

 『わが父、ジャコメッティ』は、5月倉敷、6月横浜での試演会に始まり、10月に第21回神奈川国際芸術フェスティバル参加作品として横浜KAATで初演。京都エクスペリメントでの公演を経て、11月にはスイス・日本国交150周年関連企画としてスイス全土で展開する芸術祭「カルチャー・スケープ(CULTURE SCAPES)」に参加。クール、ベリンツォーナ、バーゼルでのツアー公演を行う。ジャコメッティの生誕地クールでは、巨匠ジャコメッティや西洋の劇場文化に対し、演劇の素人であることを独自の方法論とした「権威とのユーモアたっぷりの戯れ/演技」(ウルジナ・トラウトマン、11月6日付『南東スイス新聞』)と好意的な評を得ている。バーゼルでは、同じフェスティバルで上演されるチェルフィッチュの岡田利規や庭劇団ペニノのタニノクロウと共に、社会的連帯と集団内での「自己」の精神状態への関心を作品に反映させる演劇人として紹介された(アンドレアス・レーゲルスベルガー、11月12日付『バーゼル新聞』)。

 本作は、実父を巨匠ジャコメッティに重ねたドキュメンタリー・ドラマである。作・演出の父親である画家木口敬三は、舞台で絵筆を握りながら、自分をジャコメッティであると思い込んでいる認知症の父を演じる。作・演出の危口統之は舞台の作者として登場し、息子として父に接し、劇中では父の幻想の矢内原伊作も演じる。試演会後追加されたジャコメッティの妻アネッテ役に応募してきた大谷ひかるも、大学のミュージカルコースで4年間学んだ新人女優「大谷ひかる」として舞台に立つ。「本人」を元に作られた登場人物が織りなすプロットには様々な要素が盛り込まれ、家族の愛情や介護の問題、父と息子といった世代間あるいは西洋と東洋といった地域間の権力関係、社会と個の関係性、絵画と舞台芸術のメディアの違いなど多様な視点から解釈することが可能である。そしてそのように複層的に上演を受容できることが、悪魔のしるしの演劇作品の面白さでもある。対象化される木口敬三が、実際にキャンバスに描き出す筆致と共に、舞台上に配置された木口家所蔵の品々が作品のリアリティを支え、テクストを執筆し演出した危口統之の自意識と美意識が「芸術作品」としての強度を与えている。

 今回、横浜での試演会と本公演、京都とバーゼルの最終公演と観てきて一番印象に残ったのは、「演劇作品」としての高い再現性である。ここでいう「再現性」とは、字幕を必要とする海外公演では作品ごとのブレは少ない方がいいといったレベルの話ではない。登場人物は「本人」の再現であり、語られる台詞のテクストは日記や録音等で実際にあったことが証拠づけられる会話の再現であり、さらにその発話には録音された音源が用いられる。こうした「演劇は再現芸術である」というテーゼを愚直なまでに突き進めることが、この舞台の通奏低音になっている。そしてこの「再現性」へのこだわりは、危口の自意識・美意識に強く結びついているように思えるのである。

 客席にはいると、試演会などでも提示されていた木口家ゆかりの品々が舞台上に所せましと置かれているのが目に入る。上手奥のベッドの前にはイーゼルに架けたキャンパスや絵筆などアトリエにある品々、中央奥には白いレースの飾り布をかけたアップライトピアノ、舞台ばなには子供用のスワン型の藤製椅子やテープレコーダー、時計。なんだかよくわからない置物や、父や子供が描いた絵や工作物なども並ぶ。古き良き昭和文化を彷彿とさせる懐かしい品々である。下手にはキャンパス上に描かれた絵を映すスクリーンがあり、その奥では木口(父)が、木口(母)とアネット役の大谷ひかるとちゃぶ台を囲んで談笑している。そろそろ開演時間と思う頃、演出である息子危口統之が登場し、そろそろ始めるからと父親たちに準備を促す。キャンバス張り、舞台で使う絵の指定、カメラの位置確認などのセッティングの最中、唐突に父親はボンドと点鼻薬を間違えるエピソードを挿入することを提案し、大谷も後半で歌を歌いたいと言い出す。あいまいな返答で彼らをはけさせ、開演前の諸注意を観客にした後、危口も袖に引っ込む。

 これはよくある枠構造で、父親や大谷の提案もドラマの伏線であり、台本を書いた危口の指示を彼らは再現しているに過ぎない。だが、実際にあった提案を再現しているかのように見えるのは、彼らの「自然」な演技によるものなどではむろんなく、試演会やネット上に設けられた特設サイトなどで制作の過程が暴露されており、その延長線上にこの舞台があると思い込んでいるからである。だから舞台上にいるのが画家である木口の父親で、「母からの手紙」を書いた母親で、舞台上にある物が木口家の蔵から持ってきたものに見えるわけだが、偽物が混じっていてもわからない。重要なのは、そう見えることで舞台での「再現」の信憑性が高まることである。枠構造を装った導入についても同様のことが言える。大事なのは、再現としての演劇の始まりを告げる、「では、(芝居を)始めます」という幕開きの言葉なのである。ちなみにバーゼル公演では、キャンバス張りに代わり、通訳を介して危口が作品制作について詳しく話すシーンが挿入された。これはアフタートークならぬプレトークといった趣であった。

 こうした導入の仕方は、既に2010年にフェスティバル/トーキョーの公募作品『悪魔のしるしのグレートハンティング』で見たものだ。雨だったこともあり客入れが延々遅れた。演出家が現れスタッフに指示するもぐだぐだで、やっと始まる段になって、演出家は舞台制作の失敗の過程を言い訳のように説明し、始まりの挨拶でもって上演開始の体裁をとるものであった。もっともその後も演出家は作品内に登場人物として君臨し、舞台で起きる出来事を支配した。演出家の傲慢さとエゴイズムが赤裸々に描かれ、俳優のダメさ加減を晒し、それらを笑い面白がる観客をも、返す刀でバッサリと切ってくる少々意地悪な作風であった。

 今回の『わが父、ジャコメッティ』も基本的には同じ構図である。表現手段はかなり洗練され、毒気はオブラートに包まれたとはいえ、タイトルに「わが父」とあるように、息子であり演出家である危口統之自身が作品制作の前説をし、登場人物となり、彼の視点から物語が語られる。横浜、京都、スイスとそれぞれのバージョンに多少の変更はあるものの、基本的には同じである。いやむしろ、まったく同じ再現になるように、台詞のテクストはそのままスクリーンに投影され、録音された声が人物の立ち位置でピンポイントに再生するようシステム化されている。人物は演技というよりはポーズをそこここの場面で示す。その脱力した演技は「演劇の再演劇化」というよりは、「演劇」を支えている骨組の検証に近い。

 時代を思わせる乳母車に仮面をつけた父を乗せて親子登場、息子=矢内原はそのモデルとして椅子に座り、父=ジャコメッティはキャンパスに向かって描き始める。仮面をとった木口(息子)=危口(演出)は、矢内原伊作の日記を片手に上手前のマイクに向かう。父をジャコメッティに見立てて作品とすることを思いつき、演技ができないことを認知症という設定でカムフラージュし、呆けていることと同じことしか言わない芸術家とを重ねてみたのだと語る。父親をベッドに誘導した後、5歳の時に作った人形を示しながら、写生=現実を写し取ろうとする試みと、その試みを断念することから始まる、「作品」という自己の主観性による物象化を目指す行為について、想いを吐露する。ボンドと点鼻薬のエピソード挿入を要求する父の声が再生するテープから響き、木口(息子)=危口(演出家)は芸術への思索を中断する。

【写真はスイス・バーゼル公演ゲネプロから。撮影=Takio Okamura 提供=悪魔のしるし 禁無断転載】

 ドラマにおける演出家の絶対的な力は、父に対する敬愛の念を抱く息子の立場に立つことで、一見力を削がれたかのように見える。だが、写生を断念したところから作品は完成をめざすと自らが述べているように、素材自体は現実を切り取ってきたものかもしれないが、ここで起きていることは作・演出危口の美意識によって再構築されたドラマである。危口は作者として注釈をつけるためにマイク前に立つのである。

 ボンドと点鼻薬の取り違えに固執する父親像や、ミュージカルを歌いたがる夢見がちな女優の卵像は、作・演出である危口が作り出したイメージである。テープ再生などによってエビデンスの一部は示されるものの、ドラマのシーンとしたのは作家である。「父」や「大谷」は、「役」である。それは演劇における作家の「マチエール(素材の物質性)」を担う身体であり、作品には不可欠な要素でありながらも、作家が作品を完成させるのを邪魔する存在として再造形されている。他者だけでなく自己の身体までをもマチエールとして描くこの「作品」で問題化されているのは、「芸術」をメディアとして「現実」を再現することへの真摯な問いかけであるともいえる。

 ジャコメッティの妻、アネッテ役の大谷はミュージカルを学んだ女優の卵として登場する。ポーズを取りながら「名前を残したい」「ジャンルになりたい」と芸術家としての未来を語る。彼女と対になるのは、デパートの美術画廊で絵が売れる画家でありながら、生計を立てるために絵画教室などでも教えてきた木口(父)である。芸術から必要とされる人間と芸術を必要とする人間。必要とされる人間とそうでない人間との線引きはどこでなされるのだろうか。大谷は必要とされるために、まず「役に立つ」人間であろうとし、木口(父)の世話をすることを承諾する。夢を語っていた女優が一転、介護人の役を受け入れる場面である。「芸術どころではなくなりました」という危口(演出)の台詞は、芸術よりも現実を優先する今日社会の常識を反映する。

 危口が大谷と共にフランス語で歌い踊るオペレッタ風場面や、木口(父)によるボンドと点鼻薬の取り違え場面もきちんと挿入され、最後は息絶えたかに見えた父親がやおら起き上がり「ここがどこだかわからない」とフランス語で宣言して芝居は終わる。ラストの台詞はまるで芸術における立ち位置が見えなくなっている危口自身の姿にも見える。位相の異なる多くの「再現」が作者・演出家の注釈付で断片的に連なる本作において、脱日常性を突き詰めていったジャコメッティの芸術は越えられないものとしてある。介護が必要な木口(父)や介護役を受け入れないと舞台にたてない新人女優に重ねられているのは、それだけでは生計を成り立たせることが困難な今日の「芸術」である。

【写真はスイス・バーゼル公演ゲネプロから。撮影=Takio Okamura 提供=悪魔のしるし 禁無断転載】
【写真はスイス・バーゼル公演ゲネプロから。撮影=Takio Okamura 提供=悪魔のしるし 禁無断転載】

 危口は、見えるものを見えるままに描こうとした画家としてジャコメッティを位置付け、彼の作品を完成の確信が得られぬまま死によって中断された「挑戦の痕跡」としてみる(「挨拶文」より)。たしかに塗り重ねられた絵具の跡に見て取れるのは、「挑戦の痕跡」である。だが彼に見えたものは現実そのものではないし、その再現は画家の表現である。そこには芸術家のパースペクティヴが必ず介在する。そして鑑賞者がそこに美学を認めた時に、そのパースペクティヴは「芸術」の成立要因となる。本作における現実を元に構成された「再現」の数々は、再現芸術のショーケースのように我々の前に提示された。作品内の演出家危口は決して自分では物事を決めようとしない。スワン型の揺り椅子に腰かけながら、アネッテ役の大谷に向かい「不倫なんてどうですかね?」と尋ねる時のように。問われているのは観客なのだろう。観客はこれが芸術作品である限り、その信憑性は問わずに「作品」として受容する。再現芸術としての演劇では何が再現されているのか? 私にとって本作は、新しい舞台芸術への問いを作品化したものとして像を結んだのである。

【筆者略歴】
柴田隆子(しばた・たかこ)
 演劇・舞台芸術研究者。オスカー・シュレンマーの舞台芸術研究で博士号(表象文化学)取得。学習院大学・麻布大学非常勤講師、東京大学特任研究員。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/shibata-takako/

【上演記録】
悪魔のしるし「わが父、ジャコメッティ

作・演出:危口統之
原案:「ジャコメッティ」「完本 ジャコメッティ手帖」矢内原伊作(みすず書房)
出演:木口敬三、木口統之、大谷ひかる

映像:荒木悠
音楽:阿部海太郎
照明:大島真(KAAT神奈川芸術劇場)
音響:本村実(KAAT神奈川芸術劇場)[横浜公演]、小早川保隆[京都公演、スイス公演]
字幕操作:木口啓子
舞台監督:佐藤恵
グラフィックデザイン:宮村ヤスヲ
制作アシスタント:堀朝美
制作:悪魔のしるし、岡村滝尾(オカムラ&カンパニー)、澤藤歩(KAAT神奈川芸術劇場)
共同製作:KAAT神奈川芸術劇場、Kyoto Experiment
企画:悪魔のしるし、KAAT神奈川芸術劇場
製作:悪魔のしるし

試演会+公開ミーティング
KAAT神奈川芸術劇場(2014年6月26日)

主催:悪魔のしるし、KAAT神奈川芸術劇場
助成:公益財団法人 セゾン文化財団、アーツコミッション・ヨコハマ、公益財団法人 アサヒグループ芸術文化財団
料金:500円

横浜公演
KAAT神奈川芸術劇場(2014年10月11日-13日)

主催:悪魔のしるし、KAAT神奈川芸術劇場
助成:公益財団法人 セゾン文化財団、公益財団法人 アサヒグループ芸術文化財団、アーツコミッション・ヨコハマ
料金:
一般 前売 3000円/当日 3500円
シルバー 2500円
U24(24歳以下) 1500円
高校生以下 1000円

京都公演
京都芸術センター(2014年10月16日-19日)

主催:KYOTO EXPERIMENT
助成:公益財団法人セゾン文化財団、公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団
料金:
一般 前売2500円/当日 3000円
ユース・学生 前売2000円/当日2500円
シニア 前売2000円/当日2500円
高校生以下 1000円/当日 1000円
ペア 4000円

スイス公演
・Theater Chur(2014年11月4日)
・Teatro Sociale Bellinzona(11月6日)
・Neues Theater am Bahnhof, Arlesheim(11月11日)
主催:CULTURESCAPES TOKYO 2014、悪魔のしるし
助成:独立行政法人国際交流基金、アーツカウンシル東京、公益財団法人セゾン文化財団、公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団

上記3番目のバーゼル公演

料金:
Erwachsene(大人): 38.-(38フラン)
Auszubildende bis 30 J., IV, Bühnenschaffende(30歳以下の職業訓練生、舞台関係者): 25.-(25フラン)
Schüler bis 18 J(18歳以下の学生).: 15.-(15フラン)

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