#8 岸井大輔(ポタライブ「元」主宰)

「古典」発見-極めつけの「魔笛」

岸井大輔さん岸井 特に、モーツァルトのオペラを図書館のビデオで見たことが大きくて、ものすごく感動して、一気に元気になりました。野田さんや太田さんに感じたと同じものが、「魔笛」のビデオのなかにある。そこにはスピーディーな展開も売れそうな特異さもない。歌のうまい人がおとぎ話のようなストーリーを歌っているだけ。ぼくが頭で考えた劇とは違うけれども、演劇的に感動させられる。なんだろうこれは、と考えて、結局分からないという結論になった(笑)。ただ、この、わからないものを、自分で創らないと、あの辛い体調に逆戻りなんだということが、はっきりわかりました。それから、自分ではわからないけれども、おもしろい演劇を作るための方法論を何とかして獲得したいと思ってやってきました。

今思うと、80年代小劇場の作家さんたちも皆さん勉強家ですが、勉強してないフリをする。野田さんなんて、古典をありがたがる連中よりミーハーが信じられる、というようなことを書いていて、それを文字通りにとって僕はミーハーぶってたんですが(笑)野田さんなんて、勉強家に違いないのに。

-「夜魚の宴」の頃はまだ学生だったんですか。

岸井 いちばんぐだぐだのときですね。大学に入学したときから卒業しようなんて考えていなかった。最初から「早稲田一文中退カッコイイ」(笑)。モーツァルトに僕の思う演劇があると気が付いて、大学のシラバスを見てみたら、授業でちゃんと学べる!それからですよ、授業に出始めたのは。

-ところで、「夜魚の宴」というグループ名の由来は?

岸井 自分にはわからない「演劇の本質」を表現したくて、それは「宴」なんじゃないかな、と。あとは「空間」をあらわしたくて、夜桜と、夜の海を泳ぐ魚のイメージを重ねて。尾崎翠さんの『第七官界彷徨』を原作にした劇です。小屋は田端にあったディープラッツ。気にいっていた集団名なんですが、同じころ、柳美里さんの「魚の祭」が岸田戯曲賞をとって(笑)パクリだと思われたらいやだな、と思って、こっそりと名前をいっていたのを覚えています。

-「夜魚の宴」は何人ぐらいで活動していたんですか。

岸井 7-8人でしょうか。明確に劇団ではないので、公演毎に違うメンバーです。第2回公演が「文芸姉妹」で、全編文学作品の引用だけで成り立っている芝居です。ストーリーは「恐るべき子供たち」で、全台詞を文学の引用にしていました。古典を勉強しなければ、というガリ勉時代です。

-演出よりもテキストへの関心が強かったんですか。

岸井 そうですね。

-モーツァルトのオペラから演劇を感じたのも、テキストにおいてですか。。

岸井 音楽や身体については劣等感があったので、僕にできること、ということで、テキストから付き合おうとしました。

-卒論でモーツァルトの「魔笛」を取り上げたそうですが、どんな内容、結論でしたか。

岸井 たいしたことないくせに、構想だけでかい典型的卒論です、という前置きをした上で(笑)モーツアルトの「魔笛」を受けて、ゲーテが続編「魔笛第2部」の戯曲を書いています。それは「魔笛」の最後で勝者になる教団の主ザラストロが教団に絶望して一人山にこもるまでの物語とよめます。ところで、ドイツ文学をかじった人はみんな知っていますが、「ザラストロ」というのは、ゾロアスターのことで、ニーチェの「ツァラトストラ」もゾロアスターのこと。「魔笛第2部」のさらに続きとして「ツアラトストラ」を読めるんじゃないか、と考えて。「魔笛」をモーツァルト、ゲーテ、ニーチェによる三部作として読むという。恥ずかしいですね。

-モーツァルトの分析を軸にした演劇論ですか。

岸井 僕の勘では、「魔笛」で劇は貴族のものから市民のもの、封建社会から資本主義社会のもの、にうつった。近代的な劇場が誕生した瞬間が「魔笛」に書き込まれているんじゃないかと考えていました。で、卒論のころ、バルトにはまっていて。バルトのテキスト分析は劇演出に使えるんじゃないか、という勘がありました。ちょうど、テキスト分析を講義してくださっていた先生がいたので、リブレットのテキスト分析をしました。本当は、ゲーテとニーチェの「魔笛」も構造分析して上記の結論にいこうと思っていました。しかし、「魔笛」の台本でさえ僕の手に余る。あえなく撃沈です。

ひたすらワークショップ

-岸井さんがご自分のwebサイトに発表された文章によると、95年から「ワークショップ・シリーズ・海」による台本生成を始める、となっていますが、これはどういう試みだったんですか?

岸井 テキストばかり扱っていたら、身体が気になってきて、いろいろやってみようと思って、上演を目指さない稽古を始めました。そのとき、竹内敏晴さんの本に「海辺の出会い」というレッスンがあるのを知って、やってみたら、すごく面白かった。どういうものかというと、俳優2人と演出家でやるのですが、まず、俳優が一人、海辺に立っているという設定で立つ。それを10分くらいみて、どんな海かを推測し、もう一人の俳優がその海の空間に入る。二人は接触してもしなくてもOK。演出、つまり僕は二人の動き、「右手が震えた」とか「うなだれた」とかを、ひたすら観察してメモを取る。1時間のセッションの後、僕のメモをもとに、それぞれの俳優が何を考えていたのかを聞く。二人が同じ空間にいることに成功すると、特になにもしなくても、海が見えるんです。野田さんや太田さんがやっていたのはこれなんだなと、思いました。上演をしなくても稽古だけで、僕の見たい瞬間が作られていくからいいじゃん、と思ってひたすらワークショップをしていた時期です。

-「夜魚の宴」という劇団らしきものがあって、その創作方法を磨くためにワークショップを始めたんですか。それともそれまでの演劇に行き詰まりを感じてワークショップを始めたということなんでしょうか。

岸井 俳優の訓練と言ってやっていたんですが、いま思うと、明らかに自分の訓練ですね(笑)。この修行がなければ、僕は、俳優が何をやっているのか、今でもわからないままだったでしょう。多くの演出家や振付家は生得的に身体が作り出す空間に敏感なものの様ですが、僕は、ガリ勉して身に着けたんです。

-当時のワークショップで観察を徹底しているのは、そのころ既に「サウンドスケープ」という概念を提唱したシェーファーから着想を得ていたのでしょうか。

岸井 観察の徹底は竹内さんの本に書いてあるからです。でも、80年代育ちなので、古典の知識はないけれども、現代芸術の情報はたくさんあったんですね。だから、サウンドスケープとかを演劇創作の場にもちこむのは、そのころちっとも珍しくなくて、むしろ凡庸だったと思います。先にあげた「文芸姉妹」にしても、切り貼り小説というアイデアは岡崎京子の「PINK」にも出て来る。特にこのころは、強迫的に勉強していた時代なので、いろんなジャンルの、現代芸術のアイデアを読みあさって、やれそうなものは稽古場にもちこんで試してみたりしていました。周りにも、詳しいやつが多い。たとえば、木室は当時、邦正美さんのもとに通っていて、ラバノテーションを教わっていた。ラバンの方法によれば、ダンスをすべて楽譜のように記録できる。逆に、譜面上で考えられた振り付けがダンスの新しい世界を切り開いていっている。カッコいいと思いましたね。劇も譜面化できないのかと思って、いろいろ書いてみたりしていました。他のジャンルの人の話を聞くと、ぼくが演劇にたいしていだいている悩みなんかは、20世紀初めに通過しているように思えた。しかも、あるジャンル全体が曲がりなりにもそれを踏まえて進んでいるように見えたのです。他分野の現代芸術のアイデアで演劇に使えそうなアイデアを片端から試してみていた。

特に、最初のころの問題意識は「役作り」という概念でした。役作りはよい劇を作る上で有用なことが多いことは経験上認めざるを得ないわけです。ところで、役作りというからには、「ある人が別の人になりきる」ということですから、人格の一貫性を前提にしている技術ということでしょう。で、あれば、役作りをすることはアイデンティティーの存在を前提にしている。僕は、80年代に育ったポスト・モダニストですから、人間にはアイデンティティーがあるという前提はおかしいと感じるわけです。ので、まず、他のジャンルの現代芸術の成果を踏まえ、役作りを内破(笑)してやろうと思った。

それで、たとえば、現実の人がしゃべった内容を、テープにとり、テープおこしをしたものを台本にして、話した人を知らない別の俳優がその台本を読むというワークを考えました。俳優に渡すのはテープからおこした文字だけで、本人の情報は一切あたえない。すると、思いもよらない所が似てきたり、まったく違っているけど演劇になって見えたり、演劇にならなかったりするわけです。で、いろいろなテープおこしを、いろいろな俳優によんでもらっているうちに、「なにかを思い出している人」の話を俳優が読むと、僕の感じる劇が生まれやすい、ということを見つけました。これは僕にとっては大きな発見でした。そこで思い出した話を録音しテープから起こしたテキストを台本と言い張って上演すればきっとおもしろい芝居になるはずだ、と。で、のちに「1988年6月30日、あるいはバイエル」につながる「記憶の再生」のワークショップをすることになります。

-95年頃はそう考えていたわけですね。

岸井 そうです。いろいろな人に昔のことを思い出してもらい、録音し、テープ起こしして、台本執筆活動と言い張っていた。

-そのあと「P」というグループを作りますね。

岸井 「P」はグループではなく、ポタライブと同じで、方法の名前です。「P」のころは、現代演劇を考える上での標的が3つに増えていて(笑)「役作り」「個人の才能」「伝統」ですね。どれも「近代」的なものであって、この3つに頼らないで劇を作れるようにならなければ、現代演劇とは言えないだろうと考えていました。そうやって試行錯誤した結果、97年に「P」にたどり着くわけです。>>