#8 岸井大輔(ポタライブ「元」主宰)

演劇の素材=集団-観客を自由にする

岸井大輔さん岸井 ぼくは「P」の活動の中で、ブディストホールのような舞台を見てもらうのと野外で見てもらう違いに気が付いていました。例えばブディストホールで公演中にいったん緞帳を下ろして、また上げたりしましたが、そのときお客さんが休憩なのか公演中なのか分からないので、席を立ったりするわけですよ。それがすごくよかった。そこで、演劇の素材にはお客さんも入っていると気が付いたんです。ダンスだとお客さんが素材だとぼくは思わない。でも演劇では、見ている人の状態が演劇の重要な一部だと思います。

いま、ぼくは、演劇の素材とは複数の人間、すなわち集団であると結論づけています。演劇と呼びうる状態の集団を示すのが演劇作品であるというのがいまのぼくの到達点です。お客さんが演劇の素材の一部であるというのは、その気付きの第一歩ですね。歌舞伎や落語はお客さんの状態によって空間が決まるじゃないですか。「P」にはそれが入ってないことに気が付いた。

-演劇の素材は集団である、という結論に至るまでに、創作と思索を繰り返しながら模索なさったと思うんですが、そのいきさつはどんなものだったんでしょうか。

岸井 まず、客が演劇の素材の一部であるとして、客をきちんと作品として扱う方法はあるのか、と考えました。そんなときに、柄谷行人さんの「可能なるコミュニズム」を読んで衝撃を受けました。この本でぼくが理解したのは、以下のようなことです。交換に際して、売る側はいったん市場の奴隷になる、つまり自由はない。買う方には買うかどうかを決める自由がある。買う側は演劇でいうとお客さんですよね。これを演劇にあてはめるとお客さんは自由で、俳優は自由じゃないということです。

ところが、劇場では、客は自分が主体的な存在だと感じていないようです。柄谷さんによると、地域通貨を使えば、買う側は主体的になれるといいます。(詳しくは可能なるコミュニズムを読んでください)。ぼくは、現実の世界が地域通貨で変わるとはまったく思えなかったんです。ただ、鑑賞者こそが価値を生み出す主体であるという理念として、表現の場においては説得力があると感じました。客が主体であることを自覚させる方法を渇望していたこともあり、その本のまま、劇場内通貨を使って観客に主体的に活動させる演劇を考えてみました。

当時は入場料が1500円でしたが、「一働き」と書かれた劇場内通貨を15枚受付で発行した。場内に入るとテーブルが5つあって、コーヒーや紅茶のほかダンスや演劇などのメニューがあり、お客さんがそこから好きなものを選ぶ仕掛けでした。ダンスや演劇を購入すると、その一つ一つに隠れたストーリーがあって、買い方によってはいろんなストーリーを体験できるようになっている。

-いまのお話は、「P」のあと「4」という名前でなさっていた活動のことですね。

岸井 ええ、「4」です。なんで「4」かは、柄谷さんの著作を読んでいる人にはすぐ分かる。マトリックスの4番目の「4」なんです。当時、近代の劇場と資本主義が連動していると考えはじめました。いまのチケット方式の劇場が出来たのと資本主義の成立はほぼ同じ時期でしょう。そのコンテンツとして、いまの劇場演劇が出来た。ならば、ぼくらは資本主義の次の時代の演劇を考える必要があるという問題意識はありましたね。ブレヒトをケッと思っていたのに、そうか演劇のためにはマルクスが必用なんだと気が付いたり(笑)。

-柄谷経由でマルクスに至ったわけですね。

岸井 そう。柄谷経由で、お客さんを自由にするためには通貨を考えればいいのか。スゲー、と思ってやってみました(笑)。

「4」は公開実験-劇場無しで成り立つ演劇

-お客さんが公演中に地域通貨を使うという「4」の上演は具体的にはどんな風に進んだんでしょうか。

岸井 会場の中は、例えば喫茶店のような空間になっていると思っていただければよいでしょう。メニューからダンスや演劇を購入すると、そこでダンスや演劇が始まるという形ですね。あとは柔道家が柔道したり、引きこもりの人がいて、お客さんは5分間一緒に勉強するというのもありました。毎回決まったテーマがあるのです。お客さんが動く状況下、どうやったらそれぞれを見せられるか体験させられるか、を考えました。

いま思うと、このあたりで、集団にとっての美しさとは何か=演劇にとっての美とは何かと考えて試行していたのですね。だから、あえて、それまでは、醜いかもしれないと思って近づかなかったグループや団体にも近づいて「4」に参加してもらうことで、集まったそれぞれの集団を自分なりに「演劇に見える集団」として見せることに興味を持っていたんです。

-では、「P」のコンセプトをつきつめた先に考えたのが「4」だということになるでしょうか。

岸井 お客さんがチケットを買って、同じ価値のものをみんなで受動的に見る、そういう劇の見方がお客さんに刷り込まれている。でもこれって演劇史から見ると、歴史の浅いものではないでしょうか。資本主義の誕生とほぼ同じころ始まっている。演劇をその中だけで考えていると、演劇の全体を捉えることはできないのに、「P」はその範囲にとどまっている。そうすると、標的は劇場であると意識化されて、「4」はそのための公開実験のようなものでした。建物としての劇場がなくても演劇は成立するという実験に、お客さんに立ち会ってもらっているという形になりました。

-「4」が中断した理由はコンセプト自体に問題があったのか、それとも外的な理由ですか。

岸井 地域通貨を使うこと自体に行き詰まりがあった。

-観客の能動性によって演劇が生まれてくるという考えは正しいけれど、地域通貨を使うことには限界があるということでしょうか。

岸井 はい。

-そこで「4」は止まってしまったのですね。

岸井 そうです。

-そのころは、「4」のほかにも活動されてますよね。

岸井 銀座のペッパーズギャラリーさんから、現代美術のアーチストとコラボレーションしてみないかといわれてパフォーマンスを作・演出したりしました。現代美術作家の作品を選んでダンスをするとか、そんな活動ですね。

-それは2000年ごろですよね。当時はコラボレーションそのものが演劇的な探求のテーマになっていたのでしょうか。

岸井 美術家と音楽家が一緒に仕事するとき、美術言語と音楽言語だけだと作品を作りにくいですが、ぼくは演劇の作家ですから、美術でも音楽でもない作品を生み出すことが出来た。そのあたりを方法化できないかと思って取り組んでいました。ポタライブにはダンサーや音楽家が参加しましたが、なんとかまとめられたのは当時の経験が大きいですね。違うジャンルの人とまとめて一つの作品を作るということですね。

-コラボレーションの時期は、それまで演出家として蓄積してきたものを発揮するということになったのでしょうか。演劇の形式化ということからは一歩引いて、あくまで演出の職人のように活動していたのですか。

岸井 「P」とはまた別に活動していましたが、そう言ってもいいのかなあ。その当時、お客さんがどう主体的になれるか、なってもらえるかと考えつつ試していた。いろんなことを模索していたということです。

-いずれにせよ、観客が演劇の素材にならなければいけないという問題意識の下に試行錯誤していた。

岸井 そうですね。

「4」からポタライブへ

-「4」として谷中のイベントに参加したようですね。

岸井 <art-Link 上野-谷中>に呼んでいただいたんです。最初は銀座にあるペッパーズギャラリーのパフォーマンスがらみでした。

-横浜の街頭芸術活動も2001年だから、これも画廊のつながりから発展したのでしょうか。

岸井 当時関心を持っていたこととして、演劇の形式化とは別に、現代美術や現代音楽でのホワイトキューブはもうだめだという理論がありました。バブル以降の現代美術は街に出ることが増え、長崎で被爆した柿の木の2世を全国に植樹していく宮島達男の柿の木プロジェクトがあったり。あと火薬を使った作品で知られる蔡國強(ツァイ・グオチャン)の「地平線プロジェクト」などを知り、カッコいいと思いました。美術的な伝統を踏まえた上で実際の世界と真剣に向かい合っている。そういうことをしたいと考えて、99年ごろから地域活動を始めていました。そこで横浜の人に声をかけてもらった。それを「P」でやりました。

-地域に出て行くことを「P」で実行したのですか。

岸井 そうです。ともかく何でも「P」でやってみた(笑)。そのとき地域のおじいさん、おばあさんから話を聞くという経験を積んだので、そのあとポタライブで地域を取材する手法につながっています。地域で地元の人とわいわいやっているのを見て声をかけてくれたのが街頭芸術の方々です。その横浜市の方は「4」の公演にも来てくれて、地域通貨の考え方なら地元でもやれるとお考えだったようです。そうですね、やりましょうということで、横浜での活動になった。

そこで馬車道の話になるんですが、商店街がさびれているから活性化したいというお話だった。それで馬車道に行ったら、全然さびれてないじゃん(笑)。3ヵ月ほど通って調べたら、馬車道は昔、車の往来で栄えていたと地元の人は感じていることが自分なりに分かった。そこで車の往来が減ったことでさびれていたガソリンスタンドを活性化しようと思って、スタンドの敷地で能を上演することにしました。地域の取材から始めて、入場料収入でない形態で、地域空間を使って演劇が出来る手法にたどり着いた気がしました。

-地域通貨は使わなかったのですか。

岸井 地元の方々の話を伺うと、地域通貨どころではないと思うようになった。結構にぎわっているのに、自分たちの街はさびれているというのはどういうことなんだろうと思った。そのころから、それまで自分が見つけたり身につけたりしてきた考えとやり方をもって、どのように世界に立ち向かうかということを考えるようになりましたね。

-当時はまだ会社員?

岸井 ベネッセにまだいました。助成金無しで3ヵ月間横浜に通うなんてことは、会社員時代でなければ出来なかった。一銭にもならないわけだから。オフレコですけど(笑)。

-そのころの横浜での活動が、ポタライブにどうつながるのでしょう。

岸井 お客さんを主体的にするといっても、主体的なお客さんが見たいものをこちらが作らなければだめですよね。でも演劇の場合は特に、どんな演劇を見たいのか能動的なお客さんでさえよく分かっていないことが多い。活動しているうちにそう気が付いて、お客さん集団の望む演劇を作って提供する、という基本に帰った。こちらがネタを準備して、地域通貨でそれを選んでもらうのではなくて、その人たちが見たいものを作るために本気で取材しようという方向に転換しようと思った。つまり取材を通して、そこで暮らしている人たちがホントに見たい劇を作ればいいとそのころは思った。そこで横浜の話が来て、地元の人たちがにぎわいがないというのは、自分たちが見たい町の姿を見ていないからではないかと思った。取材すると、地元の人たちはあそこの路地がちょっと怖い雰囲気なので何とかならないか、よどんでいる気がするからもっと楽しそうな場所になればいい、などと言うわけです。地元の人のにぎわっている状態というのは、儲かること儲けることよりも、その一帯に家族連れや若いカップルが集まってきて、喫茶店などでおしゃべりしたりする姿ではないか。それこそ劇そのものではないかと思ったわけです。つまり地域に劇がほしいと言っているわけですね。そうするともう、ポタライブの誕生まであと一歩ですよね。

-そこで、劇場の中ではなく、街の中で演劇をするべきだということになる。

岸井 資本主義が始まる前は、寺社などの村の集会所で集まっていたけれど、都市に出てくると、そういうふれ合いの機会はなくなる。だから都市には集会所が必要で、みなが共通の価値と感じられることで出会い、盛り上がる劇場演劇を必要としていた。そのころの劇場にはだから、コミュニケーションもあったし演劇的な空間もあった。ところが、例えば街を活性化したいと考えている人たちは肝心の「おれたちのエリア」に劇がないと言っている。馬車道のおじさんたちも、劇場で芝居を見る楽しみは知っているけれど、資本主義の運動だけだと見たい芝居が見られない。資本主義の力とは別の力で、劇場的な一方的な関係とは別のコミュニケーションが生まれる劇を作らなければならないのだとあらためて気付かされました。それは建物としての劇場を造ることとは違う。そこで、お客さんを劇場的な関係から解放するということと、地域の人たちから劇を作るということがつながる、と思った。この二つが出会うところからポタライブのアイデアが浮かび上がってきました。

ですから最初のイメージは、ポタライブのお客さんはその街の人たちでした。案内人やダンサーは外の人でも悪くない。でも見ている人はその地域に住んでいる人で、そこで繰り広げられる劇は街の話であるべきだといまでも考えています。ポタライブの原初のイメージはそうだし、いまもそこに向かって頑張っているつもりです。>>