◎わたしたちの劇を押し広げるかすかな野蛮さと、生まれたての公共という劇中劇〜深澤孝史『とくいの銀行 山口』を演劇から読み直す
谷竜一
昨年度、10周年を迎えた山口情報芸術センター(以下YCAM)では『山口情報芸術センター[YCAM]10周年記念祭』として多様な企画が実施された。中でも独特の動きを見せていたのが、初の公募展として行われた『LIFE by MEDIA』の作品群である。本展では『PUBROBE』(西尾美也)、『スポーツタイムマシン』(犬飼博士+安藤僚子)、『とくいの銀行 山口』(深澤孝史)の3件が採択され、2013年7月6日から9月1日、11月1日から12月1日の二期に渡って山口市中心商店街において展開された。
『LIFE By MEDIA』は「メディアによるこれからの生き方/暮らし方の提案」を募集テーマとしている。募集要項に「メディアといっても、メディアテクノロジーに限らず、賑わいやコミュニケーションを生み出すことをここでは指しています(*1)」とあるように、特にこれまで一般に理解されているメディアアートをより拡張する試みが注視され、採択されたと言ってよいだろう。
さて、本稿において筆者は、深澤孝史『とくいの銀行 山口』を取り上げ、その劇評を書く。しかしそもそもこの作品はいわゆる演劇作品ではなく、強いて分類するならばリレーショナルアートに属する作品である。こうしたあらかじめ劇ではないものの「劇評」を書くことは可能だろうか? もし書けるとしたら、それはどのように書かれうるのだろうか?
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